第5話

文字数 6,956文字

 4月15日
   1

 朝、6時半。久しぶりに、すっきりとした目覚めだった。
 昨夜、疲れ切ってアパートに戻り、兄ちゃんから貰った睡眠薬を服用し、それでベッドに横になると一瞬で気を失うように眠ってしまった。それは深い深い眠りだった。夢のかけら一つ見ない。そしてそこから浮上したら、朝になっていたのだ。
 だが、今日は、やっかいごとを片付けなくてはならない。
 親父に会いに行くのだ。
 昨日、兄ちゃんは、親父が勘当を解くと言っていると俺に伝えた。
「親父も親父なりに反省したんだと思う。樹も、それなりに苦労しただろう。誘拐までされて。――どうだ、まずは親父と会ってみないか? それで、帰ってこないか?」
「親父は、そのつもりなのか?」
「身代金要求の電話を受けて、親父も、自分が所詮は人の親だって気づいたんだろう」
「でも、俺は兄ちゃんみたいに優秀じゃないし、親父の期待に応えることなんて絶対できないぜ」
「まあとにかく、明日一度、親父に顔をみせろよ。なにしろ親父は樹の身代金3億、払うつもりだったみたいだから」
 あの守銭奴のクソ親父が?
 それは俺にとっても衝撃的な事実だった。それで俺は、
「わかった。じゃ、明日、家に行くよ」
 そう約束したのだ。

 8時少し前、俺はアパートを出て、実家に向かった。実家は、東京からだと、特急と在来線を乗り継いで2時間以上かかる。電車の中では、いつものようにスマホでSNS、それからネットニュースなんかをチェックする。
 相変わらず先生からのダイレクトメッセージも、SNSの更新もない。それに、俺の誘拐事件のことも、ネットニュースに載っていない。ネットだけではなく、新聞やテレビなどの伝統メディアでも報じられていない。親父が手を回したみたいだ。息子が誘拐されたことを騒がれたくなかったのだろう。俺だってそうだ。しかも、騙されてのことで、出来れば事実自体をもみ消したいくらいだ。
 スマホでのチェックにも飽きてゲームをしばらくやり、それにも飽きてぼんやりと車内を眺める。
 その時だった。
「木崎首相、襲われる」
 その文字列が視界の端を流れ去った。
 車内の液晶画面の速報ニュースだ。
 なんだって?
 俺はもう一度、液晶画面を見る。すぐにまた、同じ文字列が現れた。
「木崎首相、暴漢に襲われる。怪我は無し、犯人は現行犯逮捕」
 もしかして。
 もしかしてこれは、先生、あるいは、先生からのメッセージを受け取った、俺以外の2人の仕業なのか?
 それから俺は、実家に向かう車中ずっと、このニュースの続報を、スマホのあらゆる機能を使って夢中で集めまくった。ニュースによると、やはり犯人は3人組。主犯とみられる男は、他の2人から、「先生」と呼ばれており、木崎首相が怪異と入れ替わっているなど、訳の分からないことを叫んでいる、とある。
 「怪異」?
 「奴ら」ではないのか。
 たぶん、「奴ら」が正解で、それだと何のことだか分からないので、メディアが適当に脚色したのだろう。メディアのやりそうなことだ。だが、どっちにしろ、何だか俺にはもう遠いことのように思えた。
 俺はスマホから目を上げて、車窓を見た。遠くに、ちょうど富士山が見えた。春うららな好天で、青空を背景に、くっきりと美しい富士山が見えた。手前にはいくつも、背の低い山々が連なる。そしてそのさらに手前には畑。街道沿いに、いくつかの建物。そんなような景色が、どこまでもどこまでも続く。
 時々、街道にはスーパーやガソリンスタンドがある。その看板に、見覚えのあるロゴが混じる。親父の企業グループだ。
 そろそろ、降りる駅が近づいている。
 親父はクソだ。
 親父は鬼だ。
 だが、親父は輪転機でも持っているんじゃないかと思うほどに、カネを稼ぐ。人を働かせ、車を動かし、ガソリンを運び、菓子パンを売る。そこに、先生のダイレクトメッセージが入り込む余地はない。


   2

 駅に着いたら電話をと言われていたが、迎えの車をよこされるのが嫌で、そのままバスに乗った。勘当されてからは、庶民として暮らしてきた。その最後の足掻きだ。やがてバスから実家が見え始める。実家の塀は、最寄りのバス亭の一つ前から、もう続いている。
 バスを降り、実家のバカでかい門でインターフォンを押すと、すぐに門扉が厳かに開く。門から玄関までのアプローチは桜並木になっているが、もはや花は散り、葉桜が出揃っている。庭木は常に庭師が手入れを怠らず、いつ見ても完璧な仕上がりだ。
 玄関ホールでは、兄ちゃんが俺を待っていてくれた。
「兄ちゃん、昨日はありがとう」
 兄ちゃんは、緊張気味の俺の肩をぽんぽんと叩いた。
「樹、よく帰ってきたな」
「親父は?」
「部屋にいるよ。まずは挨拶して来い」
 そうだ、そのために来たのだ。でも、親父と会うことを考えると、それだけで顔がひきつる。兄ちゃんは、それを見て苦笑する。
「大丈夫だよ。それに今日は、親父から樹に大事な話がある」
 大事?
 何だろう。
 怪訝な表情になった俺に、兄ちゃんは言った。
「これは、立石家の人間として今一番重要なことだ」
「それ、どんなことなの?」
「すべては親父から話す」
 兄ちゃんはやや素っ気なくそう告げると、俺を2階にある親父の部屋へと急かした。
 濃い焦げ茶のひどく重たい扉。その向こうが、親父の書斎だ。兄ちゃんとは時々会っていたけれど、親父には勘当されてからは一度も会っていない。だから、7年ぶりということになる。俺は、1から10までゆっくりと数を数え、それから扉をノックした。
「樹です」
 声が少し震える。
「入れ」
 親父の低く太い声が答える。
 ドアを開ける。
 親父は巨大な執務机で書類のチェックをしていたようだった。
 親父が顔を上げる。まるで悪魔が憑りついたかのような黒ずんだ顔の猛牛――、のはずだった。
 だが、しばらく会わないうちに、親父の印象は変わっていた。どす黒いオーラ、みたいなものが消えていた。俺がかつてあれほど恐れ、かつ忌み嫌った恐怖と圧で人をねじ伏せるような、黒い目力が消えていた。
 替わりにあるのは、透明な感じだった。ただその透明さとは、決して澄んでいるということではなく、もっと掴みどころのない何かなのだった。
「樹、無事で良かったな」
「あ、ありがとうございます。身代金まで用意していてくれたって聞きました」
「うん」
 親父は頷いた。
「でも、おそらく、使う必要はないとは思っていたんだ」
「犯人が捕まると?」
「自首しただろう?」
「――はい」
「そう出来るって思っていたから」
「お父さんの力をもってすれば、そうかもしれませんね」
 実際、親父が動いたことで、俺は警察署の署長室に案内されたのだから。
 だが。
「いや、まあ、俺の力といえば力だが、俺だけの力というわけではないんだ」
 親父が謙遜するなんて!
 いったい、どんな変化だ。
 驚く俺を、親父は笑った。
 親父は椅子から立ち上がり、机の前に出てきた。それで、グラス2つにウイスキーを注ぎ1つを俺に手渡しして、乾杯をする。
 喉が渇いていて、つい多めに飲んでしまった。アルコールが熱く食道を落ちていくのを感じる。
 親父もウイスキーをうまそうに口に含み、言った。
「俺だけじゃない、俺たちだ。みんな、個々であり、全体だからな。俺たちが犯人を見つけ出し、奴の精神に直接働きかけて、自首させたんだ」
「――え?」
 意味が分からない。
 いったい、親父は何を言っている?
 親父はリモコンを手に取り、操作する。背後で、ドアがガチャンと施錠されるのが聞こえた。俺はびっくりして振り返る。そこには、にこやかな表情の兄もいた。さらには、リモコン操作によって、窓のブラインドがするすると下り初め、すぐに完全に閉まる。
 親父は、親父らしくない静かな声で言った。
「今回の誘拐事件に接してみて、やはり、樹も我が一族の大事なメンバーなのだと思い知った。誘拐なんかされる前に、こうしておくべきだったんだ」
「何? こうしてって、どういう?」
「樹、父さんは生まれ変わったんだ。それに、充もだ」
 そう言って、兄ちゃんの方を顎で指して見せた。
 なんだろう、宗教にでも入信したのだろうか。
「生まれ変わったことで、力を得た。これは強い力だ。人の心を読んで支配し、思うように動かす力だ。これまで人を動かすために、俺は恐怖を使ってきた。人を強く突き動かすもの、それは恐怖だからだ。だから俺は、恐怖を感じさせる存在である必要があった。でももう、その必要はない。俺は生まれ変わり、力を得たのだから。そして樹、お前もまた、立石の一族として、この力を持て。そうすればお前でも、支配される方ではなく、支配する方になれる。騙されて誘拐などされることもなくなる」
 親父は微笑みながら、一歩、俺に近づく。
 いつもの人を恐怖させるような圧迫感はない。
 なのに、気持ち悪い。
 それに怖かった。いつもと違う意味で怖かった。
「恐れることはない」
 親父は言った。
「さあ、お前も」
 そうして――、親父の顔が抽象画のように、ぐにゃっと歪んだ。いや、顔だけじゃない、体もだ。衣服でよくは分からないのだが、体もぐにゃっと、――それはちょうど、体がスライムにでもなったような。
「ひ、ひえ」
 俺は奇妙な声を上げて後ずさった。
 その体が、がしっと掴まれる。
 振り返ると兄ちゃんだった。
「兄ちゃん、兄ちゃん、あれ」
 俺は親父の方を指さす。
 でも、兄ちゃんは笑っていた。
 笑いながら、兄ちゃんの顔もスライムみたいに……。
「あ、あああ」
 俺は、その場に腰を抜かした。
 その俺を、スライム化した兄ちゃんが支えている。
 『樹』
 親父の声がした。
 声は耳からではなく、直接、頭の中で響いた。
 『人類は数年前、異星人とコンタクトしたのだ。異星人は、地球人と溶け合い一体化する、そういう性質の生物だった。一体化してしまえば、地球人は異星人の力を使うことが出来るようになる。それはつまり、地球人の心を読み、操るということだ』
 親父の服を纏わりつかせたスライムが、俺の方に近づく。
 『異星人たちは、個々であって全体である、そういう存在だ。そして彼らと一体化することにより、地球人もまた、個々であって全体になれる。そうなればもう、我々は互いに敵対することはなくなる。個々であると同時に全体なのだから』
 俺にはそれがどういう精神状況なのか、うまく想像できない。
 『でも、異星人の数はそれほど多くないし、増えるペースも限られる。だから彼らは、まずは地球人の支配階層から一体化を進めることにしたのだ。俺のところに、異星人が回ってきたのは、ようやく去年になってのことだ』
「そうか」
 俺は呆然としながらも呟いていた。
 そういうことか。
 忘れかけていた、先生からのダイレクトメッセージ。
 記憶が蘇る。
 俺の中で、先生のメッセージが示すところが初めて明らかになった。
 俺は言った。
「先生が俺に伝えてきた、『木崎首相は入れ替わっている』というのは、正確じゃない。木崎首相は異星人と一体化した、乗っ取られている、そういうことだったのか」
 『乗っ取りじゃない』
 後ろから、兄の声が頭の中で響く。
 『一体化だ。融合だよ』
「それでそうやって、異星人の力で、一般の地球人に言うことをきかせるっていうのか」
 先生が、どこまで正確に事実をつかんでいたのかは、分からない。でも、先生は何かを掴んだ。そして危機感を持った。だから、何とか警告を発しようとしたのだ。
 『樹、バカなお前には分かるまい、人の上に立つ経験もないだろう。いいか、樹』
 父の声がガンガンと鳴り響く。
 『大半の人間はただただ愚かだ。それは、指導層にも言える。人類は、いつ自滅するか、わかったもんじゃない。でも、異星人と融合すれば、そうではなくなる。指導層が、個々でありながら全体になれれば、対立は抑制される』
 目の前で、親父のスライムから、柴犬ほどの大きさのスライムが分離して、2本足が出来て立った。その分離スライムが、俺にするすると迫ってくる。
 『樹』
 親父は言う。
 『お前も一体化するんだ。それでお前も指導層に入れ。立石家の一員として、然るべき立場に立て』
 俺を後ろから押さえる兄ちゃんスライムの力はとても強くて、俺は身動きが取れない。そうするうちに、分離スライムが俺の足に取りついた。スライムはチノパンの裾から中に入ってくる。俺の皮膚にぴったりとくっつく。冷たくはない、ちょうど体温くらいだ。
 ああ、と俺は思う。
 俺もまた、スライムになってしまうのか。
 それが俺に、支配層としての、立石家としてのポジションを約束するのか。
 スライムに張り付かれた両足が、温浴しているかのように、じんわりと暖かくなってくる。
 生まれ、変わるのか――。


   3

 気がつくと、実家のリビングの巨大なソファーで転寝していた。
 もう父も兄も出かけてしまっていた。
 俺にはりつくスライム。
 あれは夢――?
 親父や兄ちゃんは、自由にスライムに変身した。俺もスライムに変身できるのか?
 変身しろ!
 変身しろ!!
 心の中で強く唱えてみたが、俺の体はそのまま、俺のままだった。
 しばらく実家でぼんやりしていたが、何もすることがない。とりあえず、自分のアパートに帰ることにした。

 アパートに戻ってきた時には、もう午後も遅い時間で、そろそろ太陽が黄ばみ出していた。
 郵便箱は空。安っぽい外階段を上がり、安っぽいドアの簡単に開きそうな鍵を開けて、部屋に入る。
 親父の書斎のクローゼットほどの広さもない、1Kのアパート。俺は1泊分の荷物を入れたカバンを投げ出すと、ジャケットも脱がずにそのままベッドに倒れこんだ。
 もう、何だか、訳が分かんねえ。スライム化、異星人との融合。あれは、駆け付けで一気飲みしたウイスキーが見せた幻か。それにしてはあまりにリアルな。
 でも、あの後、いくらやってみても、俺はスライムになんてなれない。
 万代こと浜田久雄はどうしているのか。拘置所の中か。それに、元気は、本原元気は大丈夫だったのか?
 そして、先生。
 首相を襲撃した――。
 もちろん、先生からのダイレクトメッセージもSNS更新も無い。
 表で、子供たちが遊んでいる声がする。それに、廃物回収車の宣伝のアナウンスも聞こえる。そうした音たちが、ほわんとエコーしながら遠ざかり、近づき、俺はまどろみかかっていた。
 その時だった。
 『立石くん、立石樹くん』
 俺の頭の中に、俺を呼ぶ声が突き刺さるように飛び込んできた。
 聞いたことのない声なのに、俺には分かった。
 先生だ。
 『先生、今どこに?』
 『僕は警察に捕まった。警察ももう、幹部は奴らに入れ替わっている』
 『先生』
 俺は少なからずしょんぼりして、告白した。
 『俺ももう、入れ替わってしまいました』
 でも先生は驚かなかった。
 『知っている』
 先生は冷静だった。
 『だがきみは、まだ、地球人の心を失っていない』
 そして先生は告げたのだ。
 『きみだけが唯一の希望なんだ。立石くん、『奴ら』がまた来る。部屋から出るんだ、逃げろ』
 『逃げろって、でもどこに?』
 『とにかく、そこを離れろ。そうしないと食われる!』
 なんで、先生の声が届くのだろう。それは俺が異星人と融合したからか? その能力か? でも、俺はまだ、心は融合していない、乗っ取られていない、そういうことか?
 俺はよろつきながらも靴を履き、玄関ドアを開けて表に転がり出た。
 ああ、何てことだ。
 空が一面、どぎつい紫に染まっていた。
 そして、光っていた。
 アニメで見た、この世の終わりみたいな。
 何が起きているんだ。
 俺は手摺りにつかまりながら、階段を降りた。道には、新聞を配達する男が、バイクを降り、忙しそうに走っていた。あいつは気づかないのか。この異様な空に。男は俺のアパートの集合ポストへとやってくる。それで、新聞を購読者の郵便箱へと差し込んでいく。
 俺は、つい、声を掛けていた。
「空が。空が見えないのか?」
 男は仕事に集中しているようで、俺の声には気づかない。
「おい」
 それとも無視か?
「おい!」
 俺は男の肩をつかみ、こちらを振り向かせた。
 男は怪訝そうに俺を見た。
 そして。
 男の顔が真ん中から真っ二つに裂け始めた。
「うわあ」
 俺は咄嗟に後ろに飛んで逃げようとした。でも、しくじった。しくじって尻餅をついた。
 男は俺を覗き込む。
 真っ二つに裂けた男の顔から、別の何かが生えてきていた。
 あ、これ、と俺は思った。これ、子供の頃によく見ていた戦闘モノのテレビシリーズ、そこに出てきた異星人と似ている。
 異星人は口を大きく縦に開けた。
 口か? あれは口なのか? 口というにはあまりに大きい。
 それで異星人は俺に近づいてくる。俺は腰が抜けていて、逃げることが出来ない。
 そうだ、既に融合している、あの異星人の姿になれば。それで。
 スライム化しろ!
 スライム化しろ!!
 必死に叫んだが、スライムになれない。
 異星人の大きく開いた口が俺の頭に覆いかぶさる。
 ああ、俺はここで食われて死ぬのか。
 異星人の顔の向こうに、まだ少しだけ空が見えた。見慣れない、見たこともない、紫の空。
<了>
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