第1話 人は皆、一生のうち何回飛ぶのだろう

文字数 2,567文字

「我が社の継続雇用制度は以上になります」
「大島さんの場合は、希望されればもちろんこの制度の対象になりますので、希望するかどうかを、九月の末くらいにご意向を聞かせてください」
「私としては、大島さんには、これまでの経験を発揮してもらいたいと思っていますよ」
 いつもより早い梅雨明けで猛暑が続くある日のこと、人事面談で年下の上司はにこやかにそう告げた。

 若い頃は、定年退職を迎えれば、そのあとは毎日悠々自適の生活を送るものだと思っていた。三十何年も会社員生活を続ければ、会社でも私生活でも、人生やるべきことはすべて行って、あとは穏やかに「余生」を送るものだと思っていた。定年退職後の「選択肢」などないものだと思っていた。
 ところが、幸か不幸か、現代では選択肢が存在している。「幸」は、自分でも想像していなかったが、この歳でもまだまだ体も頭も動くこと、いや、正確には、動くような気がすること。「不幸」は、年金支給開始年齢が、あたかも「逃げ水」のように遠ざかっていくこと。定年後すぐに悠々自適とはいかない。

 もちろん、今の会社で働き続けられることは「幸」なのだろう。上司の言うことをまともに受け止めはしないが、少なくとも「もうご遠慮ください」と言われてはいない。いないはずだ。
 法律で定められているとはいえ、すべての人が年金支給開始まで雇用が保証されているとは限らない。私は間違いなく幸せなのだ。
 ただ、私はそれで本当によいのだろうか。人生最後のチャンスとして、新たな人生に踏み出してもよいのではないか。もう二ヶ月近く私は考えていた。いや、考えるだけだった。
 
 人は皆、一生のうち何回飛ぶのだろう。
 いや、飛行機で飛ぶとかバンジージャンプで飛び降りるとかではなく、思い切った決断をするということだ。
 私の人生ではほとんど飛んでいない。
 節目節目では決断というよりは、流されてきたという方が正しい人生を送ってきた。
 そして流されつつも、流されていく方向を少しずつ少しずつ微調整して、時間をかけてなんとか一定の範囲に収めてきた。そう、なんとか収めてきたというのが私の人生だ。
 しかしそれも、時間があってのことだ。そろそろ人生の残り時間が少なくなってきた現状を考えると、もう微調整という手段は取ることができない。
 こんな私でも、いや、こんな私だからこそ、残りの人生でやりたいことがある。あまりも漠然としているのでなかなか人様には言えないのが情けないが、おそらくそう遠くはない今際の際には後悔はしたくない。
 新たな人生に踏み出す、つまり、飛ぶことができるのはおそらく今が最後だと思う。
 それで、なぜ飛ぶかどうかなどと言っているかというと、目の前で飛ぼうか飛ぶまいか考えている少年がいるからだ。

 考えてばかりいる自分に活を入れる必要があると思い、私はちょっとした旅に出た。
 行先として頭に浮かんだのが、以前訪れたことのある、郡上八幡という街だ。清流が街中を流れ、水路が張り巡らされた水の街。清冽な気を、一度私のなかに取り込んでみるのはどうだろうか。
 普段は宿の予約はネットで行っているが、八月下旬のその日は郡上八幡でも、その近くでも、ホテルも旅館も、どこも満員で予約ができなかった。
それならばと直接電話をかけてみて、やっと一部屋空いていた旅館を見つけた。
「やっと取れました。どこも満員で困っていたので助かりましたよ。」
「それはよかったです。たまたまさっきキャンセルが出たのですよ。郡上おどりの日は、一年前から予約されるお客様が多いのですから。」
 そうだった。郡上八幡は、日本三大盆踊りで有名だった。私はよく調べずに、おどりの開かれる日に行こうとしたらしい。

 郡上八幡へは岐阜駅から高速バスに乗っても行けるが、片道は、特に往路は、長良川を友とする長良川鉄道に乗って行きたい。徐々に水の街に近づいていくという感覚 を味わいたい。旅はプロセスも大切だ。
 郡上八幡の駅からは循環バスに乗り、新橋という橋のたもとで降りた。ここには総合案内所である「郡上八幡旧庁舎記念館」があるので、街歩きの出発点としてちょうどよい。
 
 記念館でパンフレットをもらい新橋に向かうと、橋の上には、欄干を乗り越えて、川面を覗き込んでいる少年がいた。おそらく中学生くらいだろうか。そうだ、ここでは夏になると、地元の少年少女が橋から川に飛び込むのだ。度胸試しなのか、涼を求めてなのか。どちらにしても、私はできなかったことであろうが。
 少年は逡巡しているようだ。
 今ひとつの決断を行おうとしている少年の邪魔をしては悪いと思いつつも、つい声をかけてしまった。
「もう何度も飛んでいるのですか」
 声をかけられた少年は、どこかほっとしたような表情を浮かべた。
「いえ、今日初めて挑戦するんです」
「初めてなんだ!いきなりこの高さは怖くないですか」
「ここの子供たちは、小さい頃に低い岩の上から飛び始めて、少しずつ高い岩から飛んでいき、最後は橋から飛ぶんです」
「そうすると、ここのすぐ前はどこから」
 少年は顔を後ろに向けて答えた。
「むこうにもう一つ橋が見えるでしょ。あれは学校橋といってここより少し低いんです。あそこからは飛べたので、今日はここに挑戦するんです」
 ちゃんと順を踏むのか。ありがとう、がんばってと声をかけ、少し離れたところから、私は少年の挑戦を見守ることにした。

 私の人生はなんとかなってきた。ただ、それはつまり、なんとかなってきた範囲での人生であったというのが、正直なところだ。そんな私の人生に、まだまだこれからのあの少年の人生を重ね合わせるのはとても申し訳ないと思いつつも、彼が飛べるかどうかがどうしても気になってしまう。
 少年は何度も何度も飛ぼうとして水面を覗き込んでは逡巡することを繰り返し、ついには欄干の内側に戻り、河原に降りていってしまった。
彼が向かった先には何人かの少年がいた。彼の挑戦を見届けに来た友人だろうか。その少年たちはすでに飛んだのであろうか。
 彼は今飛べなくても、いつかは飛べるだろう。いや、飛べたらいいなと思う。たまたま今がその時ではなかったに過ぎないのかもしれない。私も今は飛ぶ時ではないのかもしれない。いや、彼と私とでは残された時間が圧倒的に異なるのではあるが。
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