思い出との再会-1

文字数 5,442文字

 タートルアンの近くに新しくできたラオス焼肉・シンダートを食べに行こうと、ビエンチャン在住の日本人、トモミから連絡があったのは、三月に入って間もないころだった。万穂は二つ返事で了承した。彼女とはしばらく会っていなくて、そろそろ連絡しようかな、と思っていたタイミングだった。
 ビエンチャンでも定番の観光地、黄金の仏舎利塔・タートルアン。仏教国のラオスらしいスポットで、タートルアン前の広場はビエンチャン市民の運動の場でもあった。万穂の家からも近いので、夕方涼しくなってきたころ、ときどき軽く走りに行ったりする。夜になるとライトアップされて、濃紺の空を背景に、幾何学的な曲線と直線を浮かび上がらせる金色の塔は、古めかしい情緒はないものの素直にきれいだと思う。万穂のスマートフォンの背景も、夜のタートルアンの写真だった。
 
 そのタートルアン近くに最近オープンしたシンダート屋へ向かうと、トモミはすでに外席を確保していて、万穂に向かって手を振った。
 少しぽっちゃりした彼女は、自分でも肉好きを公言しており、しっかりメニューをチェックして、すでに何を頼むか決めているらしい。万穂はそれほどこだわりもないので、トモミの好きに注文してもらった。
「乾杯」
 ビアラオのグラスを打ち合わせると、一気に半分を飲み干す。三月に入って急激に暑くなってきて、日が落ちた後もまだ、もわっとした熱気が辺りに漂っていた。
 従業員が赤々と燃える炭の入った七輪を運んできて、シンダート用の鍋を設置する。ジンギスカン鍋に似て、丸く盛り上がった中央で肉を焼き、その周りの溝にはスープを注いで、野菜鍋をするのだ。トモミは自ら率先して、中央に牛脂をのせ、周りの溝には白菜や空心菜などの野菜を投入していく。
「マホちゃん、最近どうしてるの?」
 豚バラやレバーを焼きながら、トモミが近況をたずねてくる。
「相変わらずです。トモミさんは今もジム通い、続けてるんですか?」
 前に会ったときは、パーソナルトレーナーをつけて、ジムでダイエットに励んでいると言っていた。急に、もうちょっと引き締めようと思い立ったらしい。
「とっくに辞めたよ。トレーナーがさ、いちいち食事にケチつけてきて。好きなものを食べられないなんて、生きている意味がないよ」
 トモミは焼けた肉を特製ピーナッツだれにつけると、おいしそうに頬張った。
「それは、トモミさんには合わなさそうですね」
「我慢して健康なのと、おいしいもの食べて早死にするのと、どっちが幸せかっていうと、あたしはおいしいものを選ぶわ」
 いかにもトモミらしい考え方で、万穂は苦笑しつつも、そのきっぱりしたところが嫌いではなかった。
 彼女は独特のペースと雰囲気で、あまり周りのことを気にせず我が道をいく人だ。その押しの強さを嫌って、距離を置く日本人もいたが、万穂はずっと親しく付き合っていた。彼女の方が年上で、あまり人とべたべたするタイプでもないので、頻繁に会うわけではないが、ときどきこうしてご飯を食べたりする。
 なにしろトモミは、ラオスでできた初めての友人であり、万穂にとっては「恩人」とも言える人なのだ。


 万穂がラオスに来る前のこと。大学を卒業して無名の中小企業に就職し、二年ほど働いたころから、なんとなく人生に行き詰まりを感じ始めていた。このまま今の職場で働き続けても、代わり映えしない生活が待っているとしか思えず、転職したい気もするが、さりとて特に資格もなく、これと言ってやりたいことがあるわけでもない。
 朝起きて、満員電車でぎゅうぎゅうに揉まれながら会社に行って、上司や同僚に気を遣いながら単調な業務をこなし、仕事が終われば一人暮らしの狭いアパートに帰って、ご飯を食べて、寝る。その繰り返し。ときどき友だちとご飯を食べに行ったり、買い物に行ったり。就職して間もないころは、自分で得た給料で好きな服を買うのが楽しかった。だけど、すぐにそれにも慣れて、心が動かなくなってくる。大学から付き合っていた彼氏と別れてしまったのも、そのころだ。そうするとますます、日常の色彩があせていった。こんな風に生きていて、いいのだろうか。そんな思いが、ふとした瞬間に去来して、もやもやとした感情をかき立てた。
 好きなことと言えば、旅行くらい。お金を貯めては、長期休みになると、ひとりで海外に行った。特に、東南アジアが好きだった。熱帯のゆるやかな時間の流れに身を任せていると、「きちんと」生きなければならない日本の生活が、息苦しく感じられた。もしこちらで働けたら楽しそうだなと、ぼんやりとした夢を描きもした。だが、今の仕事を辞めて、いきなり飛び込んでいくだけの勇気も行動力もなかった。
 そんな折、年末年始の休暇を利用してふらっと訪れたラオスで、たまたまトモミに出会ったのだ。そう、それも日本食屋の『海』だった。五日ほどの滞在の中で、日本の味が恋しくなって『海』にやってきたら、トモミがひとりでご飯を食べていた。海外で日本人に出会うと、それだけで親近感がわくものだ。自然と、一緒に飲もうという話になった。
「ラオスに住んでいるんですか?」
 冷えたビアラオをグラスに注ぎながら、万穂は興味津々でたずねた。
「そうそう。今年で四年目」
「四年! 長いですね」
 仕事の派遣などではなく、来たかったから来たのだと、さらりと言ってのけるトモミのことを、万穂は尊敬のまなざしで見つめた。彼女と話していると、ふらりと海外に来て暮らすのが、全然特別なことではないのだと思えてくる。
 そのとき彼女は、ラオスに来て最初は、こちらの大学でラオス語を勉強したと言った。
「こっちの大学に入ったんですか?」
「正確には、入学したわけじゃないけど。外国人向けの一年間のラオス語クラスがあってさ。そこでビザももらえるし」
「へえ、そうなんですね」
「その後、こっちで日本語教師の職を見つけて。こうやって気楽に暮らしているってわけよ」
 そんな風に海外に滞在する方法があると知って、万穂は急に視野が開けた思いだった。いきなり海外就職はさすがにためらわれるが、一年間学校へ通うくらいなら、ぐっとハードルが下がる。聞けば、入学するのはさほど難しくないという。
「こっちで暮らすと、世界観が変わるよ。日本とは、何もかもが違うから」
 そう言われて、万穂は内心どきっとした。行き詰まりを感じていた自分の人生も、もしかしたら変えられるだろうか。
「ラオスは治安もいいし、のんびりしているから、暮らしやすいしね。こっちにいると、何が本当の豊かさなんだろうって、考えさせられる」
 トモミは余裕のある笑みを浮かべて、そう言った。

 トモミの言葉は日本に帰った後も、万穂の胸にこびりつき、やがて本気でラオスへの移住を計画しだしたのも、考えてみれば自然な流れだった。
 連絡先を交換していたトモミに改めて相談すると、意外と面倒見のよい彼女は、大学入学の時期や手続きを丁寧に教えてくれた。ラオスの大学は秋入学なので、遅くとも夏前にはラオスに来て準備を始めたらいい、とのことだった。学費や生活費についても細かく教えてもらい、今ある貯金で十分やっていけそうだと、目途もついた。自分でも少しずつラオス語の勉強を始めて、退屈していた日常にも断然張り合いが出てきた。
 そして、万穂は思い切って会社に退職届を出して、六月の中ごろ、じめじめした梅雨から逃げるように、ラオスへ渡ったのだ。
「ラオスにおかえりなさい」
 日本食屋の『海』でトモミに再会すると、彼女は満面の笑みでそう言ってくれた。そのときに、しみじみと「自分の居場所」を得たような気持になったことは、よく覚えている。
 その後、無事に大学のラオス語クラス「ピーキアム」へ入り、一年間ラオス語を学んだ。率直に言って、ラオスでの生活は楽しかった。何もかもが新鮮で、ときには大学の先生をはじめとした現地の人の適当さにイライラすることもあったが、慣れるとうまく流せるようになってきて、むしろそのゆるさが心地よくなった。
 ラオス語クラスを修了した後は、国際NGOの仕事に興味があって、二週間のボランティアに参加して農村に滞在した。ラオスの田舎生活は、首都ビエンチャンの暮らし以上に衝撃の連続だったが、それもまたよい経験になった。国際協力の仕事に就くことは結局あきらめたが、代わりに日系企業の仕事が見つかって、今までラオスにい続けることになったのだ。


「今年のピーマイの予定は決まっていますか?」
 スープで煮込まれてくったり柔らかくなった野菜を器にとりながら、万穂が来月の長期休暇の話題を出す。ラオスでは、四月の中ごろが「ピーマイ」と呼ばれるお正月にあたり、その前後一週間近くが休みになるので、在住外国人は自国に帰省したり、旅行したりするのが常だった。
「私はベトナムのダナンを考えてる」
 トモミは手を上げてホールスタッフを呼び、追加のビールを注文した。七輪の熱さもあって、ビールがよく進む。ふたりとも飲める方で、すでに三本空いていた。
「いいですね。私も一度行ったことがありますが、すごくよかったですよ」
 その流れで、ラオス国内や周辺国の旅話で盛り上がった。トモミも万穂も旅好きで、何度か一緒に旅行したこともある。ラオスからなら、気軽にタイやベトナムにも遊びに行ける。そうした旅行のしやすさも、海外暮らしの醍醐味だった。

「マホちゃんはピーマイどうするの?」
「悩み中で。久しぶりにルアンパバーンへ行こうかなと」
「いいね。でも、ピーマイは混むんじゃない?」
「だから、街中じゃなくて、郊外の方へ足を伸ばすか迷ってます。昔活動したことのある村にも行きたいんですけど、ひとりじゃ難しいかな」
「そういえば、ルアンパバーンでボランティアやってたよね」
「そうなんです。田舎の村に二週間くらい。村の小学校で、子どもたちと活動して」
「私もラオス人友だちの帰省にくっついて、何回か田舎の方に行ったことがあるけど、本当に『村』って感じだったね」
「ほんと、物語に出てくる『村』みたいですよね。川で水浴びしたり、山でタケノコ掘ったり」
「ニワトリやアヒルを飼って、食べるときは自分たちで締めてね」
「朝、ニワトリの鬨の声で起こされるなんて、生まれて初めてでした」
「生活が自然で、シンプルで、ラオスの豊かさが詰まっている気がするよね」
 トモミの言葉に、万穂も深くうなずいた。国民の多くが農業で生計を立てているラオスでは、少し郊外へ行けばのどかな里山の風景が広がっていて、日々の食卓には、豊かな自然の恵みがのぼる。日の出とともに起き、日が暮れて夕食をとったら、早々と床に入る。何もないけれど、その何もなさが生活のゆとりとなって、人々は穏やかに暮らしている。

 焼肉と野菜鍋をお腹いっぱい楽しんだ後は、「マッサージに行こう」とトモミが提案してきた。この近くのいい店を知っているのだと言う。万穂もマッサージは嫌いでなかったので「いいですね」と賛成し、そのまま場所を移動する。

 電球で照らされた白い看板に、ラオス語と英語、さらに中国語でも「按摩」とある、ごくごくローカルなマッサージ屋の引き戸を開けると、レモングラスの爽やかな匂いがする冷たい空気が流れ出し、汗ばんだ肌をひやりと包んだ。若いラオス人の女の子が出迎え、マッサージの種類を聞いてくる。ふたりが定番の全身マッサージをお願いすると、そのまま奥に通された。足を洗ってもらった後、二階の個室へ案内され、マッサージ用のゆるい服に着替える。小部屋に並べて敷かれたマットレスに寝転がって待っていると、マッサージ師の女の子がふたり、部屋に入ってきた。
 万穂の担当は、二十歳前後くらいに見える若い子で、長い髪をクリップでひとまとめにして頭の後ろでとめていた。
「サバイディ」
 彼女はにこやかに微笑み、明るく挨拶をした。ちょっと子犬を思わせるような、素朴でかわいらしい子だ。万穂もつられてにっこりし、「サバイディ」と返す。
 まずは仰向けで、足のマッサージから始まる。万穂の足に触れた彼女の手はふっくらと温かく、ほどよい力加減が気持ちよかった。「これは当たりだな」と満足して目を閉じ、彼女の施術に身を任せた。
「どうですか、痛くないですか?」
 途中、彼女がラオス語で聞いてくるその言葉に、耳覚えのある訛りがあって、万穂はおやと目を開けた。昔ボランティアで滞在していたルアンパバーンの、やさしくはんなりとした方言と響きが似ていたのだ。
「あなたの出身はどこ?」
 ラオス語でたずねると、彼女は少し驚いたように万穂の顔を見てから、愛想よく答えた。
「ルアンパバーンです」
 やっぱり、万穂の思った通りだった。
「ウアイ、ラオス語が上手ですね」
「コープチャイ」
 褒められて、万穂は少々照れながら礼を言う。ラオス語を少しでも話せると、ラオス人はこうして「上手だね」と言ってくれる。お愛想だろうとわかっていても、悪い気はしなかった。
「どこで勉強したんですか?」
「ドンドークの大学で」
「ウアイは日本人ですか?」
「ええ、そうよ。見てわかるの?」
「きっとそうかなって、思って」

 その後しばらく沈黙が続き、彼女は静かにマッサージを続ける。足が終わると、彼女は万穂の隣に移動して、腕のマッサージに入る。手のひらをゆっくり揉みほぐしながら、彼女はふいに万穂の顔をのぞきこんだ。

「あの、私、前にウアイを見たことがあると思うの」
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