【拾】歯牙を抜かれた虎
文字数 1,691文字
詩織は江田市の東端にある速水の自宅へと向かった。
いくら肉体は詩織とはいえ、憑依期間は憑依した人間として生活する義務が生じる。
途中経過を伝えるために日に一度は自宅へ戻りはするが、夜は基本的に依頼者の家で過ごすのが原則となっている。
速水の住むアパートは、事件現場となったマンションとは真逆の、貧相で、ちょっと風が吹くだけで崩れ落ちてしまいそうなボロアパートだった。
詩織が戻ると、速水は彼女を笑顔で迎えた。しかし、その笑顔が詩織にではなく麗子に向けられた物であるのは、いうまでもない。詩織も麗子にバトンタッチすべきなのはわかっていたはずだが、麗子は疲れからか肉体の裏で眠っており、意識は詩織のままだった。
速水の部屋、何もない。クローゼットの中にはカジュアルとフォーマルで数着の服しかないし、そのどれもがよれている。書籍の類もなければ、テレビやパソコン等の電子機器もなく、挙句には時計すらない。目につくのは衣服を除けば、あまり日干ししていないであろう黄ばんだ布団ぐらい。何とも味気なく、人の住む場所とは到底思えなかった。
昨今の断捨離ブームやミニマリストの台頭によって、違和感を抱くほどでもないのだろうが、この部屋はよく片づいているというよりは、空虚その物だった。
さらにいえば、速水がずっと部屋にいるのも不思議な話だ。当然外出はするが、有給を取っているのか仕事に向かう気配はなく、それらしい資料や鞄も見当たらなかった。
「どうした?」速水が心配そうに詩織を見つめた。
詩織は可能な限り冷静に振り向き、首を横に振った。
「ううん、何でもない。それより、久しぶりに料理でもしようかな」
そういって詩織は料理に使用する食材と調味料を速水に買ってくるよう頼んだ。速水は笑顔でわかったといって財布を手に部屋を出ていった。
詩織の意識の裏で目覚めた麗子の意識が表に出ようとしていた。
となると、ここからは時間の問題だ。詩織は手早く部屋の中を探り始めた。健康保険証と預金通帳を発見したが、名前に偽りもなければ、復讐代行に掛かる料金を支払うだけの経済力もあった。が、それが昔貯金した物の残りなのか、借りた物なのかは定かではない。
――何をしているの!
詩織の肉体の中で、麗子が悲鳴を上げる。
――あ、いえ……、疑うわけではないのですが、ただ、本人確認と支払い能力の有無の確認は、規則となっていますので。……本当にごめんなさい。
詩織が陳謝すると、麗子は歯牙を抜かれた虎のように打って変わって大人しくなった。
――確かに、今の速水にそれだけの経済力があるようには見えませんよね……。
――怒らないんですか?
――えぇ、この部屋を見ておかしく思わない人はいないでしょうから……。
詩織はことばに詰まった。麗子はいいわけをするように、
――誤解しないでください! わたしも始めはそう思いましたから!
といってどこか寂しさを漂わせながら破顔した。
――あの……、ご一緒に生活していた時分から、こんな感じだったんですか?
麗子は首を横に振った。麗子によれば、無駄な物はほとんど買わなかったとはいえ、テレビもあればパソコンもあったし、本も、速水の趣味のゴルフクラブもあったという。が、今の速水には何もない。部屋だけじゃない。今現在の速水は、顔はやつれ、身体は痩せ細り、精神にはぽっかりと大きな穴が空いてしまったようだった。
――そうだったんですね……ごめんなさい。
――いいんです。それよりそろそろ代わってください。速水も帰ってくるでしょうから。
詩織は、麗子の申し入れを受け入れるのを渋った。そんな詩織を安心させんとするかのように麗子は口角を持ち上げて穏やかにいった。
――安心してください。今のことはいいませんから。
――いいんですか?
――えぇ。今のわたしにできることといえば、例え一週間とはいえ、速水の傍に寄り添ってあげることだけですから。
いくら肉体は詩織とはいえ、憑依期間は憑依した人間として生活する義務が生じる。
途中経過を伝えるために日に一度は自宅へ戻りはするが、夜は基本的に依頼者の家で過ごすのが原則となっている。
速水の住むアパートは、事件現場となったマンションとは真逆の、貧相で、ちょっと風が吹くだけで崩れ落ちてしまいそうなボロアパートだった。
詩織が戻ると、速水は彼女を笑顔で迎えた。しかし、その笑顔が詩織にではなく麗子に向けられた物であるのは、いうまでもない。詩織も麗子にバトンタッチすべきなのはわかっていたはずだが、麗子は疲れからか肉体の裏で眠っており、意識は詩織のままだった。
速水の部屋、何もない。クローゼットの中にはカジュアルとフォーマルで数着の服しかないし、そのどれもがよれている。書籍の類もなければ、テレビやパソコン等の電子機器もなく、挙句には時計すらない。目につくのは衣服を除けば、あまり日干ししていないであろう黄ばんだ布団ぐらい。何とも味気なく、人の住む場所とは到底思えなかった。
昨今の断捨離ブームやミニマリストの台頭によって、違和感を抱くほどでもないのだろうが、この部屋はよく片づいているというよりは、空虚その物だった。
さらにいえば、速水がずっと部屋にいるのも不思議な話だ。当然外出はするが、有給を取っているのか仕事に向かう気配はなく、それらしい資料や鞄も見当たらなかった。
「どうした?」速水が心配そうに詩織を見つめた。
詩織は可能な限り冷静に振り向き、首を横に振った。
「ううん、何でもない。それより、久しぶりに料理でもしようかな」
そういって詩織は料理に使用する食材と調味料を速水に買ってくるよう頼んだ。速水は笑顔でわかったといって財布を手に部屋を出ていった。
詩織の意識の裏で目覚めた麗子の意識が表に出ようとしていた。
となると、ここからは時間の問題だ。詩織は手早く部屋の中を探り始めた。健康保険証と預金通帳を発見したが、名前に偽りもなければ、復讐代行に掛かる料金を支払うだけの経済力もあった。が、それが昔貯金した物の残りなのか、借りた物なのかは定かではない。
――何をしているの!
詩織の肉体の中で、麗子が悲鳴を上げる。
――あ、いえ……、疑うわけではないのですが、ただ、本人確認と支払い能力の有無の確認は、規則となっていますので。……本当にごめんなさい。
詩織が陳謝すると、麗子は歯牙を抜かれた虎のように打って変わって大人しくなった。
――確かに、今の速水にそれだけの経済力があるようには見えませんよね……。
――怒らないんですか?
――えぇ、この部屋を見ておかしく思わない人はいないでしょうから……。
詩織はことばに詰まった。麗子はいいわけをするように、
――誤解しないでください! わたしも始めはそう思いましたから!
といってどこか寂しさを漂わせながら破顔した。
――あの……、ご一緒に生活していた時分から、こんな感じだったんですか?
麗子は首を横に振った。麗子によれば、無駄な物はほとんど買わなかったとはいえ、テレビもあればパソコンもあったし、本も、速水の趣味のゴルフクラブもあったという。が、今の速水には何もない。部屋だけじゃない。今現在の速水は、顔はやつれ、身体は痩せ細り、精神にはぽっかりと大きな穴が空いてしまったようだった。
――そうだったんですね……ごめんなさい。
――いいんです。それよりそろそろ代わってください。速水も帰ってくるでしょうから。
詩織は、麗子の申し入れを受け入れるのを渋った。そんな詩織を安心させんとするかのように麗子は口角を持ち上げて穏やかにいった。
――安心してください。今のことはいいませんから。
――いいんですか?
――えぇ。今のわたしにできることといえば、例え一週間とはいえ、速水の傍に寄り添ってあげることだけですから。