第2話 それならば、やっぱり飛ぶしかないんじゃないかな

文字数 2,291文字

 お昼時だったので、新橋のたもとの料理店に入り鮎料理を頼んだ。川沿いの席に通されたので、橋がよく見通せた。
 さきほどの少年と同い年くらいの少女二人がやってきた。欄干を乗り越えたので、この二人も飛び込みに来たことがわかった。
 二人も少し逡巡する様子を見せたものの、顔を見合わせうなずき合い、「3、2、1」と声を揃えてカウントダウンを行い、そして飛び込んだ。
 二つの水しぶきがあがった。彼女らのカウントダウンも、水しぶきの音も、窓ガラス越しによく聞こえた。その音からだけではあるが、私はその水しぶきを浴びたように感じられた。
 これはもしかしたら、会社の同期や後輩が先に出世するようなものだろうか。よくあることだ。少年の姿が見当たらないことが、よかったと言えばよかったが。

 考え事をしながら食べた鮎料理であるが、鮎の清冽さは私のへたな思考をはるかに凌駕していた。いや、清冽さというのは正確ではない。天然の鮎は「甘かった」のだ。鮎に甘さを感じたのは初めてだ。まだまだ私の体験したことがない感覚はある。  
 そんなことを考えながら、食後に私は水の街・郡上八幡のシンボル、宗祇水へ向かった。
 シンボルにふさわしく、水神様が祭られている。お賽銭箱にいくばくか投入し、水の力のご加護を祈る。水神様のお社の下から、清らかな湧水が流れ出している。手足を入れないようにという掲示があるので、ベンチに腰掛けて、水の流れを見つめる。清澄な流れが、私の邪念も流してくれればよいが。
 宗祇水の脇には、小駄良川という小川が流れている。先ほどの新橋の下を流れる吉田川の支流であり、多くの子供たちが水遊びをしている。

 河原に見知った顔を見つけた。先ほどの少年だ。河原に座って何やら考え事をしているようなので、また気になって声をかけた。
「さっき橋の上で会いましたね」
「あ、さっきの・・・おじさん」
 一瞬彼は私をどう呼ぼうか考えたようだ。父親の年齢よりは上で、祖父の年齢よりは下。「おじさん」が適当なところだろう。
「ここで何をしていたんだい」
 いえ、別にと言って立ち去られるかと思ったが、彼は話を続けてくれた。さっき新橋で彼のことをずっと見ていたことに気付いていたようだ。
「今晩は水神様のお祭りで、おどりの日なんです」
 今日は宿がなかなか取れなく、キャンセルが出たとかでやっと取れたときに、宿の人にそう聞いていたことだ。この時期郡上おどりの日程を知らずにこの街を訪れようとするのは無粋というか、無謀というか。
「そろそろ夏休みも終わりに近いし、水も冷たくなってくるし、おどりの日も残りが少なくなってくるし、新橋から飛び込んでから、気持ちよく踊りたかったんだけど」
「飛び込めなかったことを、友達に冷やかされたりしたのかい」
 飛び込むのを見届けに来たのか、友人らしき少年が何人かいたのを思い出した。
「いや、そうじゃないんです。ていうか、その方がよかったんです。そうやって笑ってくれた方がよかった」
「じゃ、何を言われたの」
「みんな、慰めてくれたんです。自分もそうだったよ。最初は飛べなかったよって」
「そっか。でも、それにしては、今何か考え事をしていたように見えたけど。」
「みんなは去年とか、おととしとかには、新橋から飛んでいるんです。僕はやっと今年学校橋から飛べて、勢いで新橋もいけると思ったんだけど・・・。」 

 友人から一年も二年も遅れているのに、彼は今日も飛べなかった。私から見れば、彼のこれからの長い人生を考えれば、一年二年の遅れなんて、「誤差」の範囲内に思える。むしろ、この先どう考えても十年二十年しか残りのない自分の人生の方が、一年二年の持つ意味は大きい。
 ただ、そんなことは彼には言えない。もはや初老とも言える男のこれからの人生など、彼には遠い遠い未来でしかない。彼にとって大切なのは、一年二年をさらに延ばさないことだろう。
「それならば、やっぱり飛ぶしかないんじゃないかな。」
 これは私の独り言だ。そんな言葉が出たことに自分でも驚いたが、もしかしたら彼に聞こえたかもしれない。

 あの上司との面談のあと、親しい後輩との雑談のなかで、面談の中身を話した。もしかしたら、「先輩にはぜひ会社に残ってほしいです。まだまだ一緒に働きたいですから」などと言ってもらいたかったのかもしれない。
「先輩次第ですよ。先輩の人生ですから。」
 後輩の方がよっぽど老成している。

 宗祇水から通りに戻ったところの辻に屋形が出ている。ここが今日のおどりの中心地なのだろう。屋形の足元に、側溝にかかるグレーチングがある。どこの街でも見かけるものだが、他の街とは異なり、雨の日でもないのに、グレーチングから水音が聞こえる。
 暗渠になってはいるが、ここは水路が流れている証拠だ。この街では、どこでも水が流れる音が聞こえる。
 その本町通りという通りを北に向かって歩いていく。この先には、先ほどの暗渠に繋がる御用用水という用水があるはずだ。
 自宅の目の前を、常に清麗な水が流れているのはどんな気分だろう。何があっても、毎日家に帰れば、邪念を洗い流してくれるのだろうか。

 ところが、御用用水とおぼしき場所に来ても、家の前の用水が見当たらない。真新しい木の板で用水が延々と覆われている。なぜだろうと思い歩いているうちに、用水を覆う作業をしている人たちを見つけた。
「これはもしかして、おどりのために一時的に塞いでいるのですか」
「ええ、そうですよ。夜は足元が見えづらいからね」
 おどりと用水、この街の二つの大きな魅力同士でも、こうして折り合いを付ける必要があるのだな。
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