(三・一)響子の過去

文字数 3,362文字

 その後、若葉荘に住む若き夢野響子が、手作りの鯖の味噌煮を載せたお皿と共に、やっとダンボールの野良猫に会いにやって来たのは、春もとうに終わった初夏のことだった。
 アパートからほんの目と鼻の先にある原っぱに足を運ぶ位で、どうしてこうも時間を費やしてしまったかと問えば、それにはちゃんと訳があった。
 当時、響子は失意のどん底にあり、立ち直るのに必死。毎日ひとりぼっちで懸命にもがいていたから。無論まだ傷は癒えず、完全に立ち直ったとは言い難いが、多少心に余裕のようなものも生じてきた。そこで、果たさねばと気にはしていた野良猫との約束。それを何とかせねば。それに野良猫のことだって気になるしと、この日のこのこやって来たのだった。
 では響子が失意のどん底にあった、その理由とは何か。それを語るために、彼女の生い立ちから振り返ろう。

 それは西暦一九三〇年、四月。
 桜舞い散る頃、響子は信州の農村で元気な産声を上げた。しかし十歳を過ぎる頃日本は第二次世界大戦に巻き込まれ、娘盛りの十五歳でようやく終戦。田畑は荒れ放題、食糧不足のため、響子はがりがりに痩せ細っていた。
 家は貧しく、多額の借金も有った。響子の両親は借金返済と食い扶持を減らすため、末娘である響子を、泣く泣く東京に奉公に出さざるを得なかった。が、その扱いは人身売買と変わらぬ劣悪なものであった。その後も響子の実家は極貧から脱け出せず、凶作続きで、遂に一家は無理心中。とうとう響子は、帰る故郷も家も失ってしまうのである。

 このように悲惨極まりなき響子の人生にあって、それでも挽回のチャンスが巡って来た。それは、歌手としてデビューすることだった。
 響子は長年の苦労のせいか声はしわがれていたけれど、生まれつき歌が好きだった。幼い頃からどんなに辛く悲しく苦しい時も、歌を忘れず、事実歌を口遊むことで自らを鼓舞し、何とか耐え忍んで来た。
 響子の奉公先は稲藤会という戦後のどさくさに紛れて伸し上がった広域暴力団の組長宅で、彼女は女中として来る日も来る日も一日中こき使われていた。
 そんな或る日、響子十九歳、八月お盆の日の午後のこと。普段から組に出入りのある芸能界関係者が集い、何かと思えば広々とした庭で宴会が催された。響子も駆り出され、調理、配膳、お酌にと大忙し。組長のご機嫌も客の酔いも最高潮に達した頃、何を思ったか組長の奥さんが突如響子を呼び寄せた。
「ちょっと響子、あんた歌上手いんでしょ。みなさんの前でご披露なさい」
 極道の妻たる奥さんの命令には絶対服従、逆らうことなど許されない。飲んで騒いで顔面まっ赤に酔っ払った連中の前で、響子は仕方なく歌うことに。何を歌えばと思案し浮かんだのが、当時NHKラジオ『ラジオ歌謡』で放送され人気のあった『夏の思い出』。

『夏が来れば、思い出す……』

 最初は緊張していたものの、一度歌い出したらもう止まらない。普段から鼻歌で鍛え上げた自慢の喉で、見事歌い切った。するとそれまで騒々しかった宴の席が、なぜかしーんと静まり返っている。やばい、場を白けさせちゃった。奥様に叱られる、どうしよう……。
 びくびくしながら辺りを見回すと、しかし事態は逆。こともあろうか強面、狡猾なる面々が、てらいもなくすすり泣き、はたまた感動に目をうるうるさせているではないか。
 どうして。戸惑う響子の横に来て、組長の奥さんがため息混じりにこう零した。
「あんたの歌ええわ。情がこもってる」
 言われてみれば、成る程確かにそうかも知れない。何しろ生まれた時から苦労続き。辛酸を舐め尽くして来た響子の歌は、そりゃ荒削りで飛び切り上手いとは言い難いが、そこには独特の、彼女でなければ出せない味というものがにじみ出ていた。聴く者の心を揺さぶらずにはおかない、何とも言えない悲哀の情、素朴な農村風景が浮かんで来るような郷愁。それらは歌の旋律が明るくテンポが良ければ良い程、逆に哀愁の情を際立たせた。ましてや今目の前にいるのは、正に戦後の焼け野原を汗まみれ泥まみれ血まみれ涙まみれになって、必死こいて成り上がって来た連中ばかり。ならば尚更のこと、その胸に響かない筈がない。
「いいぞ、ねーちゃん」
「ブラボー、最高」
「アンコール、アンコール……」
 ひとしきり感傷に浸った後、観衆はやんややんやの拍手喝采。ところがその中に、規模は小さいなれどれっきとした芸能プロダクションの関係者が混じっていたのである。その男は突然立ち上がるや、開口一番こう叫び豪快に笑った。
「こら、ものなるでーーっ!」
 この男こそ、後に業界最大手にまで昇りつめる『フォーマーワン芸能プロダクション』の代表取締役Mr口谷。ではなくて、その片腕のダダ田所だった。
 ダダは組長の奥さんの隣りに寄って行くや、ぼそぼそっと何事か奥さんに耳打ち。すると奥さん、初めは吃驚したが、直ぐににやりと頷いた。
「いいわよ、あんたの好きにしなはれ」
 よっしゃ、話は決まり。ダダもにやけ返した。

 宴の後、せっせと後片付けを済ませた響子は、応接間に呼ばれた。何事かと行けば、そこには奥さんとダダ田所が。
「こちら、フォーマーワン芸能プロダクションのダダ田所さん。あんたのことが、気に入ったってよ。憎ったらしいわね、こん畜生」
 はあ。意味深な奥さんの笑みに、響子はさーっと血の気が引いて顔面蒼白。なぜかと言えばこの屋敷に来てからというもの、幸い今迄まだ一度として夜の接待を命じられたことはなかった。がもう十九歳、立派な女である。そこで遂に来るものが来たかと、恐怖に戦いたという訳。
 びくびくする響子に、けれどダダは猫なで声で囁き掛けた。でも元がだみ声、気色悪いのに変わりはない。しかし話は良い意味で予想を裏切り、それはバラ色の胸ときめかす内容だったのである。
「あんた、歌手、ならへんか」
「えっ」
 歌手。歌手って、うそ、何で。返事も忘れ突っ立ったまんまの響子。
「何黙ってんの、あんた」
 奥さんに頭を小突かれ、我に返る。
「ほんとう、ですか。冗談」
「ちゃうで、まじや」
 ダダが頷く。ええっ、わたしが、このわたしが歌手。でも信じらんない、やっぱり嘘よ。この人、わたしをからかってるんだわ。何が楽しいのよ、どうせ喜ばせといて、後でわたしの体を好き勝手弄ぶつもりなんでしょ。俯いたまんま唇を震わせ、うんともすんとも反応しない響子に、業を煮やしたダダ。
「なりとないんか、アイドルやぞ」
 あ、アイドル。
「ほ、ほんとにほんとなんですか、わたしが歌手」
 恐る恐る確かめる響子。
「だーから、嘘言うたかて、しゃないやろ。さっきな、あんたの歌聴いててピンと来た。こら売れる、絶対ものなるて。でもただのアイドルちゃうぞ。ええかキャッチコピー、もうそこまで考えてんねん、こうや。あなたを歌で泣かせます、実力派アイドル夢野響子。どや、かっこえやろ。勿論デビューすっ時は芸名使うけどな」
「は、はい」
 芸名、デビュー、キャッチコピー。歌で泣かせます、実力派アイドル……って。うわーっ、やっぱり嘘じゃないんだ、ほんとうなのねえ。わたしが歌手、わたしが。どきどきどきどきっ、高鳴る鼓動。一筋の目映い光が、今わたしに向かって差し込んで来る。思い切り舞い上がりたい、そんな衝動に踊る響子だった。舞い上がり、夜空の星を駆け巡りたい。やったーっ、これで今迄の不幸が報われるのね、ばんざーい。
「姐さんとはもう話つけた」
 えっ。響子はさっと奥さんの顔を見る。
「さっさとOKしちゃいなさいよ、あんた。ほんと苛々する子ねえ」
 じれったそうに急かす奥さん。
「でも、いいんですか」
「いいも何も、折角のチャンスじゃない」
「あんたさえその気なら、こっちも受け入れ態勢整えなあかん。そやな、一週間位で迎え来れる思うけど。どないする」
 どないするって。受け入れ態勢、一週間で迎えに来る、そんな急な展開有りなの。ぶるぶるっと武者震い。でも今の生活よりは、少なくともましになるんじゃない。そうよ、よし。腹を決めた響子は答えた。
「わたしみたいな者で良かったら、是非お願いします」
「良し、決まりやな。あんた、がんばって」
 にこっと微笑む奥さん。ありがとうございます、奥様。これもすべてあなたのお陰です。ただただ頭を下げる響子だった。
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