パチンコ中華ドロップキック
文字数 4,867文字
窓から差す日に突かれ、腫れた瞼をギギギと開ける。人影のないリビングをチラチラ照らす木漏れ日。窓の外の欅が揺れる。
重たい頭をかまたげて見回す。誰もいない。少し這いずりキッチンと玄関にも目をやる。どうやら奴はいないようだ。夢ではない。筋肉痛とあいつにやられた痛みが証明している。
ちゃぶ台の上には空き缶4本と押し込まれた吸い殻、スナック菓子の空袋やらカップ麺の残骸やらで散らかる。つけっぱなしのTVとタバコの臭いが兎の暴挙を思い起こさせる。
「んぐぐ…ぐ。くそがぁ…」
うめき声を上げながらヨロヨロ立ち上がる。
キッチンの換気扇を回してから。洗面台に向かう。鏡に映ったこめかみの辺りにはアザが。
顔を洗うと少し痛んだが、気分は幾分マシになった。
コンロでお湯を沸かす。
あいつは何だったのか思いを巡らす。どう考えても理解できない。考えるだけ無駄だ。道端でたまたま変態を拾ってしまった結果がもたらした不幸だと、自分に言い聞かせた。
コーヒーを飲むとようやく気持ちが落ち着いてきた。あんな見知らぬ変人を連れ込んだ自分も自分だと、ため息が溢れる。
まあ話のネタにはなるだろう。信じてくれる人の方が少なそうだが。
散らかったテーブルを片付けていると、腹がぐうと鳴る。それもそうだ、帰ってきてから何も食べていない。冷蔵庫を開ける。
少し減った缶ビールとつまみ類。笹かまとチーズも兎に食われたようだ。パッと食べれるものがない。
気が抜けた。壁に背を寄せズリズリと腰を下ろす。
「買い物行くかあ」
コーヒーの最後の一口をカップに残し、出かける準備を。上着を羽織ってポケットを確かめる。
「あれっ、財布どこやったっけな。」
玄関の周り、シンクの周り、冷蔵庫の上、ちゃぶ台の辺り。少しずつ嫌な予感がしてくる。
一度立ち止まり思案する。つい置いてしまいそうな所にはない。昨日履いていたズボンのポケットの中。ない。
ついにそこら中の物陰を引っ掻き回し、部屋が散らかっていく。
ない。財布がない。
記憶は朧げだが、昨日帰ってきた時には間違いなくあった。憎たらしい兎の顔が脳裏に浮かび上がる。
「あんの、糞野郎ぉ」
間違いない、あいつだ。はらわたが煮えくり帰るとはまさにこのことだろう。拳に力が入る。
僕は乱暴に玄関のドアを開けると。駆け出した。昨日の電柱。いない。ゴミ袋も無くなっている。息を切らして街の方に向かう。もしいればすぐに見つかる。コンビニ、公園のベンチ、駅前のロータリー。いない、いない、いない。街中を駆け回ったが兎は見つからない。それもそうか、いつ家を出たかも分からない。
「くそッ!!」
もう警察に頼るしかない。昨日の馬鹿みたいな出来事を説明しなければならないと考えると胸の辺りがムカムカする。
交番を目指して歩いていると。パチンコ屋が目に止まる。ガキの頃、よく親父に連れてこられていた忌わしいパチンコ屋。いつのまにか少し小綺麗な外装に変わっていた。
近寄らないようにしていたから忘れていた。あいつが居るならここだと、直感的にそう感じた。
開く自動ドア。割れんばかりの騒音、煙草の煙、薄汚いパチンコ打ち共、全てが忌々しい。
人もまばらなパチンコ台の前。
揺れる紫炎の向こうで、目立つあいつはすぐに見つかった。タバコを吸いながらパチンコを打つ兎男。
灰皿の横には見慣れた財布が。
怒りがグラグラと湧き上がる。
兎に詰め寄り、怒鳴り散らすが無視される。耳障りな店の音が感情を逆撫でする。僕はたまらず兎の胸ぐらに掴みかかろうとした。瞬間、どちらが速かったか、奴の鋭い一撃がみぞおちに刺さる。呼吸が止まり、膝から崩れ落ちる。よだれを垂らし、苦痛に咳き込む僕の横を、悠然と兎が通り過ぎていく。ゆっくりと開く自動ドア。逆光で奴の姿が少しずつ見えなくなっていく。
「ま、待てよ…」
呼吸を整え、なんとか立ち上がり、兎を追いかける。開く自動ドア、逆光に目が眩む。フラフラとパチンコ屋を出ると、少し先の商店街の中華屋の前で立ち止まっている兎を見つけた。
もう限界だ。どうなってもいい。
バタつく足で駆け寄り、そのまま兎に殴りかかろうとした丁度その時、自転車で巡回中の警官がくる。
願ってもないタイミング。僕は警官を呼び止める。
「お巡りさん!!助けて下さい!この変態がー」
兎を指差し、奴の悪行を早口で説明する。
兎は顎に手を当てたまま中華屋を見ている。
捲し立てる僕、怪訝そうな警官の顔、中華屋を見つめる兎。
「お兄さんなんか薬でもやってるの?それともおちょくってる?」
返ってきたのは信じられない言葉。
俺は兎を指差し大声で警官にこいつだと言う。
警官は中華屋の前をキョロキョロ見る。
「んー、とりあえず交番で話聞くからさ、行こうか。」
信じられない、見えていないのか。
たまらず僕は喚き散らす。兎が迷惑そうな顔で振り返る。
「お兄さん一回落ち着こうか、迷惑だから。続きは交番でね。」
そういうと警官は僕の肩を掌で押し、歩くように促す。掴まれてはいないが警官の腕には力が入っているのが分かる。振り返って奴を見る。
憐れみを浮かべ、中華屋の前からこちらを見る兎。応援を呼ぶ警官。
なんてことだ。あいつは何なんだ。僕の妄想なのか。混乱して弁明の言葉も浮かばない。僕はうな垂れて警官に従った。
尿検査までされ、家に帰る頃には日が暮れていた。ついには身内が死んで頭がおかしくなっていたと自分から弁明する羽目になった。
街灯の少ない、寂しい夜道をトボトボと家まで。どうやら僕はいつの間にか精神をやられていたようだ。暗い気持ちに呑まれる。
力なく階段を登ると、部屋は電気がついている。鍵のかかっていないドアをゆっくり開ける。
兎が台所に立っている。
ジャッジャッ。
無表情にフライパンで何かを炒める兎。
寒気がする。もう何も考えたくない。このままどこかへ逃げ出したい。一度外に出る。叫び声を上げたいのを堪え、ドアの前で息を全て吐き出す。
何もいない。何もいない。何もいない。そう言い聞かせもう一度、部屋に入る。
僕はキッチンを見ずに居間へ向かい、テレビをつける。台所からフライパンの音と旨そうな匂いが漂ってくる。何もかも僕の妄想の産物なのだ。この音も匂いも。
TVの音量を上げる、現実の音で妄想を掻き消すんだ。どんどん音量を上げる、他に何も聞こえないように。横の部屋から壁を殴られる。我に帰りTVの音量を落とす。
ズリズリと踵を擦る足音が後ろから。
兎が大皿で料理を運んできた。
ドンッとちゃぶ台に置く。
青椒肉絲。2人分の箸。
ビールを開けると兎は僕の手からリモコンを奪い取る。野球中継。兎は青椒肉絲と野球をつまみにビールを飲む、喉を鳴らして。
ポカンとしてその光景をながめる。
これは現実か?
目の前の青椒肉絲から旨そうな匂いが立ち上がってくる。油で照る細切りの肉と野菜。
恐る恐る箸を手にとり、兎の様子を見る。
こちらには目もくれず野球中継を見ている。
皿に箸を伸ばし一口頂く。旨い。肉と野菜の旨み、滲み出る脂、まるで中華屋の味。空っぽの胃袋まで青椒肉絲がスルスルと辿り着いた。
これは現実だ。一つも意味が分からないが。
急に腹が減る。
ついに僕は開き直った。台所の炊飯器から米をよそり、青椒肉絲と一緒にかき込む。旨い。旨い。旨い。思えば昨日からまともに食べていなかった。温かい食事に涙が滲む。
兎は遠くを見るような目でTVを見つめ、煙草をくゆらす。
2杯目の米を求めてキッチンへ向かおうとした時、兎が缶を机に打ち付ける。
カンッカンッ
軽い音がする。無表情が見つめる。
察した僕はため息をつきながら冷蔵庫へ向かう。缶ビールを2缶机に置く。兎に続きプルタブを開ける。旨い。口と喉に残った脂が胃に流し込まれる。青椒肉絲の残りをつまみに兎と野球中継を観て過ごした。
* * *
穏やかな昼下がり。
シンクで昨夜の食器を洗う、皿もフライパンもギトギトだ。
僕が目を覚ますと、兎は片肘で横になってTVを見ていた。ちゃぶ台の上には紙パックの野菜ジュース。また勝手に何かを食べたようで、昨日の皿の上に卵の殻が捨ててある。コンロには水滴のついた鍋が。茹で卵でもしたのだろう。貴重な卵が2つも無くなっていた。
スポンジで皿を擦りながら考える。
妄想の線も捨て切れないが、どうやら現実の可能性が高い。ただ警官には見えなかっただけ。
僕にだけ見える妖怪、貧乏神?妖精?何でもいいが人間ではない。親父の幽霊でもない。何となく行動は似てるが、あそこまで暴力的ではないし背も高くない。顔も似つかない。
何にせよ厄介なものを自分から家に招き入れてしまったのだ。借金、就職活動。面倒な死後の手続きが全部終わったと思ったらこれだ。つくづく僕は運がないらしい。
洗い物を終え、キッチンから兎の様子を眺める。こういうのはなんだ、寺か神社か?霊能力者か?何処に行けば祓って貰えるのかと、ぼんやり考え、壁にもたれる。
「このまま一緒に暮らすのはたまんないしなぁ」
ビィーーッ
不意にボロいチャイムがなる。
玄関のドアに振り返る。
「宅急便でーす」
野太い声、いつもと違う配達員か。兎が見えるか試してみようかと思いながら鍵を開けに行く。
「はーい、今行きますよー」
カチャカチャとドアチェーンを外し鍵を開けた時、不用心だったとよぎったが遅かった。
バァーン!!
勢いよく蹴り開けられたドア。
僕はドアの隅に額をぶつけられ、勢いのまま後ろに転げた。
スカジャンを羽織った柄の悪い男が、肩を怒らせて、土足で上がり込んでくる。後ろにもう1人控えている。
「おぉ、イナバさん。やっと出てくれましたねえ。困るんですよお、いつも居留守ばっかりで。こっちも忙しいんですから」
この男は初めて見た。玄関口にもたれた黒っぽいシャツを着た中年男は見覚えがある。親父とよく揉めていた奴だ。
「親父さん死んでもねェ、お金は返してもらわんと。600とんで8万7千でしたかね兄さん?」
スカジャンが振り返るが黒シャツはタバコに火をつけて答えない。
眉間に皺を寄せて男が続ける。
「まぁー、600か700か知らんけど、これが今日までの分ですから。さっさと返さんと増えてくばっかですわ。どうしますか息子さん。返すアテないでしょう?碌に葬式も上げれんくらいですし」
「まっ、待ってくれよ。今、色々手続き終わったばっかなんだよ。これから仕事も探さないと…いけないし」
何とか言い返すも弱々しい。スカジャンが憐れむような笑みを浮かべる。
「ハッー!仕事がないんじゃ、返しようもないですなっ。丁度いいから仕事紹介してあげましょ。このまま一緒に行きましょか」
袖から刺青の見える腕を差し出す男。
僕は尻をついたままジリジリと下がる。
「腰抜けてんなら、担いできますよ?ついでに家のもん、見さしてもらいましょか。なんも無いやろけど」
バカにした様に部屋を見回す男。
「クソッ!やめろ!出てけよ!!」
僕が何とか怒鳴り声を上げたのが後か先か、背後からドタバタと足音がする。
「なんや!おまっ」
僕の頭上をピンクの影が、横向きに飛んでいく。ロケットのようなドロップキック。捻りも加わって回転する様がスローに見えた。
驚く声を上げようとしたスカジャンの胸に突き刺さる兎足。ミシッと音がしたような気がした瞬間、スカジャンは玄関先を越えて吹き飛び、ボロアパートの手すりを引きちぎって下まで落ちていった。
グワッシャッドシャ
金属音と鈍い音。玄関口にいた黒シャツは飛んでいったスカジャンに腰を抜かしていた。ポカンと開いた口からタバコが落ちる。
立ち上がり玄関からヌウと出る兎。
「ッヒ」
何とか息を絞り出した黒シャツの股間を兎足がドンッと踏み抜いた。
白目で泡を吹く男を兎は片手でポイと投げた。
ッドン、ガンっゴンガンっゴン
階段を落ちていく音が聞こえる。
呆然とする僕をよそに、兎がこっちに戻ってくる。無表情、かがみ込む兎に思わず目を閉じた。驚くほど簡単に持ち上げられる体。僕は兎の肩に担がれ階段を降りていく。ノビている黒シャツを当たり前の様に踏みつけていく兎。
倒れたまま動かないスカジャンに、ボケた大家が水を撒いている。
重たい頭をかまたげて見回す。誰もいない。少し這いずりキッチンと玄関にも目をやる。どうやら奴はいないようだ。夢ではない。筋肉痛とあいつにやられた痛みが証明している。
ちゃぶ台の上には空き缶4本と押し込まれた吸い殻、スナック菓子の空袋やらカップ麺の残骸やらで散らかる。つけっぱなしのTVとタバコの臭いが兎の暴挙を思い起こさせる。
「んぐぐ…ぐ。くそがぁ…」
うめき声を上げながらヨロヨロ立ち上がる。
キッチンの換気扇を回してから。洗面台に向かう。鏡に映ったこめかみの辺りにはアザが。
顔を洗うと少し痛んだが、気分は幾分マシになった。
コンロでお湯を沸かす。
あいつは何だったのか思いを巡らす。どう考えても理解できない。考えるだけ無駄だ。道端でたまたま変態を拾ってしまった結果がもたらした不幸だと、自分に言い聞かせた。
コーヒーを飲むとようやく気持ちが落ち着いてきた。あんな見知らぬ変人を連れ込んだ自分も自分だと、ため息が溢れる。
まあ話のネタにはなるだろう。信じてくれる人の方が少なそうだが。
散らかったテーブルを片付けていると、腹がぐうと鳴る。それもそうだ、帰ってきてから何も食べていない。冷蔵庫を開ける。
少し減った缶ビールとつまみ類。笹かまとチーズも兎に食われたようだ。パッと食べれるものがない。
気が抜けた。壁に背を寄せズリズリと腰を下ろす。
「買い物行くかあ」
コーヒーの最後の一口をカップに残し、出かける準備を。上着を羽織ってポケットを確かめる。
「あれっ、財布どこやったっけな。」
玄関の周り、シンクの周り、冷蔵庫の上、ちゃぶ台の辺り。少しずつ嫌な予感がしてくる。
一度立ち止まり思案する。つい置いてしまいそうな所にはない。昨日履いていたズボンのポケットの中。ない。
ついにそこら中の物陰を引っ掻き回し、部屋が散らかっていく。
ない。財布がない。
記憶は朧げだが、昨日帰ってきた時には間違いなくあった。憎たらしい兎の顔が脳裏に浮かび上がる。
「あんの、糞野郎ぉ」
間違いない、あいつだ。はらわたが煮えくり帰るとはまさにこのことだろう。拳に力が入る。
僕は乱暴に玄関のドアを開けると。駆け出した。昨日の電柱。いない。ゴミ袋も無くなっている。息を切らして街の方に向かう。もしいればすぐに見つかる。コンビニ、公園のベンチ、駅前のロータリー。いない、いない、いない。街中を駆け回ったが兎は見つからない。それもそうか、いつ家を出たかも分からない。
「くそッ!!」
もう警察に頼るしかない。昨日の馬鹿みたいな出来事を説明しなければならないと考えると胸の辺りがムカムカする。
交番を目指して歩いていると。パチンコ屋が目に止まる。ガキの頃、よく親父に連れてこられていた忌わしいパチンコ屋。いつのまにか少し小綺麗な外装に変わっていた。
近寄らないようにしていたから忘れていた。あいつが居るならここだと、直感的にそう感じた。
開く自動ドア。割れんばかりの騒音、煙草の煙、薄汚いパチンコ打ち共、全てが忌々しい。
人もまばらなパチンコ台の前。
揺れる紫炎の向こうで、目立つあいつはすぐに見つかった。タバコを吸いながらパチンコを打つ兎男。
灰皿の横には見慣れた財布が。
怒りがグラグラと湧き上がる。
兎に詰め寄り、怒鳴り散らすが無視される。耳障りな店の音が感情を逆撫でする。僕はたまらず兎の胸ぐらに掴みかかろうとした。瞬間、どちらが速かったか、奴の鋭い一撃がみぞおちに刺さる。呼吸が止まり、膝から崩れ落ちる。よだれを垂らし、苦痛に咳き込む僕の横を、悠然と兎が通り過ぎていく。ゆっくりと開く自動ドア。逆光で奴の姿が少しずつ見えなくなっていく。
「ま、待てよ…」
呼吸を整え、なんとか立ち上がり、兎を追いかける。開く自動ドア、逆光に目が眩む。フラフラとパチンコ屋を出ると、少し先の商店街の中華屋の前で立ち止まっている兎を見つけた。
もう限界だ。どうなってもいい。
バタつく足で駆け寄り、そのまま兎に殴りかかろうとした丁度その時、自転車で巡回中の警官がくる。
願ってもないタイミング。僕は警官を呼び止める。
「お巡りさん!!助けて下さい!この変態がー」
兎を指差し、奴の悪行を早口で説明する。
兎は顎に手を当てたまま中華屋を見ている。
捲し立てる僕、怪訝そうな警官の顔、中華屋を見つめる兎。
「お兄さんなんか薬でもやってるの?それともおちょくってる?」
返ってきたのは信じられない言葉。
俺は兎を指差し大声で警官にこいつだと言う。
警官は中華屋の前をキョロキョロ見る。
「んー、とりあえず交番で話聞くからさ、行こうか。」
信じられない、見えていないのか。
たまらず僕は喚き散らす。兎が迷惑そうな顔で振り返る。
「お兄さん一回落ち着こうか、迷惑だから。続きは交番でね。」
そういうと警官は僕の肩を掌で押し、歩くように促す。掴まれてはいないが警官の腕には力が入っているのが分かる。振り返って奴を見る。
憐れみを浮かべ、中華屋の前からこちらを見る兎。応援を呼ぶ警官。
なんてことだ。あいつは何なんだ。僕の妄想なのか。混乱して弁明の言葉も浮かばない。僕はうな垂れて警官に従った。
尿検査までされ、家に帰る頃には日が暮れていた。ついには身内が死んで頭がおかしくなっていたと自分から弁明する羽目になった。
街灯の少ない、寂しい夜道をトボトボと家まで。どうやら僕はいつの間にか精神をやられていたようだ。暗い気持ちに呑まれる。
力なく階段を登ると、部屋は電気がついている。鍵のかかっていないドアをゆっくり開ける。
兎が台所に立っている。
ジャッジャッ。
無表情にフライパンで何かを炒める兎。
寒気がする。もう何も考えたくない。このままどこかへ逃げ出したい。一度外に出る。叫び声を上げたいのを堪え、ドアの前で息を全て吐き出す。
何もいない。何もいない。何もいない。そう言い聞かせもう一度、部屋に入る。
僕はキッチンを見ずに居間へ向かい、テレビをつける。台所からフライパンの音と旨そうな匂いが漂ってくる。何もかも僕の妄想の産物なのだ。この音も匂いも。
TVの音量を上げる、現実の音で妄想を掻き消すんだ。どんどん音量を上げる、他に何も聞こえないように。横の部屋から壁を殴られる。我に帰りTVの音量を落とす。
ズリズリと踵を擦る足音が後ろから。
兎が大皿で料理を運んできた。
ドンッとちゃぶ台に置く。
青椒肉絲。2人分の箸。
ビールを開けると兎は僕の手からリモコンを奪い取る。野球中継。兎は青椒肉絲と野球をつまみにビールを飲む、喉を鳴らして。
ポカンとしてその光景をながめる。
これは現実か?
目の前の青椒肉絲から旨そうな匂いが立ち上がってくる。油で照る細切りの肉と野菜。
恐る恐る箸を手にとり、兎の様子を見る。
こちらには目もくれず野球中継を見ている。
皿に箸を伸ばし一口頂く。旨い。肉と野菜の旨み、滲み出る脂、まるで中華屋の味。空っぽの胃袋まで青椒肉絲がスルスルと辿り着いた。
これは現実だ。一つも意味が分からないが。
急に腹が減る。
ついに僕は開き直った。台所の炊飯器から米をよそり、青椒肉絲と一緒にかき込む。旨い。旨い。旨い。思えば昨日からまともに食べていなかった。温かい食事に涙が滲む。
兎は遠くを見るような目でTVを見つめ、煙草をくゆらす。
2杯目の米を求めてキッチンへ向かおうとした時、兎が缶を机に打ち付ける。
カンッカンッ
軽い音がする。無表情が見つめる。
察した僕はため息をつきながら冷蔵庫へ向かう。缶ビールを2缶机に置く。兎に続きプルタブを開ける。旨い。口と喉に残った脂が胃に流し込まれる。青椒肉絲の残りをつまみに兎と野球中継を観て過ごした。
* * *
穏やかな昼下がり。
シンクで昨夜の食器を洗う、皿もフライパンもギトギトだ。
僕が目を覚ますと、兎は片肘で横になってTVを見ていた。ちゃぶ台の上には紙パックの野菜ジュース。また勝手に何かを食べたようで、昨日の皿の上に卵の殻が捨ててある。コンロには水滴のついた鍋が。茹で卵でもしたのだろう。貴重な卵が2つも無くなっていた。
スポンジで皿を擦りながら考える。
妄想の線も捨て切れないが、どうやら現実の可能性が高い。ただ警官には見えなかっただけ。
僕にだけ見える妖怪、貧乏神?妖精?何でもいいが人間ではない。親父の幽霊でもない。何となく行動は似てるが、あそこまで暴力的ではないし背も高くない。顔も似つかない。
何にせよ厄介なものを自分から家に招き入れてしまったのだ。借金、就職活動。面倒な死後の手続きが全部終わったと思ったらこれだ。つくづく僕は運がないらしい。
洗い物を終え、キッチンから兎の様子を眺める。こういうのはなんだ、寺か神社か?霊能力者か?何処に行けば祓って貰えるのかと、ぼんやり考え、壁にもたれる。
「このまま一緒に暮らすのはたまんないしなぁ」
ビィーーッ
不意にボロいチャイムがなる。
玄関のドアに振り返る。
「宅急便でーす」
野太い声、いつもと違う配達員か。兎が見えるか試してみようかと思いながら鍵を開けに行く。
「はーい、今行きますよー」
カチャカチャとドアチェーンを外し鍵を開けた時、不用心だったとよぎったが遅かった。
バァーン!!
勢いよく蹴り開けられたドア。
僕はドアの隅に額をぶつけられ、勢いのまま後ろに転げた。
スカジャンを羽織った柄の悪い男が、肩を怒らせて、土足で上がり込んでくる。後ろにもう1人控えている。
「おぉ、イナバさん。やっと出てくれましたねえ。困るんですよお、いつも居留守ばっかりで。こっちも忙しいんですから」
この男は初めて見た。玄関口にもたれた黒っぽいシャツを着た中年男は見覚えがある。親父とよく揉めていた奴だ。
「親父さん死んでもねェ、お金は返してもらわんと。600とんで8万7千でしたかね兄さん?」
スカジャンが振り返るが黒シャツはタバコに火をつけて答えない。
眉間に皺を寄せて男が続ける。
「まぁー、600か700か知らんけど、これが今日までの分ですから。さっさと返さんと増えてくばっかですわ。どうしますか息子さん。返すアテないでしょう?碌に葬式も上げれんくらいですし」
「まっ、待ってくれよ。今、色々手続き終わったばっかなんだよ。これから仕事も探さないと…いけないし」
何とか言い返すも弱々しい。スカジャンが憐れむような笑みを浮かべる。
「ハッー!仕事がないんじゃ、返しようもないですなっ。丁度いいから仕事紹介してあげましょ。このまま一緒に行きましょか」
袖から刺青の見える腕を差し出す男。
僕は尻をついたままジリジリと下がる。
「腰抜けてんなら、担いできますよ?ついでに家のもん、見さしてもらいましょか。なんも無いやろけど」
バカにした様に部屋を見回す男。
「クソッ!やめろ!出てけよ!!」
僕が何とか怒鳴り声を上げたのが後か先か、背後からドタバタと足音がする。
「なんや!おまっ」
僕の頭上をピンクの影が、横向きに飛んでいく。ロケットのようなドロップキック。捻りも加わって回転する様がスローに見えた。
驚く声を上げようとしたスカジャンの胸に突き刺さる兎足。ミシッと音がしたような気がした瞬間、スカジャンは玄関先を越えて吹き飛び、ボロアパートの手すりを引きちぎって下まで落ちていった。
グワッシャッドシャ
金属音と鈍い音。玄関口にいた黒シャツは飛んでいったスカジャンに腰を抜かしていた。ポカンと開いた口からタバコが落ちる。
立ち上がり玄関からヌウと出る兎。
「ッヒ」
何とか息を絞り出した黒シャツの股間を兎足がドンッと踏み抜いた。
白目で泡を吹く男を兎は片手でポイと投げた。
ッドン、ガンっゴンガンっゴン
階段を落ちていく音が聞こえる。
呆然とする僕をよそに、兎がこっちに戻ってくる。無表情、かがみ込む兎に思わず目を閉じた。驚くほど簡単に持ち上げられる体。僕は兎の肩に担がれ階段を降りていく。ノビている黒シャツを当たり前の様に踏みつけていく兎。
倒れたまま動かないスカジャンに、ボケた大家が水を撒いている。