移ろう季節の空白-2

文字数 4,232文字

「俺は、彼女は現実的なんだと思う」

 日曜の午後、万穂は高山を誘ってカフェに来ていた。センのことがもやもやしすぎて、誰かに聞いてもらいたかったのだ。ひと通り話した後、どう思うかたずねると、そんな答えが返ってきた。万穂があからさまに納得できない顔をしたせいだろう、高山が苦笑する。
「確かに、友だちがそんなことしてると思うと、ちょっと引くけどな。でも、風俗と違って病気のリスクも低いだろうし。相手の男がそれなりにまともなら、いや、愛人をつくる時点でまともではないけど、とにかく、完全にいかれた奴じゃなければ、別にひどいこともされないだろ」

 そう言われると、反論もできなかった。センの選択が受け入れ難いのは、万穂の価値観の中でそれが「あり得ない」と思っているだけなのか。万穂はうつむいて、ストローで意味もなくカフェオレをかき混ぜた。
「彼氏もいるのに」
「まあ、彼氏さんは気の毒だよな」
 俺が彼の立場だったら、やっぱり辛いよな、と高山が言う。
「ほら、やっぱりそうなんじゃないですか」
 万穂は勢いづいて食いついたが、高山はでもさ、と続ける。
「その彼氏に金がないんだったら、しょうがないよな。その彼も、たぶんわかっていると思う」
「そうだとしても、やっぱりよくないですよ」
 万穂はやはり納得できなかった。
「そんな選択肢しかないのが、ラオスの貧しさなんでしょうね」
 高山はしばらく考え込むように、よく晴れて陽射しの降り注ぐ窓の外を眺めていたが、やがて万穂の方へ視線を戻した。
「マホちゃんさ、そのセンって子のこと、かわいそうって思ってるだろ?」
「そんなこと」
 万穂はとっさに否定しかけて、あるかもしれない、と思い直した。
「でもさ、マホちゃんの方がよく知ってると思うけど、ラオス人は想像以上にしたたかだよ」
 高山の指摘に、万穂もうなずかざるを得なかった。
「それはそうですね。一見、のんびりぼんやりしているのにね」
「俺もな、前に付き合ってた彼女に言われたことがあってさ。その子、仕事の領収書をごまかして、小遣い稼ぎしてたんだ」
「ああ、よくあるやつ……」
「そうそう、そんな大した額ではないけどな。たまたまそれを知って、『それはよくない』って言ったらさ、『生活していかなきゃダメだから』って」
「あるあるの言い訳ですよね」
「でも、それが現実なんだよな。『ダメだって言うなら、あなたがお金をくれるの?』って言われたよ」
 高山は肩をすくめ苦笑した。
「……現実ですね」
 万穂はあきらめの気持ちで身体を座席のクッションに沈めると、氷が溶けて薄くなったカフェオレを吸った。
「俺ら日本人の価値観からすると、それはやっぱどうなのって思うけど、でもそれは、経済的に余裕があるからこそ、言えることなんだろうな」
 それは、その通りなのだろう。「正しさ」を貫くためには、それ相応の土台が必要なのだ。万穂はしばらく、窓の外に咲くブーゲンビリアの濃いピンク色を眺めていた。熱帯らしい、くっきりした色。外は今日も、からっとした暑さなのだろうが、エアコンのきいたカフェの中は別世界だ。

「頭ではわかっているんですけどね」
 しばらくして、万穂はぽつりとつぶやいた。
「現実はそんなものだって、他人事としてなら、とっくに知っていたはずなんですけど」
 万穂は無邪気なセンの笑顔を思い浮かべ、ため息をついた。
「身近なところで目の当たりにすると、簡単に割り切れないものですね」
「そうだね。偉そうなこと言ったけど、俺もその気持ちはわかるよ」
「価値観って、けっこう感情的なものなのかも」
 高山も深くうなずき、万穂と同じように窓の外へ目をやる。
 熱帯の陽射しは容赦なく、コンクリートの道路を白々と焼いている。


 十一月に入り、ついに仕事も失って、万穂の日常は急にぽっかりと空いた。
「次の仕事が見つかるまで、長期休暇だと思おうっと」
 万穂はそう気持ちを切り替えて、昼間からカフェでのんびりしたり、今まで訪れたことのないラオスの地方都市に行ってみたりして時間を過ごした。けれど、一ヶ月もしないうちに、それにも段々と飽きてくる。

 チットと別れ、センとの連絡も遠のき、ここ半年ほど万穂の生活を賑わせていたラオス人とのつながりも、切れてしまった。日常は静かすぎるくらい静かで、平和で、自由だった。行きたいときに行きたい場所へ行き、食べたいものを食べる。誰とも話さない日も増えた。そうすると、急に自分の存在がこの異国の地で、ふわふわと浮いているような気がした。ラオスとのつながりをすべて失ったような感覚だった。自分は何のために、ここにいるのだろう。これからどうしたらいいんだろう? 問いかけても、自分でもわからなかった。

 いっそ、日本に帰ろうか、という考えが頭をもたげる。でも、日本に帰って何をする? 選ばなければ仕事はあるというから、派遣でもなんでも、潜り込めるだろうか。だけど今さら、日本の社会に適応できるのだろうか。そんな風にぐるぐる考えると、転職活動にも気が乗らない。ときどき転職サイトをのぞいたり、知り合いに「仕事を探している」と言ったりしているものの、具体的に応募するところまではいかなかった。多少の貯金はあるし、ラオスにいる限り生活費も安いから、余計に切羽詰まらないのかもしれない。
 ふと思い立って、久しぶりにトモミと連絡をとった。ラオスに来るきっかけをくれた彼女と話したら、何かが見えてくるかもしれないと思ったのだ。失業したことを話すと、「とりあえず飲みに行こっか」と返事が来た。
 トモミが提案してきた、新しくオープンしたイタリアンに向かう。住宅地の奥まったところにある隠れ家的な店で、こぎれいなガーデンには石窯があって、そこで焼いたぱりっとしたピザがウリの店だ。多くの外国人が暮らすビエンチャンには、ローカル食だけでなく、各国の本場の味を追求した店がいくつもあるのだ。

「無職おめでとう」
 トモミの身も蓋もないかけ声のもと、ワイングラスを持ち上げて乾杯する。そうした彼女の軽さが、万穂にはありがたかった。知り合いに会って失業したことを話すと、人によっては大げさに心配したり気の毒がったりして、それもまた湿っぽくて嫌だったのだ。
 熱々のピザをほおばり、おいしいワインを飲むと、とりあえずラオスにいてよかった、なんて思えてくるから、食べ物の力は偉大だと思う。
「じゃあ最近は、悠々自適の暮らしなんだ?」
「そうですね。旅行したりカフェ巡りをしたり」
「いいじゃない」
「正直言って、ちょっと飽きてきますけど」
 万穂が苦笑してもらすと、トモミは首を傾げた。
「これを機に、今までやりたかったことをやったら?」
「そうですね、だから最近は料理に凝ってます。この間はパンを焼きましたよ」
「いいね、丁寧な暮らし」
 トモミは相変わらずの軽い調子で言って、ワインをくっと飲み干す。万穂は彼女の空いたグラスに、カラフェから次のワインを注いだ。
「でもちょっと、焦りというか不安もあるんですよね」
「それはそうだろうね。次の仕事は探してるの?」
「はい、一応いろんな人に声をかけたり、転職サイトを見たりはしていますけど……」
 万穂もグラスに残っていた赤ワインをあけた。ぬるくなっていたせいか、果実の甘い香りが濃く鼻に残った。
「次をラオスにするかどうかも迷ってて。なんだか急に、ラオスにいる意味もなくなったような気分で」
「へえ、そう。ラオスにいる意味ねえ」
 トモミが不思議そうに繰り返すので、万穂は口ごもった。
「意味というか、理由というか……」
「マホちゃんはここに住むのに、意味や理由がいるの?」
 トモミがおもしろそうに笑った。
「難しいこと考えないで、好きならいればいいし、飽きたなら次に行ってもいいんじゃない?」
「……そうですね」
「まあ、マホちゃんは真面目だからね。私なんか、この適当な暮らしが気に入ってるから、いられる限りはいるつもり」
「私もそのくらいに、突き抜けたいです」
 トモミのあっけらかんとした考え方が、心底うらやましかった。

「何がそんなに引っかかっているの?」
「最近思うのが、ここでは、私はどうしたって外国人なんだなってことで」
「それは、事実そうなんだから。マホちゃんはラオス人になりたいの?」
「いえ、そういうわけでは……」
「ラオス人と結婚すれば、居場所ができるかもよ」
 遠慮のないトモミの口ぶりで、チットのことを思い出し、万穂は少し顔をしかめた。
「それは無理です。はっきり思い知りました」
「ラオス人の彼氏とは別れたの?」
「……はい。なんというか、いろいろあって」
「そう。それはお疲れ様だね」
 はい乾杯、とトモミがグラスをかかげ、万穂もあわててグラスをとって乾杯する。
「でもそれなら、外国人としてここで暮らしていくのは、仕方ないことだよね」
「それが時々、寂しくなるんです。結局ラオス人とは、わかり合えないのかなって」
 万穂が言葉を選びながらそう言うと、トモミは目を瞬かせた。
「そんなの当たり前じゃない?」
 彼女は当然のように言い切った。その言い方に、万穂は内心でむっとする。これでも万穂は、ラオス人と積極的に関わって、わかり合うための努力をしてきたつもりだった。トモミは万穂の様子には構わず、言葉を続けた。
「だって、日本人同士だって、わかり合えないんだよ?」
「でも、ラオス人よりは理解しやすいですよね」
「まあ、多少はね。だけど日本人ならわかり合える、外国人だからわかり合えないってのは、幻想だよね」
 トモミはチーズがたっぷりのったピザをひと切れとって、手で半分に折りたたんでかぶりつく。
「でなきゃ、世の夫婦がこんなに離婚してないよ」
 万穂が黙ったままでいると、トモミはおかしそうに鼻で笑った。
「もっと気楽にいこうよ」
 そう言ってトモミはピザを食べきり、サラダに手を伸ばす。万穂は少しいら立ちを感じたが、トモミの意見に反論もできなかった。万穂はこの議論を終わりにしようと、それ以上は何も言わず、目の前の食事に意識を向けた。

「おいしいご飯とお酒があって、のんびりと平和な日常があって。それで十分じゃない?」
 トモミが慰めるように言い、万穂もだんだんと、自分が考えすぎだろうかと思いはじめた。悩んだって仕方ないのだから。とりあえず、今の生活を楽しむのが一番なのだろう。

 だけど、あまりにも先が見えず、自分の気持ちもわからなくて、もやもやとした迷いは、簡単に晴れそうもなかった。
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