第4話(終) 濡れることは恐れるものではなく、むしろ自分を奮い立たせるもの

文字数 2,276文字

 話を聞かせてくれたお礼を二人に言って橋を渡る。左に見える学校は小学校らしい。学校の脇にも水路があり、水車が回っている。
 先ほどまでよく晴れていたのだが、いつの間にか雲がかかってきた。天気予報では、夕方から雨が降るかもしれないとのことだ。せっかくのおどりの日なのに。
 橋を渡り右に曲がった先には、いがわ小径という水の小径がある。 
その小径の手前で、シルクスクリーン印刷で「マイ手ぬぐい」を作ることができるギャラリーを見つけた。郡上八幡は水の街だけでなく、食品サンプルやシルクスクリーン印刷でも有名らしい。

 残念ながらシルクスクリーン印刷体験は予約がいっぱいだったが、手ぬぐいを売っていたので買い求める。おどりには手ぬぐいはつきものだ。汗をぬぐったり、雨がぱらついてきたりしたときに役立つだろう。
 でも、大雨になったらどうなるのだろう。
「大雨になったら、おどりはどうなるんですか?」
「それが、ここでは、おどりが好きな人は大雨になったら喜ぶと言われているんです」
 ギャラリーのレジの人は事もなげに言う。
「えっ、大雨になったらずぶ濡れになってしまいますよね。それでもですか」
「少しぐらいの障害があった方が、かえっておどり好きの血が騒ぐのでしょうね。そういう人を『おどり助平』って言うんです。あ、台風とか、警報級の雨になればもちろん中止されますよ」
 濡れることは恐れるものではなく、むしろ自分を奮い立たせるもの、そう考えるのかもしれない。

 いがわ小径には、丸々と太った鯉が何匹も棲んでいた。鯉のえさを売っているので、そのおかげだろう。覗き込んでも逃げる素振りを見せず、泰然と佇んでいる。人間はえさを与えてくれる存在なので、逃げる必要はどこにもない。その泰然さは見習いたいが、与えられたえさを待つ姿は、見習うべきではないかもしれない。
 いがわ小径を抜けると、新橋に戻る。新橋の上には誰もいないことを横目で見て、もう少し歩を進める。昔の病院の建物を使った樂藝館という展示施設や、この周辺では珍しい四階建ての郵便局、洋菓子屋さんや本屋さんなどの前を通り過ぎ、小さな十字路に出る。十字路の右奥に宮ヶ瀬橋という、また別の橋が見える。
 宮ヶ瀬橋を渡ると今日の宗祇水のおどりの会場に至るらしいが、橋とは反対側に呉服屋が見えたので立ち寄ることにした。下駄を買った勢いで、ゆかたを買おうと思いついた。勢いは大切だ。

 お店の人にゆかたをみつくろってもらいながら、話を聞く。この店ではゆかたのレンタルと着付けも行っているそうだ。そういえば履物屋でそんな話を聞いた。
「一番お客さんが来るのはいつですか」
「それはもう、この前のお盆の徹夜おどりの時ですね。何十人もレンタルのお客さんがいらっしゃいましたよ」
「徹夜おどりですか。今度はその時期に来たいですね。おどりの会場はどこなのですか」
「ここですよ。そこの十字路に屋形が出て、そこを中心におどりの列がどこまでも続くんです。今度ぜひその時期にいらっしゃってください」
 わずか数日前のことか。このタイミングの悪さも私らしいのかもしれない。

 着付けてもらうのはちょっと気恥ずかしかったので、購入したゆかたを手に提げてお店を出る。というか、今夜これを着るかどうかは、まだ決めていない。
 さらに通りを進むと、やなか水のこみちに出る。ここはいがわ小径よりずっと水深が浅く、地元の小さな子供たちが、裸足で入って遊んでいる。私も裸足になり、こみちの脇の石にこしかけて、水の流れに足首まで浸してみる。水の冷たさが、つま先から体を昇って、頭を冷やしてくれる気がする。頭の中が、私の思考が、段々と澄んでくる気がする。
 二ヶ月前のあの上司との面談以来、今後の身の振り方をずっと考えていた。もちろん、数年前から、いや、三十数年前にこの会社に入ったときから、こんな日が来るのはわかっていた。だからなにも考えてこなかった訳ではなく、これから挑戦してみたいことも、漠とはしているがある。なのに何も決められずにきて、やっと二ヶ月前にこれではいけないと思い知り、今日に至っていた。
 もしかしたら郡上八幡という街の中を縦横に流れる水に私自身を洗ってもらいたくて、私はこの街に来たのかもしれない。
あと一歩、あと一歩だ。

 天気がいよいよ怪しくなってきた。日も傾きかけてきたので、今宵の宿へ向かう。宿に行くには、あの新橋を再び渡る必要がある。
新橋の上に、再びあの少年の姿があった。
 いつからいたのかはわからないが、欄干を越え、水面を覗き込んでいる。
「飛べ!」と心の中で声をかける間もないうちに、彼は飛び込んだ。
 欄干に駆け寄って下を覗き込むと、少年が作り出した水紋が見える。当の少年は浮かび上がると、岸を目がけて泳ぎだした。
 彼が泳ぐ先には、仲間が待っていた。そのなかにはあの二人の少女もいた。
ここから先は、私にとっては、もう見届けることはない。残っているのは、私自身の問題だけだ。

 宿に入り、夕食をとるうちに時計は七時を回った。おどりの開始にはまだ早いが、宗祇水裏の小駄良川で開かれる、水中花火を観るにはよいころだろう。
 雨が落ちてきたが、もう私は迷わない。むしろ雨に濡れたい。橋から飛び込んで全身びしょ濡れに濡れることは私にはできないが、雨の中をおどりに出かけることはできる。
 買ったばかりのゆかたを着よう。あつらえたばかりの下駄を履こう。
 私は宿の玄関を踏み出した。おどりの舞台が待っている。   

                                     了 
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