(二十二・二)ラヴ・バラッド

文字数 1,750文字

 しばし沈黙の後、ノラ子が頷く。
「分かったわ」
 何が分かったんだ。ぎょろりとノラ子を睨み付けるゴロ助に、けれど静かにノラ子が答える。
「あなたの、望み通りにすればいい」
「何だと」
「その代わり、最後にもう一曲だけ歌わせて」
「本当か」
 頷くノラ子に、ゴロ助も頷き返す。
「よし、一曲だけだぞ」
「ありがとう」
 固唾を呑んで見守る観衆に向かって、ノラ子がアカペラでラヴバラッドを歌い出す。

『ねえ、あなたを愛してる
 あなたを愛しているから
 憎しみも悲しみも
 世界のすべてをわたしなら
 喜びに変えてみせる
 あなたがそばにいてくれるなら
 あなたがそばにいてくれるから……』

 静寂の空間に、ノラ子の声だけが響き渡る。

『ねえ、あなたを愛してる
 あなたを愛しているから
 宇宙の果てでも
 わたしならあなたについてゆける
 あなたの後を、あなたの跡を、
 わたしなら、ついてゆけるの』

 聴き入る聴衆。しかしこの時ノラ子が歌い掛けるその相手は唯ひとり、今目の前で自分に向かってナイフを突き付ける男、ゴロ助のみ。そのゴロ助は混乱し取り乱す。
「止めろ、止めてくれ!」
 ゴロ助の脳裏に、幼い日々の記憶が去来する。甦る母の子守唄の歌声と共に。
「頼むから、止めてくれーーっ」
 ゴロ助は耳を塞ぎ、ステージの床にうずくまる。両手で耳を覆って、ということは、ゴロ助は詰まりナイフを手から離し、ナイフは床に落下する。

「ねえ、あなたを愛してる
 あなたを愛しているから……
 たとえ宇宙の灰になっても
 あなたといたい』

 スタッフのひとりが駆け寄り、落ちたナイフをさっと回収する。ゴロ助は床にうずくまったまま。やがて通報を受けた警視庁の警官が、ゴロ助を現行犯逮捕。これにて一件落着。中野サンプラザのノラ子コンサートの幕は、静かに閉じられた。
 翌日TVのワイドショー、新聞の一面によってノラ子の事件が報道され、大衆へと広く伝えられるや、人々は口々にノラ子の歌を絶賛した。
「流石ノラ子、殺し屋の殺意すら失わせるなんて」
「やっぱり、我らの歌姫は違うなあ」
「正に天使の歌声。俺も生で聴きたかったな、まったく」
 しかし肝心の事件の核心であるところの、ゴロ助にノラ子殺害を依頼したその主は一体誰なのか。これを暴こうとするマスメディアはなく、警察もまた捜査には及び腰で煮え切らない。加えてそのゴロ助は、留置場にて口封じの為殺されてしまう。が死因は自殺とされ、真相は闇に葬り去られた。

 コンサート会場への刺客作戦は失敗に終わったが、これで諦めるMr口谷ではない。鼻息荒く、ええい、今度こそ。と次なる刺客を送り込もうとした矢先、警視庁の盟友からストップがかかる。
「Mr口谷さん、あんたしばらく、自重した方が良いよ」
「なぜだ」
 問うMr口谷に、答えて盟友。
「今回の一件でだな、一般大衆から、警察さん、どうかノラ子を守って、との要望が多く寄せられてね。ここしばらくは、彼女のコンサートに機動隊を配備し、厳戒態勢で警護に当たることになったのさ」
「まじかい」
「それに巷じゃ、亜辺マリアを潰したあんたが今度はノラ子まで潰しにかかってるんじゃないかって、専らの噂だよ」
「けっ、噂なんぞくそくらえだ」
 苦虫を噛み潰すMr口谷。仕方なくノラ子への攻撃は一旦諦めたが、その代わりノラ子を新人賞のノミネートから外すよう、年末のレコード大賞の主催者に圧力を掛けた。
 一方ノラ子はといえば、Mr口谷からの数々の嫌がらせ、脅迫にも屈せず歌い続けた。そんなノラ子にファンのみならず、多くの国民が熱い声援を送る。ノラ子の歌はますます磨きが掛かり、更にピュアに、更に美しく昇華され、人の心を包むやさしい歌となっていった。誰もが癒され、励まされた。一般大衆ばかりではない。Mr口谷の新人賞レースへの圧力に機先を制するかのように、ノラ子は「歌うことに専念したいから」と、すべての新人賞を辞退することを宣言。これにはライバルの新人アイドル、歌手たちも吃驚。流石ノラ子と、こぞってノラ子を尊敬し、愛し、ファンとなった。そしてノラ子のコンサートに出掛け熱く声援を送り、ノラ子の歌に感化された多くの芸能人たちが、ドラッグから脱け出さねば、と誓うに至った。
 東京の街にも、そろそろ冬の足音が忍び寄る、時は既に十一月末である。
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