第一章

文字数 20,207文字

平成十七年四月三十日

 昨日の朝早く、母が胸の痛みを訴えました。台所でうずくまって動けない様子に驚き、同居している母の妹のまなみおばさんが救急車を呼びました。病院に来て処置をしてもらうと痛みは治まったようだけど、
「念のため入院して、詳しく検査しましょう」
そう医師に言われ、そのまま入院してしまいました。まなみおばさんは入院すると言ってもどうしていいか分からず、おろおろするばかり。でも、母たちの母親代わりとも言える近所の阿部のおばさんが来てくれて、何もかも適切に手続きを済ませてくれました。
 そう、私の母姉妹にはもう親がいません。お母さん(私にとって祖母)は、母が中学校二年生、まなみおばさんが小学校一年生のときに病気で亡くなっています。お父さんも九年前に肺癌で亡くなっています。私が九歳の時でした。中学校のときに母親を亡くし、父親は出張ばかりで帰って来ないことが多い。そこで親しかった近所の阿部さんが、母たち姉妹の面倒をずっと見てくれたそうです。なので母たちは、阿部のおばさんを「(阿部の)お母さん」と呼んでいます。
 母は六階の個室に入りました。昨日から入院していますが、今日が土曜日ということもあって、本格的な検査再開は月曜日。今は昨日の治療の経過観察中です。痛みが治まった母はかなり退屈な様子。
「お母さん、テレビ面白いのやってへんから、なんかDVD持って来て~」
夕暮れが近づいて帰り支度を始めた阿部のおばさんに、母が甘えたような声で言いました。
「そんなん、ここでは見れへんでしょ」
おばさんは手を止めずに答えます。
「うん、そやからプレイヤーごとお願い!」
母は両手を胸の前で合わせて拝むようなポーズをしています。帰り支度を終えたおばさんは母に一言。
「二、三日のことなんでしょ? テレビ我慢して読書でもしなさい」
そう言われてこんどは私の方に視線で振ってくる母。
「テレビ有料やし、私も読書の方がええと思うよ」
と、答えるのみ。
「薄情もの、親が退屈で死にかけてるってのに」
「退屈で死んだ人はおらへんわ。どんだけ読書嫌いなん」
言い合ってる私たち親子をよそに、
「それじゃ、今日は帰るね」
部屋を出て行こうとしながら、おばさんが言います。
「あっ、今夜、マーが帰ってくるからあの子になんか頼んだら?」
「マー坊来るの? 今夜?」
母はさっきまでより一段と元気な声で聞き返します。マーとかマー坊とか言われているのは、阿部さんの所の長男の正善さんのことです。母とは同い年の、いわゆる幼馴染ってやつです。
「そ、あんたのこと言うたら、こっちに先に寄るって言ってたから、リクエストがあったら自分でしなさい」
おばさんはそう言うと、「また明日ね」と言って帰っていきました。その閉まった扉に、
「何時ごろ来るって言うてた?」
母が問いかけますが、返事は返らず。
「行っちゃったよ」
そう言う私にかまわず、母は携帯電話を手に取って、
「ここで携帯使うたらまずいよね」
そう言いながらベッドから降ります。
「外行って電話してくる」
いそいそと病室を出て行ってしまいました。
「パジャマのままで?」
私は呆れながら母の後ろ姿を見送りました。
 私自身は救急車を呼んでの母の入院という大事件に、やっと順応できた頃でした。窓辺によって外を見ると鮮やかな夕焼け空。今週は何日か雨が降ったので、空は澄み切っていてとてもきれいでした。下にはJRと私鉄の両方が乗り入れる駅が見えます。急行や快速電車の停まる駅なので、家路につく人なのか、週末の夜、遊びに行く人なのか、ホームには本当にたくさんの人が見えました。ホームだけではなく、駅前の歩道にもたくさんの人がいます。
「本当ならあの中にいるはずなんだよなぁ」
呟いていました。私は高校三年生。受験生と呼ばれる学年。その上、身の程知らずと母に言われるくらい、レベルの高い大学を目指しています。当然塾にも通い始めていました。土曜日は進学塾に行く前に英語教室に通っているので、今はちょうどその移動途中に間食中の時間でした。
 人波をボーっと眺めていたので、まなみおばさんが病室に入ってきたのに気付きません。
「あれ? 綾だけ? 姉さんは?」
私はびっくりして振り向きました。
「マー兄(正善さんのことを私はこう呼んでいます)に電話しに行ったよ」
「あっそ、さっきまで私話してたのに。七時くらいに来るって言うてたよ。てか、あんた塾は?」
そう言いながら、レンタルビデオ屋さんの袋をベッドの上に置きました。
「今日も休む」と、私。
「だったら制服着替えてから来るべきやない?」
学校帰りにそのまま来た私の姿を見てそう言います。そして私がそれに答える前に、
「私、用事あるから行っちゃうけど、それ姉さんに差し入れ」
そう言って出て行こうとしました。
「まな姉!(おばさんとは呼ばせてくれない!)、DVD持って来ても観れへんよ!」
私は慌てて呼びかけました。まな姉は戸口から戻って来てテレビの方を見ます。
「うそー、この前友達のお見舞いに行ったときはDVD観れるやつやったから⋯。まいっか、一週間レンタルやから家で観れば」
そう言ってにこっと笑うと、「じゃね」って、手を振って出て行ってしまいました。
「はぁ」
私はため息をついて、また窓の外を眺めます。六階と言ってもそんなに見晴らしが良いわけではない景色。街中なので周りもビルだらけです。そんなビルの狭間にこんもりした緑の丘が見えます。丘と言うより、森の木々の上部だけが見えているような感じ。多分、この辺りに多い古墳の一つでしょう。あまり興味がないので何古墳なのかは分かりません。でも、分からないなりになんとなく古墳の名前を思い出そう、なんてことをしていると母が帰ってきました。
「ず~と電話中。忙しいんかなぁ」
私と目が合うとそう言います。手にはジュースやお茶、それにお菓子まで入ったビニール袋を下げてます。それを見て私は言います。
「なんか、入院してから結構お菓子食べてるけど、お医者さんはいいって言ってるん?」
「え? ⋯別にダメって言われてへんよ」
少し間があってからそう答える母。
「いいとも言われてないんやないの?」
「⋯うん」
「もう、ちょっとは自重しなよ」
「やっぱダメかなぁ?」
「お腹痛くなったんでしょ? しばらく控えるのが普通ちゃう?」
私にそう言われると、母は唇を尖らせて隅の冷蔵庫の方へ行きました。そこでビニール袋の中からペットボトルを出して、冷蔵庫の上に並べていきます。そして飲み物を取り出したビニール袋を私の方へ差し出して来て、
「あげる」
と、一言だけ。私が受け取らずにいると、腕をゆすって受け取るように催促してきます。なんだか機嫌が悪くなった?
「はいはい、ありがと」
子供じゃないんだから、と思いながら受け取ります。母はそのあと冷蔵庫を開けてペットボトルを入れていましたが、四本買ってきた内の二本は上に置いたまま扉を閉めます。私がなんで入れないの?って顔をしていたのか、振り向いた母は私を見てこう言います。
「六本しか入らへんの」
確かに、小さな棚の上に置かれた小さな冷蔵庫。ここで見るまで、こんな小さな冷蔵庫があることを知りませんでした。ペットボトル六本で一杯なのは頷けます。だったらそんなに買って来なくてもいいのに。そんな風に思って黙っていた私に構わず、母がこう言い出します。なぜだか少し機嫌が直ったような口調で。
「私食べないと痩せちゃうんだけどな」
「⋯⋯」
「体が大きいから人よりカロリー消費が多いんかなぁ?」
「でも最近、少しお腹出てきたんやない?」
私はそう言って、母のお腹の辺りをつついてやります。
「それは言ったらだめ。でもまだまだ大丈夫でしょ?」
母は変なポーズをとって見せます。確かに同級生のお母さんたちと比べると、背が高いと言うのもあるけれどスタイルがいい、と思う。それに母は若い。ほかのお母さんたちはみんな軽く四十歳を超えていて、五十くらいの人もいる。母はまだ四十歳手前。でもその若さを差し引いても、自慢の美人ママです。本人にはこんなこと、決して言わないけど。
「はいはい、そういう恥ずかしいことは誰もいない時にやって」
私はまだいろいろなポーズをとろうとしている母をわざと見ないようにしながら、
「さっきまな姉が来て、マー兄、七時頃って言ってたよ」
そう言ってやりました。すると、
「まなみと話してて電話中やったのか」
と、また不機嫌そう。病室においてある二人掛けのソファーに座り、
「で、まなみは?」
と、聞いてきました。
「用事あるからって、すぐに行っちゃった」
「ふ~ん⋯。土曜の夜の用事は、仕事やないよねぇ。絶対に」
少し間があってから母はそう言って、意味深な顔で私に同意を求めます。
「そういう話は私に振られてもわからへんってば」
「なんで? 友達と遊ぶとか、彼氏とデートとか、色々あるでしょ」
「夜、遊びに行くとかしたことないやん」
「デートは?」
「⋯⋯」
私は返事をしませんでした。代わりに目を細めて睨みました。母は窓の外に寂しげな視線を向けながら言います。
「綾も今年で十八でしょ? なんで彼氏の一人や二人おらへんかなぁ?」
私は芝居くさいんやから! と、思いながら言います。
「普通、年頃の娘を持つ親は逆のこと心配するんちゃうの?」
「年頃って、自分で言うか?」と言いながら、母は私の方に身を乗り出して、
「それよそれ、土曜の夜に娘がいない。友達と遊びに行くって言うてたけど、友達って? ひょっとして彼氏と? まさか朝帰り? 本当に朝帰ってきたらどんな顔して出迎えたらええの? って、一回くらい心配してみたいんよ」
と、あんたはアメリカ人かと突っ込みたくなるぐらいの、身振り手振りを交えながら言いました。そして大きくため息をつきます。
「私だってわかんないよ? 塾だって言うてるのはお母さんにだけで、本当はどこに行ってんのか」
私は精一杯強がってまた言い返します。
「ふ~ん、あっそう、男友達もおらへんのに、デートの相手はおるん? すごいねぇ綾ちゃん」
母はニコニコ顔でそう言いました。私もこうなったら負けずに、
「男友達がおったって、そういうことは親には言わへんの!」
と、またまた言い返します。母相手に無駄なことは承知で⋯。
「いっつも学校や塾のこと、聞かなくても話してくれんのに? あ、中学のとき、のぶ君やったっけ? 仲のいい男の子が出来たとき、毎日その子の話題やったよねぇ。あんた楽しそうに話しとったのに、高校生になったらそういうことは話さへんの?」
母のニコニコ顔はさっきよりも磨きがかかります。もう何も言い返しません。実際何もない私は言い返すネタもない。ここは退散しよう。私は鞄を手に取りながら、
「もういいわ、明日模試だから帰る」
と言いました。帰る(退散する)口実で模試と言いました。でもそれは、実際に切実な理由です。
 学校での成績はかなり良い方です。でも二年生の終りに受けた最初の模試で、第一志望の大学の学部はD判定。それから気持ちを入れ替えました。高校生モードの気持ちは捨てて、受験生モードの生活へと。すぐに塾へも行かせてもらいました。読書好きの私がこの一か月で読んだ本は二冊だけ。そのくらい勉強に費やしてきました。明日がそれから初めての模試。前回よりも良い手応えと結果が欲しい。そういう焦りがあります。でも、ここに留まりたい気持ちもあります。昨日の朝の苦しんでいる母の顔が目に焼きついたまま消えません。母のことが心配です。何か安心できる結果が出るまで離れたくない、と言う気持ちでした。そしてまたまたそれとは裏腹な思いも。そういう怖い姿を見てしまったからこそ、ここにいたら何か嫌な結果を聞かされるのではないかという不安も。なので、ここにいるのは正直言って不快でもあります。昨日は学校も塾も休んで、ずっとここにいました。今日は学校には行きましたが、塾は休むことにして昼からここにいます。それだけこの病室と言うところにいたからでしょうか、落ち着かない気分が強くなってきました。やはりこのまま帰ろう。帰って勉強しよう。手に付くかどうかは分からないけれど、とりあえず机に向おう。
 そんなことを思って動きの止まった私の方に、母はソファーから歩いて来ます。
「あ~やちゃん。私は大丈夫だから、余計なこと考えないで模試がんばって」
私の目を覗き込んでニッコリ笑いました。私はこういう母に弱い。いつも私の不安な気持なんかを見抜いて、やさしく声を掛けてくれる。
「とか何とか言って、どうせ受かりっこないとか思うてるくせに」
目をそらしてそう言い放つ私。
「うんうん、第一志望はぜ~たいに無理やけど、模試はがんばってもらって、絶対に受かりそうな大学探さないかんもん」
母は憎まれ口で私の照れを隠してくれる。本当は自分の照れかもしれないけれど。私は病室の戸口へ向かい扉を開けながら言います。
「そうや、ベッドの上にまな姉が持ってきた差し入れおいてあるから。それじゃ、おやすみなさい」
部屋を出て、廊下をエレベーターのほうへ向かいます。閉まっていく扉の向こうから、
「プレイヤーも持ってこ~い!」
そう言う母の声を聞いて、微笑みながら。

 正善さんが名古屋から車を走らせ、母の病室に着いたのは午後七時頃らしいです。六時に担当の看護師さんが母の病室を訪れ、夕食の用意が出来たことを告げました。昨日その看護師さんから、
「山中さん、うちの病棟では動ける患者さんには出来るだけ、ディルームで他の患者さんと一緒に食事してもらうようにお願いしているんだけど、よろしいですか?」
と、お願いされたものだから、「いいですよ」と快諾。母はディルームへ出向き、食事をして病室に戻ったのは六時半過ぎ。当然、暇を持て余している上に、おなかまで膨れては睡魔の餌食です。
 正善さんは病室の扉を軽くノックして、
「かおり、入るよ?」と、母の返事を待ったのですが、返事はなし。扉をそっと開けて病室に入って行きますが、ベッドは空。そしてベッドの奥のソファーを見て、呆れた口調で一言。
「寝るならベッドで寝ろ」
母は小さなソファーに丸くなって寝ていました。正善さんは病室の中を見回し、隅の小さな冷蔵庫を見つけると、お見舞いに持ってきたお茶にジュース、それと白い紙箱を入れようと開けました。
「⋯入らんなぁ」
ペットボトルで一杯になっているのを見て、そう呟きます。正善さんは冷蔵庫の扉を閉めかけながら、手に持った紙箱を見ました。一瞬考えてからもう一度冷蔵庫を開けて、ペットボトルを四本取り出します。代わりに紙箱の中身を入れました。
 気候のいい時期なので、病室には空調が入っていませんでした。でも夜は少し冷えていたので正善さんは、背広の上着を母に掛けてくれます。することのない正善さんは窓辺に立って外の景色を見るでもなく眺めます。
 上着を掛けてもらったのが刺激になったのか、しばらくして母は目を覚ましました。目を開けたとき、窓辺の正善さんが見えました。母は身動きもせず、声も掛けず、ただ正善さんを見つめていました。人知れず思うところのあった母の目から、涙がこぼれてきました。母は正善さんに分からないように涙を拭こうと下を向きましたが、その動きで正善さんは母が目を覚ましたことに気付きます。
「お・は・よ・う」
母に声を掛けます。母は見えないように涙をぬぐって、顔を上げました。
「わざわざ来てくれたん? ありがとね」
正善さんは母の顔を見て、目を見て、気付きました。でも、母が明るく笑いかけているので無視します。
「わざわざお前のために帰ってきたんちゃうわ。ゴールデンウイークやろ」
正善さんは、ソファーに座りなおした母の前、ベッドに腰掛けながら言いました。
「なーんや、私が倒れたって聞いて、心配で心配で、仕事ほったらかして飛んできたのか思うた。そしたら少しは感謝してやろ思うたのに」
母はソファーの横の小さなテーブルに手を伸ばして、飲みかけのお茶のペットボトルをとると一口飲みました。
「仕事ほったらかしてたら昨日来とるはずやから、そっちは置いといて。見舞いに来たことに感謝は有ってもええと思うけどな」
正善さんはテレビのリモコンを手にとって、電源を入れながら、
「あ、一応かおりの為にって、わざわざ買うてきたやつがそこに入れてある」
と言って、テレビのリモコンを冷蔵庫のほうに向けます。
「なになに? 何持って来てくれたん? ひょっとして、DVDプレイヤー?」
母はニコニコしながら正善さんの顔を覗き込んで言いました。
「あほ、そんなもん冷蔵庫に入れるか!」
正善さんは母のおでこをリモコンで押して顔を離させました。
「と言うか、なんでDVDやねん」
母は、顔を離されたので座りなおしました。
「だって、テレビ面白いのやってへんから退屈なんやもん。だったら何持って来てくれたん?」
「かおりが好きな例のババロア。春限定のイチゴのやつがまだあったから、それ買うてきた」
「あ、あのお店のやつ? 食べたい」
母は身を乗り出して言いました。
「ええよ、食べて。まなみと綾ちゃんの分もあるから、一人で全部食べんなよ」
正善さんはテレビのニュース画面を見ながら言います。
「えー、取ってきてよ」
「自分でいけ、すぐそこやろ」
「もう、私、病人やのに」
と言いながら、母はいそいそと冷蔵庫まで行って開けました。
「きれーい。おいしそう!」
と、さも嬉し気な声を出します。濃いピンクのババロアが白とピンクのホイップとイチゴジャムでデコレートされ、スライスされたイチゴが扇型に並べて載せてあります。
「あ、でも四つあるよ。一つマー坊食べなよ」
「まだ晩飯も食べてへんのに? かおりが二つ食べると思うて、一つ多くしたんや」
「そっか、ありがと。じゃ、私だけいただくね」
母はババロアの入ったガラスのカップを持ってソファーに戻って来ました。そして一口食べます。
「おいしい。⋯なんか、とっても幸せ!」
子供のような笑顔でいいました。
「おまえのそういう顔って、子供の頃からほんっまに変わらんなぁ」
正善さんは母の顔を見て言いました。
「あ~! ババロアの中にもイチゴが入ってる!」
「黙って食べろ」

 二人はその後、テレビを見ながら何でもない会話を重ねていました。そのうちにふっと、部屋の中が暗くなったように感じます。扉の磨りガラス窓の向こうの廊下が暗くなっています。
「廊下の電気消えた? もう消灯なん?」
正善さんが言いました。母は床頭台の上に置いた携帯電話を見て言います。
「八時で面会時間終りやからかな?」
その通りでした、面会時間の終る八時になると、廊下の蛍光灯が半分くらい消えるのでした。
「そっか、八時までか」
正善さんは立ち上がりました。
「それじゃあ、そろそろ帰るわ」
そう言う正善さんに母は、
「家族はいつまでいてもええんよ。付き添いってことで」
と、肩掛け代わりにしていた正善さんの上着を手にとって整えながら言いました。
「いやいや、面会時間関係なしにそろそろ帰ろか思てたんや。腹ペコやし、風呂も入りたいし」
母の手から上着を受け取りながら、正善さんは言いました。
「ま、しょうがないか。よし、今日のところは帰宅を許してしんぜよう」
母も立ち上がって言いました。
「それはそれは、お気遣い、まことにかたじけない。ではそれがし、お言葉に甘えて、家に帰ってゆっくりさせていただくでござる」
正善さんは芝居がかって言います。そんな正善さんに母は冷めた顔で言いました。
「大丈夫? 代わりに入院してく?」
でもすぐに表情を変えて、
「あ、そうそう、ババロア。綾が明日模試やから家で勉強してる思うの。だから、まなみの分と一緒に届けたって」
と言いながら、冷蔵庫の中からガラスのカップを取り出すと、紙箱に入れていきました。でも一つは残します。
「この一個は、明日の朝ごはんの後で私が食べるデザート用」
と、ニコッとしてから冷蔵庫を閉めます。
「はいはい」と、正善さんは母の手から箱を受け取ります。
「何を慌ててんの?」
母が聞きました。
「面会時間過ぎてるのに、看護婦さんに怒られたらいややん」
「そんなことで怒られるわけないやん」
母は笑いながら続けて言います。
「それに、看護婦さんやなくて、看護師さんって言わな。そっちのほうが怒られるかもよ」
「そやなぁ、それじゃ、明日また顔出すから」
正善さんは扉を開けて言いました。
「了解! 今日は遠路はるばるありがとうございました」
母はペコリと頭を下げました。
「どういたしまして。じゃな、おやすみ」
正善さんは扉を閉めて出て行きました。母は閉まる扉に向かって、
「おやすみ」と言いながら、胸の高さで手を振っていました。

 私は母の病室を出てからまっすぐ家へと向かいました。こんな時間に病院を出るなら塾に行っとけばよかった。休んだ分、安くなるわけじゃないんだからもったいない。なんてことを思いながらも家に向っていました。家には病室から見えた駅から電車に乗って三駅、そこからは歩いて十五分くらいです。駅を降りると、駅前のロータリーに行きつけの本屋さんがあります。苦手な三角関数だけの問題集ってないかなぁ、と思い本屋さんに寄り道。目当てのものは見つからなかったのですが、ひたすら和文を英訳していくタイプの問題集を一冊。レジに並ぶ前に小説のコーナーを物色、好きな作家の新作が出ているのを見つけて、それも購入。なんだかんだで、約一時間寄り道して家に着きました。
 家の玄関前には車がありました。あれ? まな姉、車乗ってかなかったんだ。そう思いながら玄関に手を掛けると鍵がかかっておらず、引戸はするすると開きました。それに、土間にはまな姉の靴もありました。まな姉、家にいるんだ。
「ただいま!」
私は大きめの声で言いました。
「お帰り」と、思ったとおり声が返ってきます。玄関から居間につながる硝子障子を開けると、居間の奥の台所にまな姉がいました。なにやら信じられないことに、料理をしているようです。私が台所に近づくと、
「待った、あんたの言いたいことはよーく分かってるから。それ以上何も言うな」
右手を突き出して、私の動きに待ったを掛けます。
「言いたいことって、私まだ何も言うてへんやん」
「どーせ私がこんなことしてると、雪が降るとかって言いたいくせに」
まな姉はまな板のほうに向き直って言いました。私はなんだかおかしくなってこう言います。
「そんな失礼なこと言わへんよ。ただ、熱でもあるんかなって心配になっただけ」
「やっぱり馬鹿にしてるんやん。私だってねぇ、料理ぐらい出来るんやから」
とんとんと、厚目のお肉を包丁で叩きながら言いました。
「さあ、あんたに見られてても邪魔なだけやから、早く上行って勉強でもしてきなさい。出来たら呼んだげるから」
「は~い。で、何作ってくれてんのか聞いていい?」
「う~んとね、食べれるもの」
「⋯期待してるわ」
私はそれ以上聞かず、二階に上がろうとしましたが、あっと思って質問。
「ねえねえ、今日ってどっか出掛けるんやなかったの?」
「出掛ける? 私が? そんなこと言ったっけ?」
まな姉は背を向けたままそう言います。
「さっき用事あるからって、さっさと帰ったやん」
「だから今、用事をしてるんやない」
「夕飯作るのが用事やったんだ」
「そ、姉さんに今朝頼まれたの。綾が明日模試だから、勉強に集中できるようにしてやってねって。だからあんたは、さっさと勉強しに行きなさい」
そう言いながらも、まな姉は冷蔵庫から何かを出したり、真剣に料理を続けていました。私はなんだかうれしくなり、
「料理長、よろしく」
と言って階段に向かおうとしました。すると、
「それに、マー兄が来るっていうのに、いたらお邪魔でしょ」
そう言うまな姉の声が聞こえます。私が立ち止まって、
「えっ?」って、聞き返すと、
「あ、いいからいいから、あんたは早く上に行きなさい」
声だけ返ってきました。

 家に帰って来るまでは色々と考えていて、机に向かっても勉強なんて手につかないと思っていました。でも、いざ数学の問題集に向き合うと、これがなかなか手強くて、完全に没頭してしまいました。なので、
「そろそろご飯にしようか?」
まな姉が声を掛けてくれるまで、時間も気になっていませんでした。
「はーい」と、返事して時計を見ると八時半。
空腹感が急に湧いてきました。
「まな姉! 遅いよ、もうおなかペコペコ」
そう言いながら階段を下りると、カレーのいい匂いがしてきました。ますますおなかが減ってきます。
「カレーなんだ。早く食べたい!」
そう言いながら居間に入っていくと、
「カレーじゃなくて、鯖の塩焼きと、オムレツくらいでいいかな? とかって言ってたけど・・・。母さんが」と、まな姉。
「おばさん? でもカレーのいい匂いしてるやん」
そう私が言うとまな姉は玄関のほうへ行きながら、
「カレーねぇ、多分、上の方の少ししか食べれそうにないんだ」
「なんで?」
「⋯⋯」
「⋯焦がしたの?」
「火は小さくしたつもりだったの。それに、ほんのちょっと仕事しちゃおうと思っただけだし」
「⋯火事にならなくて良かった」
「ほんとに」
「私はお腹減りすぎて倒れそうだけど」
「ごめん。って、あんた塾行ってたらあと一時間は帰って来てないじゃん」
「塾行くときは夕方に何か食べてるもん」
「⋯⋯」
まな姉は黙って私とすれ違って玄関に。私も続いて玄関に向かいます。すると、靴を履いたまな姉が振り返って言います。
「結局ねぇ、ご飯炊くのも忘れてたし⋯。まぁ⋯なんというか、⋯ごめん」
まな姉は頭を下げました。私はなんだか、まな姉って本当にかわいい女性だなぁって、改めて感じました。
「まな姉ってかわいいね」
思わず口に出てしまいました。口に出してしまってからなんだか恥ずかしくなって、慌ててサンダルを下駄箱から出して履きました。
「あんたねぇ、三十女が十七の子に、かわいいって言われても嬉しくないの」
まな姉も照れているようでした。
「て言うか、馬鹿にしてるでしょ」
なんて言いながら外に出るまな姉。私も外に出て玄関を閉めながら、
「三十じゃなくて、三十二でしょ」と言うと、
「一言多い!」頭をたたかれました。
 阿部さんの家はうちから二軒挟んだ三軒目。歩き始めたと思ったら着いてしまいます。阿部さんの家は玄関前の小さな庭をつぶして車二台停められるスペースがありますが、今は一台も停まっていません。まな姉はいきなり「こんばんは」と、玄関を開けて入っていきました。私も続いて入りました。阿部さんの家も基本的にうちと同じ間取りです。ですが五年くらい前、マー兄が建設会社に勤めていたときにリフォームしているので、中はまだ新しくきれいです。私は自分の家が嫌いではありませんが、リフォーム後の阿部家のお風呂はうらやましくてしょうがありません。毎日お風呂だけはこっちに入りに来たいくらいです。玄関から居間への扉を開けると、
「いらっしゃい」と、おばさんが台所から言ってくれます。
「もう少しやから座って待ってて」
そう言われて、まな姉は食卓につきます。
 食卓にはもう、おいしそうに焼き上がった鯖の塩焼き、それと、マカロニの入ったサラダが隠れるくらい、たくさんプチトマトが盛り付けられたサラダボウルが置いてありました。
「ここに来ないと、焼き魚なんて食べる機会がないから、なんかうれしくなっちゃう」
まな姉が、食卓の椅子に座るなりそう言うと、もうお箸を持って焼き鯖を食べようとしています。私がまな姉のお箸を持った手を叩くしぐさをすると、ふくれっ面で見返してきます。が、左手でプチトマトを一つ摘まんで口に。
「家では魚食べへんの?」
おばさんは、ボールの中の卵を溶きながら言いました。
「姉さんがあんまり魚好きじゃないから。お刺身は食べるんだけどね」と、まな姉。
「でも、私には食べなさいって、魚料理作ってくれるよ」と私。
「そっか、かおりは昔から魚好きじゃなかったかも」
おばさんはそう言います。そして、
「でも、綾ちゃんが小学校の三年生か四年生ぐらいの時、周りの子より背が低いの気にして、魚食べさせないのが原因かなって相談に来たの。私は今から伸びるわよって言ったのよ。だって、かおりが背、高い方なんだから。でもそれから魚料理教えてって来るようになって、だから家でも魚食べてると思ってた。綾ちゃんの分しか作ってなかったんやね。あの子らしい」
少し笑いながら言いました。
「それであんたはそんなに背が伸びたのね」
まな姉は椅子に座ったままかがんで、私を見上げるように言いました。私は何か言い返そうとしましたけど、
「綾ちゃん、悪いけどみんなのご飯よそってくれる? もう出来るから」
イタリヤ風って言うのかな? フライパンサイズの大きな丸いオムレツを焼いているおばさんにそう言われ、何も言えませんでした。
 オムレツとお味噌汁が出てきておばさんが椅子に座ると、一斉に食事が始まりました。まな姉も私も、おなかがペコペコだったのです。
「お母さんもまだ食事してなかったなんて」
まな姉はそう言いながら、三人で食べるには大きすぎるオムレツの三分の一を自分の取り皿に取り分けようとして、
「まなみ! 一人でそんなに取ったらみんなの分がなくなるでしょ!」
おばさんに怒られました。
「え? だって、三人だから三分の一食べてもいいかなって⋯」
「あんたねえ、三人分でこんなに大きなの作るわけないでしょ。お父さんと、マーの分残しとかなきゃだめやの」
おばさんはそう言いながら、まな姉が切り分けたところからオムレツを食べました。
「やっぱりね、私も一人でこれは多いなぁって思ってたんよ」
まな姉は言い訳しますが、
「本当は一人でペロッと食べちゃうくせに」と私。すると、
「失礼な口はこれか!」
テーブル越しに私の口を摘まもうとしてきました。私は身を引いてよけましたが、
「あんたはいつまでたっても行儀悪いんだから!」
まな姉がおばさんにその手を叩かれていました。でも、おばさんは叩いてから、
「こうやってると、昔のにぎやかな食事を思い出すね。最近はお父さんと二人で黙々と食べるだけやから」
楽しげに言いました。
「にぎやかと言うか、戦争やったけどね」
まな姉が鯖の身をほぐしながら言います。
「マー兄と、姉さん、おかず全部先に食べちゃうから、よし姉と私は自分の分確保するのに必死やったもん。食事のたんびに疲れてたような気がする」
よし姉って言うのは正善さんの妹の、淑恵さんのことです。まな姉より三歳年上。もう結婚していて、今は神戸に住んでいます。
「それでも、あんたたちはおかずがあったからええやないの。私なんていつも遅れて座るから、何にも残ってへんかったよ。あんたたちが子供の頃は、お漬物でご飯食べてたわ」
と、おばさんは言います。でもその顔は、やはり楽し気でした。
 まな姉は食べるのが早く、あっという間に食べ終えると、居間の方へ行ってテレビをつけました。阿部家ではおじさんの方針で、台所にある食卓からはテレビは見れない位置にありました。まな姉がテレビをつけた頃、表に車が入ってくる音が聞こえました。
「あ、お父さん帰ってきたよ」
まな姉が言います。するとおばさんが、
「音が違うから正善じゃないかなぁ」
と言いながら、冷蔵庫のほうへ立ちました。もう一切れ鯖を出して焼器に入れます。エンジンの音が止まってしばらくすると、
「たっだいま」と、正善さんの声がしました。
「おっかえり」と、返事を返してから、
「お母さんって、車のエンジンの音聞き分けられるんやね」
まな姉が感心して言います。
「ちがうちがう、お父さんの車の音だけ、毎日聞いてるから分かるの」
おばさんは正善さんの分の茶碗なんかを出しながら言います。居間の扉が開いて、正善さんが入ってきました。
「やっぱりまなみの声やったか」
「久しぶりに夕食ご馳走になってました」と、まな姉。
「綾ちゃん久しぶり。お母さんが寝込むと大変やね、家事やる人がいなくなって」
正善さんはまな姉の隣に座りながらいいました。私もまな姉も何か言おうとしましたが、その前におばさんが、
「正善、悪いけどそっちに座り込む前にご飯食べちゃって」
と言います。
「了解」と言って、立ち上がりかけた正善さんの肩に手をまわすと耳もとで、
「もうちょっと姉さんのところでゆっくりしてくるかと思ってたのに」
まな姉が囁くのが聞こえました。
「なんで? 面会時間、八時までやったぞ。そんな遅くまでおれんやん」
マー兄はそう言って食卓につきました。まな姉は、ふーんっと言った顔をしています。
「綾ちゃん、玄関に白い箱置いてあるから、帰る時に持って帰ってね。受験勉強の差し入れ」
正善さんはオムレツをつまみながらそう言います。私が、えっ? って顔をしているのを見て、
「かおりんとこに持ってったら、自分の分だけ抜いて、あとは持ってけって言われてん」
と、付け足します。
「ありがとう。なに? 食べ物?」
私は聞きました。
「そ、女の子の大敵!」
「あー、ケーキだ。いいなぁ、綾だけ?」
まな姉が話しに割り込んできました。
「綾に頼んで分けてもらえ」
正善さんはまな姉にそう言うと、私を見てウインクしました。私は「うん」とうなずいて笑いました。それを見ていたまな姉は、
「こらこらおじさん、女子高生口説いたらあかんよ。犯罪やで」
また食卓のほうにやってきて、マー兄の肩をポンポンと叩きました。
「誰が口説いてんねん」
「何を慌ててんの。ひょっとして図星やったん? やらしー」
まな姉は、マー兄の横に座って言いました。
「綾、マー兄もおじさんなんやから、気をつけなあかんよ」
「おじさんって⋯。おばさんに言われるとは思わなんだな」
「こらー、おばさんって言った口はこれか」
まな姉がマー兄のほっぺを、ギュっとつまみました。が、またおばさんに怒られて、頭を叩かれていました。
 その後おじさんも帰ってきて話は弾んでしまい、家に帰ってきたのは十時を軽く過ぎてからでした。途中で時間が気にもなったのですが、みんなでわいわい話してるのが楽しくて、ついつい長居してしまいました。

 家に帰ってきてすぐにシャワーを浴びました。シャワーを終えて出てくると居間の電気は消えていて、まな姉はいませんでした。私は玄関横のまな姉の部屋のふすまを開けて、
「お風呂あいたから」と、声を掛けます。
まな姉は片方の耳にヘッドホンをあてて、キーボードの前に座って譜面を見ていました。パソコンのスピーカーからは聞いたことのないメロディーが、何かの管楽器の音で流れていました。まな姉は音大を大学院まで行ってから、東京のレコード会社に就職しました。でも、そこでは営業の仕事だったようで、やりたかった音楽の仕事には就けずに二年前に退職。大阪に帰ってきて音楽関係の事務所と契約、編曲やアレンジの仕事をしています。自称、作曲家です。
「ありがと、後で入る」
譜面に何かチェックを入れながら言います。私はしばらくスピーカーから流れてくる音を聞いていました。軽快な感じはするのですが、一種類の楽器の音だけなので何か物足りない感じです。
「どした?」
戸口に突っ立ったままの私を見て、
「中入っていいよ」
まな姉が声をかけてくれました。
「ううん、何の楽器かなって思っただけだから」
私がそう言うと、
「何だと思う?」
まな姉が聞いてきました。
「う~ん、トランペットじゃないよねえ、トロンボーン?」
思いついたのを適当に言いました。
「はずれ。ホルンでした」
まな姉は笑顔で言いました。
「ホルンってこういう音なんだ」
「そ、ホルンだけの音って聞いたことないでしょ」
そう言うまな姉の顔はとても真面目な感じでした。
「ホルンだけの曲なの?」
「ううん、そうじゃないけど」
私の問いかけにそう答えるまな姉。でも私がそのまま立っていたので続けて説明してくれます。
「今私が関わってる大学のブラバン部なんだけど、四年生の約半分がホルンなのよね。で、秋の学祭の時に毎年四年生だけで一曲やるのが恒例になってるの」
「うん」
「ホルンがそれだけいるのに、普通にやると面白くないでしょ。だからホルンのパート分けを考えてるの」
「そううなんだ、面白そう」
私がそう言うと、まな姉は顔を上げてこっちを向きました。
「でもねぇ、来年から大変なんだよ。一気にホルン担当が三人だけになっちゃうから」
そう言うとまた譜面に目を落とすまな姉。なので私は自分の部屋に行くことに。
「じゃ、私上行くね」
「おう、勉強がんばれよ!」
私はふすまを閉めかけます。でも、
「あ、ちょっと聞いていい?」
と、もう一度部屋のほうに向き直りました。さっきの、まな姉の言葉が思い出されたのです。
「なに?」
「夕方、マー兄が来たらお邪魔って言ってたの。あれどう言うこと?」
私がそう聞くと、
「うん? そんなこと言ったっけ?」
キーボードのほうに向いてしまいました。
「言ったよ。な~んか気になってたの、どういう意味かなって?」
まな姉は譜面を見ていて答えようとしませんでした。でも、私が戸口に立ったままなので、
「私の主観ってだけで、根拠は一切ないからね。そこんとこよく理解してよ」
私のほうにまた向き直って言いました。
「主観? どういうこと?」
私はまな姉が何を言い出すのか分からず、また聞きました。
「う~んとね。⋯姉さんって、マー兄のことが好きでしょ。…そういうことよ。分かった?」
まな姉にそう言われても私にはピンときませんでした。でもちょっと考えると、まな姉がどういうことを言おうとしているのか分かった気がしました。
「あれ? そういうこと?」
「そ、あんたにはちょっと刺激が強い話かもしんないけど。私はそう思ってるから、お邪魔かなって」
まな姉はそう言いました。でも私は前から別のことを勝手に思っていて、
「でも、お母さんとマー兄の親しさって幼馴染だからで…。そういう意味でマー兄を好きなのは、まな姉じゃないの?」
と、言ってしまいました。
「何言うてんの。そんなことあるわけないでしょ。マー兄は、あたしにとって本当に兄貴なの。何言っても、何やらかしても、必ず許してくれるって感じの、気安い兄貴なの」
そう言うまな姉。
「なんか、マー兄かわいそう」
「え~、十分良いこと言うたでしょ」
「うん、まな姉にとって良いことね。じゃあ、お母さんもそうやないの?」
私は聞きました。
「姉さんは⋯。わかんない。でも、違うと思うな、私は。昔からずっと」
まな姉は、途中からうつむいて言いました。
「昔からって?」
「……わかんない。ずっと昔、子供の頃から」
 私はしばらく何も言えませんでした。でも一つ頭の中で浮かんできたことがありました。それは、物心ついたときから引っかかっていること。それは、私の父のこと。母の旦那さんだった人のこと。中学生のときに一度、母に真剣に聞いた事がありました。そのとき母は教えないと言いました。死んだと言ってごまかすこともできるけど、そうではないので教えないとしか言えないと。どこの誰かぐらい教えてと、母に詰め寄りました。けれど教えないとしか言わない母。私はかなりひどい言葉で母にかみつきました。途中から父のことを聞くのではなく、母を問い詰めることが目的に変わっていたかも。母はしばらく黙り込んでから、『ごめんなさい。これは私なりの意地とけじめなの。そのせいであなたを父親のいない子にしてしまっている。本当にごめんなさい』そう言った母の目には、涙が滲んでいるように見えました。母の涙を見ると、私は自分がすごく悪いことをしている気分になり、自分の部屋に逃げたのでした。その後この話題に触れたことはありません。母が涙を流すような話題は、頭の隅に追いやっていました。それが今、子供の頃から母が正善さんのことを好きだったかもしれない、という話を聞いて、いろんな疑問や解釈と一緒に湧き出てきました。
「マー兄って、私のお父さん?」
私の口から出た言葉にまな姉は驚いて、
「ちがうちがう。何でそうなっちゃうのか訳わかんないないけど、それは絶対にない」と、
「てか、そんな風に見えてたの?」と、呆れ顔でした。
「でも……」
私が何か言おうとしたらまな姉が遮るようにこう言います。
「姉さんが結婚したとき私は中学生だったけど、綾の父親のことは覚えてるもん」
「でも、子供の頃から好きだったって…。じゃあお母さんは、私のお父さんのこと…」
私は複雑な気持ちでした。
「そっちかぁ~、失敗したなぁ。なんで話がそっちの方向に行っちゃうかなぁ」
(綾に父親のことは話すなって口止めされてるのに)って続きのセリフまで聞こえたような気がしました。私が何も言わずにまな姉の顔を見続けていると、まな姉は私の所によって来て机の前の椅子に座らせました。
「絶対に、姉さんに言わないって誓ってね」
私は無言で頷きました。
「あんたもこのまま私がはぐらかすと、すっきりしなくて受験勉強どころじゃないだろうから、少しだけ話してあげる」
私はもう一度頷きました。
「まず、姉さんの相手がマー兄じゃないってやつ。姉さんとマー兄は同い年でしょ? 姉さんが結婚したのは短大卒業してすぐ。その時マー兄は大学三年生なわけだから、常識で考えてありえないでしょ。だいたいマー兄って、確か姉さんの結婚式も出てないんじゃないかなあ。よく覚えてへんけど、その頃しばらく日本にいなかったと思うから」
まな姉は私の顔を覗きました。私は小さく頷きます。
「そして、これが一番聞きたいんやろうけど。あんたの父親と姉さんは、大学のサークルで知り合ったの。姉さんは女子短大やったけど、共学の大学もくっついてたから。姉さんが短大に入ったとき、相手は四年生。私は小学生やったからよく覚えてへんけど、知り合ってすぐ付き合ってたんやないかなあ。うちにもよく来てた。私も何度か姉さんと一緒に遊びに連れてってもらった覚えがあるよ。そしてそのときの姉さんは、すっごく楽しそうやった。だから間違いなく、二人は本当に好き合って結婚したの。ただ、なぜかすぐに離婚しちゃったけどね。その理由は私も聞かされてへんから知らない。ま、若すぎたって言うのが正解やろうけど。そして、あんたが産まれたの」
まな姉はまた、私の顔を覗きこんできました。
「その人のことをお母さんがそんなに好きだったって言うなら、なんでまな姉はさっき子供の頃からずっとって言ったの?」
私は聞きました。まな姉は髪をかき上げて私を上目で睨みます。
「あんたは人を追い込む達人かも。刑事とか向いてるんやない?」
そしてそう言ってから話を続けてくれました。
「私も理解しきれないことがあるから、あんたもこれから話すこと、理解できなくても質問せんでよ。…姉さんとマー兄の間にはもう一人重要な人物がおるの。この三人の関係は、すっごく複雑やの」
「三人って、お母さんと、マー兄と、私のお父さんのこと?」
私は質問してしまいました。
「違う。姉さんと、マー兄と、それと水野聡子さん。名前聞いたことあるでしょ?」
私は頷きました。頷きましたが、なぜ水野聡子さんが出てくるのか見当がつきませんでした。
「この三人が出会った頃って、私はまだ幼児。いや、まだ赤ん坊くらいの頃。出会った経緯とかも、その頃の三人のエピソードもほとんど知らない。でも三人には、三人だけの世界があったと思うの」
「聡子さんって、もう亡くなってるよね」
私はまた聞きました。
「うん、姉さんが結婚する前の年。私が小学校六年生だったかな? いや、制服着てお通夜に行ったから中一だ。とにかく姉さんと聡子さんは仲が良かったよ。もう一人、お向かいの純子さんとも仲良しだったけど、比較にならないぐらい。しょっちゅう家にも来てたし、泊っていくこともよくあった。おかげで私も聡子さんにはよく遊んでもらったよ。ただ、聡子さんはマー兄の彼女だった。いつから付き合い始めたのか、三人とも同じくらい仲が良かったのに、なぜ姉さんじゃなくて聡子さんとマー兄が付き合ってたのか、そのあたりは全然分かんないんやけど。ただ、マー兄と聡子さんが恋人同士ってことにはなってた。けど、三人の関係はずっと仲良し三人組のままじゃなかったのかなと思うの。三人以外の人が、マー兄と聡子さんを付き合ってるってことにしちゃっただけで、三人の中ではその中の二人が付き合ってるって意識はなかった。と、私は考えてる」
しばらく沈黙になってしまいます。私は始めて聞く話に混乱していました。聡子さんのことは聞いたことがあります。ただし、母たちの小学校の同級生で、そしてもう、交通事故で亡くなっている。それ以上のことは聞いたことがありません。私は聡子さんが亡くなったのは子供の頃だと思っていました。小学生のときに車にでもひかれたのだと。でも今のまな姉の話だと、三人は少なくとも大学二年までは一緒にいた。青春時代を一緒に過ごしていた。そして、その中でマー兄と聡子さんは付き合っていた。母がマー兄のことを好きだった。子供の頃から思い続けていた、としたら、その頃の母はどういう気持ちだったのか。また、私の父と出会って、恋をしたとき、どういう気持ちで二人と接していたのか。だいたい私はまだ恋をしたことがない。好きな男の子くらいはいたことがあります。でも多分、片思いと言うほど強い感情ではなかった。友達が言うような、好きな人のことを考えるとドキドキするとか、切なくなるとか、そういう感情を経験したことがありません。そんな私には到底理解できないのかも知れない。でも、一つだけ感じることがある。仲良し三人組だった母たちの中で、マー兄と聡子さんが恋人同士になった。それでも母は、二人と同じ時間を過ごしていた。それはやはり、母もマー兄のことが好きだったから…。あ、ひょっとしたら、マー兄と聡子さんが付き合い始めたのは大学に入ってから? だから母はマー兄達と離れて、私の父と恋をした。そういう結論が頭の中にすーっと生まれてきました。私は何だかすっきりと納得できたような気になりました。顔を上げるとまな姉と目が合います。
「わかんないでしょ」
まな姉が言いました。
「わかんないけど……、分かったような気もする」
私は、天井の蛍光灯を見上げながら言いました。するとまな姉は、
「ほんとう? 私だって最近やっと姉さんの気持ちがわかってきたような気がするだけやのに。何であんたに分かるんやろ。ま、私と姉さんは姉妹って関係やから、根本的に違うかも知れへんけど」
と、言います。意味がいまいちわかりませんでした。
「聡子さんって、どういう人やったの?」
私はまな姉の顔を見て聞きました。
「どうって言われてもねえ、私は子供だったから。うーん、面白くて優しい人だったイメージ。あ、写真あるよ、見る?」
まな姉はそう言って本棚からアルバムを抜いてきました。ベッドに腰掛けると、私にアルバムが見えるように開いてページを繰っていきます。
「あ、これこれ、この人だよ」
私は隣に座って写真を覗き込みました。
「これは私の七五三のときの写真で、私が七歳。姉さんたちは十四歳、中学二年のときだ」
写真を覗き込む私の横でまな姉が言いました。写真は家の前で撮られたものでした。きれいな桜色のかわいい振袖を着た女の子が、その横に膝をついて寄り添う優しい笑顔の女性と写っていました。着物の女の子はまな姉、そして横の女性は母たちのお母さん。私の祖母でした。その二人の後ろに学生服姿の三人の笑顔が写っていました。真ん中はマー兄、頭が丸坊主なのでなんだか笑えます。マー兄の右隣に母。ポニーテールの母は、すごく活発なイメージ。そして、左側が聡子さん。母と比べると小柄で、卵形の小さな顔、髪はショートカット。そんな女の子がニッコリ笑って写っています。ただ、母とマー兄の間には少し空間がありますが、聡子さんとマー兄はぴったりくっついています。また少し、何かが引っかかりました。だけど、何かもっと大きな違和感が写真にありました。私は桜色の着物姿のまな姉が写った、似たような写真を見たことがあるような気がします。今まで忘れていただけ。懐かしい感じ。でも、違和感は大きくありました。それが何なのかは、全然思い当たりませんでした。このときは。まな姉が黙って写真を見続けていました。指で自分の母親をなぞっています。
「お母さん、この後しばらくして死んじゃったんだよね」
まな姉は顔を上げて私のほうを見ると続けました。
「この頃、お母さんはずっと入院してたんやけど、この日はちょうど家にいたの。今思うと、私の為に退院してきてたのかな。多分この翌日くらいに病院に戻って、そのまま帰ってこなかったと思う」
私はもう一度、写真の中の祖母を見ました。祖母の写真は色々見たことがあるけれど、まな姉にそう言われて見ると何だか悲しげな笑顔にも見えました。娘たちと一緒にいられる最後だと、覚悟しているような。
「こうやって改めて見ると、この一見明るい写真もすんごく悲しいね」
まな姉がいつもの声の調子に戻って言いました。私がキョトンとしていると、
「だって、五人しか写ってへんのに、この中の二人はもういないんやもん」
と、続けます。
「……」
私はどう反応すべきか考えていました。するとまな姉がまた口を開きます。
「確かに二十五年前の写真やけど、最年長の人が生きてても六十代なんやから、全員健在で当たり前でしょ、普通なら」
「そうだね」
私はポツリと言いました。するとまな姉はアルバムを閉じて本棚に戻しながら、
「さあ、シャワー浴びてこよ。あ、他にも聡子さん写ってる写真あるから、見たければ勝手に見てええよ」
と言います。
「ううん、今はいい。じゃあ、私上行くね。おやすみ」
私はそう言うと部屋を出て階段を上がりました。階段の途中でまな姉に呼び止められます。
「綾、明日何時起き?」
「六時かな、七時には出たいから」
「OK。起こしたるから安心して夜更かししてええよ。ただし、試験中の居眠りまでは面倒見れんからね」
「まな姉、起きれるの?」
「あんた起こしてから寝る」
「ありがと、それじゃおやすみなさい」
私は自分の部屋に向かいました。

このときはまだ、いつもと変わらぬ日常でした。
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登場人物紹介

山中 かおり 進行性の癌が見つかり余命数か月と宣告される。成人前の娘を残して死ぬことに悩みながらも、穏やかな日常のまま人生を終えることを望む。

山中 綾 かおりの娘 余命少ない母の死を受け入れられず混乱しながらも、一生懸命母に寄り添い前を向く。

山中 まなみ かおりの妹 すでに両親のいないまなみ達。姉まで失う悲しみに耐え、献身的に姉の傍で最後まで姉を支える。

阿部 正善 かおりの幼馴染 ある経緯からかおりとは単なる幼馴染以上に家族のように育つ。子供時代からの様々な思いを抱きながらかおりを見守る。

松嶋 純子 かおりの幼馴染 かおり、正善たちと共に子供時代から一緒に育つ。口数少なく、いつもかおり達を見守っているようなポジション。でもかおりの死を前に彼女も変わっていく。

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