第4話

文字数 6,562文字

4月14日
   1

 朝、異様な声がして俺は目を覚ました。
 声は隣のベッド、元気が発していた。元気が布団を頭から被り、呻き声を上げているのだ。
「おい元気、どうした? 大丈夫か?」
 俺は、布団はそのままにして声をかけた。だが、元気の呻き声は続く。
 急病、か?
 俺は慎重に布団をはがした。元気は海老のように丸くなり、涎をだらだら流しながら苦しがっていた。
「元気、おい、どうした? どこが苦しいんだ?」
 声を掛けても呻くばかりで、埒が明かない。顔面は蒼白、獣じみた声だ。
 こいつ、死ぬ――のか?
 まさか「奴ら」に毒を盛られたんじゃ?
 いやいや、レトルト食品もペットボトルも封はしっかりしていたし、俺は何ともない。でも気がつかないところで、もしかして。
 病気か、毒か、それとも……。
 そこで、ふと記憶が過ぎった。
 この症状には心当たりがあった。クスリ、じゃないのか? こいつ、麻薬の常習者で、それでクスリが切れたんじゃないのか。
 もう10年近く前、大学で東京に出てきて、六本木あたりで遊んでいて、そっちの世界と繋がりが出来かけていた時があった。まだ親父からは勘当されてなかったから、遊ぶ金はいくらでもあって、蜜に集まるアリのように半グレやクスリの売人なんかも寄ってきたのだ。
 でも、クスリはやらなかった。いや、あのまま、あの世界にずっといたら、いつかはやっていたかもしれない。
 俺の行動が親父にばれて勘当され、資金源が絶たれ、また、親父は、
「親としての最後の務めだ」
 そう言って、徹底的に俺とそっちの世界との繋がりを絶った。親父のことは、子供の頃から今に至るまで、ずっと嫌ってきた。だが、その一点だけは感謝しなくてはいけないだろう。
 ただ、周りで、クスリに苦しむ奴らのことは随分、見てきた。だから分かる。これはヤク切れの禁断症状に似ている。しかも、そうだとすれば相当深入りしてしまっている。
 ――でも、断定は出来ない。
 俺は頭を振った。
 俺は医者でもなんでもないから、断定なんか出来ない。もしこれが致命的な病気、あるいは致死性の毒であれば、元気は、19歳の小僧は死ぬ。
 何にせよ、俺の手には余る。
 救急車を呼ぶか?
 でも、俺たちは「奴ら」に追われ、「奴ら」と戦っている。勝手にこの場所を他の誰かに明かすのは危険だ。危険だが。このまま放っておくわけにもいかない。元気の状態がさらに悪化したように見える。こいつ、死ぬかもしれない。救急車を。でも、俺たちは「奴ら」に追われ、でも、でも、でも……。
 どうする、さあ、どうする――。思考がぐるぐる回る。ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。それで、もう考えるのが嫌になった。
 あー、嫌だ。
 もう止め、止め。俺は決めた。救急車だ。スマホを特殊ケースから取り出して、救急車を呼ぶ。そう決めた。あとは知らねえ。それで俺は、早速、特殊ケースを開けようと床に跪いた。鍵がかけてあるわけでもなく、ケースは簡単に開く。
 だが――。
 入れておいたはずのスマホが無い。何も入っていなかった。
 なんでスマホが無い?
 首相入れ替わりに、元気の異変に、今度はスマホ消失! 何でこうも次々と!
「あー! もう!」
 俺は苛立った。分かった、分かったよ、歩くか。歩いていくしかないか。
 昨日、車で登ってきた時の感じでは、麓までとなると、とんでもない距離だ。だが、近くに、他の山小屋や山荘があるかもしれない。車が通りかかるかもしれない。
 「奴ら」に関しても、この小屋が安全で、外に出たら途端に危険ということもないだろう。
 
 俺は元気を小屋に残して外に出た。俺の気分とは裏腹に、よく晴れた爽やかな朝だった。小屋を囲む森林からは、無数に鳥の囀りが聞こえた。
 脳裏にふと、遠い昔、子供の頃の記憶が蘇る。軽井沢の別荘だ。夏休みごとに、俺は家族で祖父が持っていた軽井沢の山荘に行き、そこでひと夏を過ごした。家族でといっても、親父は仕事で東京と地元とを行き来していて、軽井沢には来なかった。いや、仕事だけじゃない。その間、毎年、愛人と海外旅行を楽しんでいたことを俺は中学に上がる頃に知ることになる。ご親切に知らせてくれる輩など、敵の多い親父にはいくらでもいたのだ。
 いや、そんなことはもうどうでもいい。あの家とは縁を切ったのだから――。
 俺は追想を振り切って、林道を麓へと歩き出した。


   2

 どこまで林道を下りても、建物一つ見かけることは無く、延々と山林が続いた。もちろん、人影を見かけることはなく、車も一台も通らなかった。
 太陽が高くなるにつれ、気温は上がり、汗ばんできた。4月とはいえ、もう日差しは夏とそんなに変わらない。俺は日陰を探して歩いた。喉も乾いてきた。飲み物など何も持たずに出た。小屋にはペットボトルのウーロン茶が何本も残っていたのに、持ってこなかった。相変わらず俺は愚かだ。結局俺は愚かだ。
 山は静かだった。鳥の鳴き交わす声が梢からはしていたが、朝よりは少なくなっていた。後は、自分が歩く、その足音しか聞こえない。だから俺はひたすら足音を聞きながら歩いた。足音だけに神経を集中した。そうしていないとロクなことを考えず、思い出さず、ただうんざりすることになるだろう、そう思ったからだ。
 クソみたいな仕事――、実はこれすら、あのクソ親父のコネだ。大学を中退し、そっちに近いところにいた俺にとって、働くと言っても簡単にクチはない。だから、親父にあてがわれた。勘当しておきながら、親父は職をあてがった。俺は、そこにぶらさがっているしか、生きていくこともできないってわけだ。
 職場での周りの空気は微妙だ。会社の大得意先のオーナー社長のご令息。だが、勘当されていて、親父の会社の跡を継ぐのは出来の良い兄ちゃんだ。俺の出番などない。
 そういう俺を押しつけられて、あの会社も損な役回りとしか言いようがない。気の毒なことだ。職場の奴らも、俺も。
 クソ仕事。
 給料は安く、面白くもなく、でも、俺には他に自分の食い扶持を稼ぐ気概もない。
「くそっ! くそっ!」
 俺は気がつくと、そう悪態をつきながら歩いていた。
 そして、聞こえてきたのだ。下の方からパトカーのサイレンの音が。
 俺は足を止めた。
 あのパトカーは、警察は、信用していいのか? 「奴ら」の手が回っているのではないか?
 だからこそ、俺と元気を探しに来たのではないか?
 いや、もしかしたら違うかもしれない。警察は、こっちの側に着いているのかもしれない。あれから1日経っている。万代がうまくやった、そういう可能性だってある。
 それに、ここでパトカーに拾ってもらわなければ、俺はたぶん麓まで辿り着けない。そうするうちに、元気がやばいことになるだろう。
 別に元気のことなんて、どうなったって知りはしないのだ。
 しないのだが、でも俺は――、もう歩き疲れた。
 いろいろ、疲れた。
 もし「奴ら」に捕まったら、俺はどうなるんだろう。人体実験みたいなことをされるのは、勘弁だ。いっそ、ひと思いに殺してくれるんなら、それもいいかもしれない。
 俺は疲れた。とにかく疲れたのだ。
 隠れるのは止めた。俺は道の真ん中に仁王立ちになり、パトカーがやってくるのを待った。
 サイレンの音が着実に大きくなる。それを喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、よく分からない。うまくいく可能性は半々か、あるいはもっと分が悪いか。もしかして、いやおそらく、俺は「奴ら」の手に落ちるのだろう。先生からの使命も、3人チームでの戦いにも終止符が打たれ、それと同時に、これまでの毎日、クソな毎日も終わりになる。
 パトカーが視界に入ってきた。そこからは迷う暇もない、あっという間だった。ほんの数秒でパトカーは目の前に来て、停車する。パトカーは3台もいて、そこから驚くほどの素早さで警官が何人も飛び出し、俺を取り囲んだ。
「立石樹さんですね」
 そう俺に尋ねたのは警官ではなく、私服の刑事だった。
「そうです」
 俺はやはり安堵していたのだと思う。いずれにせよ、終わりに出来ることを。戦う気概など無くなっていた。いつもそうだ。俺は、ちゃんと戦うことも出来ない。それが、俺だ。
 さあ、俺は『奴ら』に捕まり、殺されるのか?
 それとも、もしかして万代は成功したのか?
 だが、刑事はおかしなことを言った。
「逃げてきたんですね?」
「え?」
 どういうことだ?
「立石さん、あなたを見張っていた男はどうしました?」
 俺はやっとのことで言った。
「――誰にも見張られてはいませんでした。あ、そうだ、小屋にいる、本原元気という大学生が、おそらくは麻薬の禁断症状で、かなりまずい感じです。助けに行って貰えませんか?」
 ちょっとの間。刑事たちの間での目配せ。
「分かりました。2台を、山小屋に向かわせます。立石さん、先に、山を下りていましょう」
 俺は刑事をじっと見た。
 こいつは、「奴ら」なのか?
 でも、見分けることなんか、全然出来なかった。いずれにせよ、この刑事に抵抗できるわけなんかないのだ。


   3

 後部座席に刑事と二人で乗り込むと、パトカーは走り出した。
 本当に俺は自分をバカだと思うのだが、この時になってようやく、刑事が「奴ら」側でもなく、ともに「奴ら」と戦う「味方」でもなく、どちらでもなく。そうじゃなくてこの刑事は「奴ら」とは全く関係なく、ただ木崎首相を拉致しようとしたテロリストの共犯者として、俺を逮捕したのだという、3つめの可能性に気づいた。そして急に、これこそがもっともありそうな可能性に思えてきたのだ。
「立石さん」
 数分の後、タイミングを見計らうようにして、隣に座る刑事が俺に言った。もう、嫌な予感しかしなかった。
 だが。
「落ち着いて聞いて欲しいんですが――、あなたは誘拐されていたんです」
 意味が分からなかった。俺は、きょとんとした顔をしていたと思う。だが刑事はそれを笑うこともなく、ただただ物静かに、繰り返した。
「あなたは誘拐されていたんです」
 しばらくしてから俺はようやく、
「誰にですか?」
 と答えた。
 刑事は写真を取り出して見せた。
 万代だった。
 でも、例のスーツ姿ではない。写真に写る姿は、あまりに分かりやすいほどに――、そっちの世界の人だった。万代がそっちの人間であることは、出会った翌日、昼間の日差しの中で見たときにもう、うすうす感じてはいたのだ。
「この男、浜田久雄と言います。広域暴力団に関係していて、過去、詐欺、傷害、恐喝で前科3犯」
「どういうことでしょうか」
「立石さん、あなたのお父様のところに、浜田から電話がありました。身代金目当ての営利誘拐です」
 親父?
 あの因業なクソ親父に?
「その浜田という男は捕まったんですか?」
「それがちょっと不思議なんですが、自首してきたんですよ」
「自首?」
「ええ。自分が立石さんを騙して、この山の山小屋に拉致していると」
 俺は訳が分からなくなった。
 だって万代は、――いや、浜田久雄は、先生からのダイレクトメッセージを受け取っていた。それは俺自身の目で確かめてある。それもまた、浜田久雄による偽りだというのか。どこまでが偽りなんだ。先生のあのダイレクトメッセージ自体も嘘なのか? 先生もグルだというのか? 俺は先生にも騙されていたのか?
「浜田は、だいぶ前から、立石さんのことを誘拐しようと目を付けていたようです。立石さんは気づいておられないようですが、浜田は、立石さんが大学時代、少々、羽目を外していた時から知っていたようなんです。それが、ごく最近、SNS上で再び、立石さんを見つけた」
「刑事さん、俺は、ミバレしないようにSNSでは匿名で書き込みしてましたが」
「ネットでは、驚くほどちょっとしたヒントから、身元が分かってしまいます。それは、素人が想像する以上ですよ。浜田は、あなたの実家が大変な実業家であることを10年前から知っていた。そこで、うまく近づくタイミングを狙っていたようです」
「じゃあ、山小屋に俺といた大学生は?」
「彼は大学生じゃない。学生証などを見せたのなら、それは偽造でしょう。彼のことは浜田が闇サイトで見つけてきたようです」
 パトカーはいつの間に、麓に降りていた。信号に遮られることもなく、快調に走る。
「なかなか信じられないようですね。無理もないか。浜田の詐欺はいつも徹底していて、被害者もなかなか騙されたと気づかないんです。だから発覚しづらいし、立件も難しい。今回は、SNSで立石さんが繋がっている先と、浜田も繋がったんですね。それで、仲間を装って近づいた。そうですよね? 心当たりは?」
 先生は?
 先生はどうなんだ?
「SNSについて、浜田は何て言ってたんですか?」
「何か、気になることでも?」
 もう、今後、万代に会うことなど、二度とあるまい。そうであれば、これは、聞いておかなくてはならない。
 俺は意を決して尋ねた。
「先生、というハンドルネームの人について、浜田は何か言っていましたか?」
「いえ、何も。おかしなことですが、浜田は自首するつもりなど、まったく無かったようです。それが自首して、全部自白した後になって急に絶句して、そのまま取調室の机に突っ伏したそうです。俺は何をやっているんだ、折角成功しかかっていたのにと、叫びながらね」
 いったい何が起きた?
「立石さん、先生というのは?」
 俺の「知りたい」という気持ちが、「奴ら」に対する恐怖心を上回った。俺は、刑事にぺらぺらと秘密を喋ってしまった。
「『先生』は、僕がフォローして信頼していた人のSNS上のハンドルネームです。浜田も先生とSNSで繋がっていて、どうやら浜田は僕の住所や電話番号などの情報を先生から仕入れたみたいで」
「それは違いますよ、立石さん」
 でも刑事がやんわりと俺を遮る。
「さっき言ったように、浜田は先にあなたの情報を全部入手して、その上で、あなたとの自然な繋がりをつけるために、SNS上で何人かをフォローし、繋がったんです。奴はプロです。おそらく、あなたのSNSのIDとパスワードを、浜田は入手している。あいつは、貴方のところへ来たSNS上のメッセージの類は、おそらく全部、盗み見ていたはずです」
 ちょっと待て。ということは、俺のところに来た先生からのダイレクトメッセージを、浜田久雄もまた盗み見ていたということか? それで浜田は、まずネットで2人目にする男を見つけてきて、自分は3人目に成り済ましたというのか?
 とすると、本当の2人目と3人目は、どこにいるのだろう。
 先生は、どうしたのだろう。


   4

 やがてパトカーは市街地に入り、そうするともう間もなく、警察署だった。俺は犯罪者ではなく被害者なわけで、でも、気分は完全に犯罪者で、まるで腰ひもに手錠でもかけられた気分で車から降りた。
 刑事の後ろについて署の建物の中に入る。地方都市のぱっとしないビルだ。中は薄暗い。刑事に連れられ、エレベータに乗り、最上階5階に着く。
 廊下の突き当りには、署長室とあった。
「刑事さん?」
「立石さん、あなた、立石グループのご子息だそうですね」
 親父のところに身代金要求が行ったのであれば、俺の身元を知られていても当然だろう。
「ええ、まあ」
 刑事は署長室の扉を開けてくれて、俺に先に入るように促した。
 中に入る。
 署長の執務机の前の応接セット。そこに――。
「兄ちゃん!」
 兄ちゃんがいた。
「樹、無事だったか!」
 出来の良い兄。何でもうまくこなす兄。学業優秀、スポーツ万能、リーダーシップ抜群、性格も温厚。その真逆で、何をやらせてもダメな俺にだって、いつも優しい。悪逆冷酷なクソ親父とは違う。きっとそれは、死んだお袋から兄ちゃんが受け継いだ血。
 急に、涙が出た。出始めたら止まらなくなった。
「なんだよ、樹。もう、大丈夫だ」
 兄ちゃんが、嗚咽する俺の背中をさすってくれる。
 そうだ、大丈夫だ。ここは警察署の中で、兄ちゃんもいて。悪人だった万代、じゃない、浜田は逮捕された。
 それから。
 それから……?
 先生のこと、首相入れ替わりのこと、忘れたわけではない。ないが、あれはきっと、デマだったんだと思う。もうどうでもいいと思う。
 もう、忘れてしまおう。
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