文字数 3,466文字

 める子にとっては、聖書事件はどうでもいいことである。
 その客観的事実は、そう言われればそうなのだが、それでも気楽にしてみれば、そこに事件の本質が潜んでいるように思えてならない。
 それが神学者のサガだと言われれば、そうなのかもしれないが、新作ブラのミカエルを盗むだけなら、聖書は不要だというのならば、逆に考えれば聖書が必要だった理由がそこにきっとあるのではないか、そう気楽は心の底で確信しているのだった。
 事件を構成する要素は、ベタではあるが5W1Hである。
 いつ、どこで、誰が、なにを、どのように「盗んだ」のか。そして、最も大切なのは「なぜ」だ。
 なぜ、聖書が置かれていたのか。
 なぜ、ミカエルは盗まれたのか。
 その「なぜ」が気楽の頭の中をぐるぐる周り続けている。

「ともかく、明日みんなに話すわ。犯人がうちらの中にいることは前提で、それでもいいからもういちどミカエルを作り直すしかないのよ」
 覚悟を決めてめる子がそう言った。
「しかし、犯人が内部にいたなら、もう一度ミカエルを捨てたり、傷つけたりする可能性もあるってことだぜ。せっかくやり直しても」
 冷静に、気楽がそう言うと、さすがのめる子も感情を害したように
「じゃあ、どうすればいいのよ!やめちゃえばいいっての!何しても無駄なの?」
と怒鳴った。
 そこで、正直に、ひっかかっていることを話す。
「……さっきはさ、安土は聖書のことはどうでもいいって言ったけど、俺にはやっぱりそうは思えないんだ」
「だからなんだってのよ」
 そこで、ふと気楽には思いついたことがあった。
「そうか。これはちょっと使えるかもしれない」
 手伝ってくれ、とめる子に言って、二人はもう一度ロッカーのある現場へ向かう。そこで、気楽は、たくさん材料などを保管してある場所からロールになった布を持ち出しては、問題のロッカーごと覆い隠してしまった。
「なんでこんなことするの?」
尋ねるめる子に、気楽は得意げに説明する。
「犯罪には、犯人しか知り得ない情報ってのがあってね。そいつが犯人かどうか判定するのはとても大事なことなんだが」
「聞いたことがあるわ」
「つまり、ミカエルや資料が盗まれたことは全員に公表してもいいが、そこに聖書があったことはバラさなければ、どうなる?」
「なるほど、犯人しか聖書のことは知らないんだから、そのことは何かツールに使えるってわけね」
「ご名答。このことを知ってるのは?」
「あんたとあたし、それから社長の三人だけだわ」
「だったら、俺は、安土のスタッフの中で聖書に異常な反応を示す人物を洗い出せばいいってことになるだろ?」
 にやり、と笑う気楽の肩を、める子はバシバシたたき始めた。
「すごい!あんたってやっぱり天才だわ。で、どうやって聖書反応をあぶり出すの?踏み絵とか、こういう時に使うんでしょ?!」
 踏み絵!踏み絵ってか!
 さて、唐突ながら聖書学に詳しい三浦助教授が説明しよう。踏み絵とは江戸時代に、幕府によって禁止されていた当時のキリスト教、つまりキリシタンの信仰を試し、その教えを捨てさせるために用いられたチートツールのようなものである。(ちがうわ!)
 そこにはイエスキリストの像が彫刻されたり、聖母マリアの絵が描かれたりしており、幕府の役人がキリシタン信仰を持っていると疑わしい哀れな農民を捕まえては「これを踏めーっ!このハゲーっ!踏ーめーるーだーろーっ!」とやるわけだ。
 キリシタンなんて知らないただの農民なら「へえ」と踏めばおしまいだが、信仰を持っている者はそういうわけにはいかない。「お代官さまお許し下せえ、オラ、イエスさまを踏むなんてできねえべ」「何を!きりきり踏みやがれ!この桜吹雪を誰だと心得る!」「ひえーお許しくださえ」「てやんでえ、ひっ捕えろ、簀巻きにして転がしてしまえ!ほれゴーロゴロ、ほれゴーロゴロ」「あんれー!助けてたもー!」
 そうして、あまりの拷問に耐えかねたキリシタンが、ついに涙を飲みながら心の中で、『イエスさま、デウスさまお許しくだせえ。おら、転びますで。堪忍してくだせええええ』と踏み絵を足で踏みつけると、「これにて一件落着、めでてえな」となるわけである。
 余談であるが、キリシタンや当時の異国からの宣教師バテレンが棄教することを「転びバテレン・転びキリシタン」と称するのは、先ほどワンシーンをお届けした”俵に人間を巻いて転がす”という『俵責め』が元になっているという。耐え切れずに俵から転び出て「堪忍してくだせえええええ!!!」となるから転びキリシタンと言うらしい。これ、試験に出すからな。

 いかん、つい妄想の世界に入ってしまった。話を元に戻そう。隠れキリシタンをあぶり出すんじゃないんだから。いったいこいつは学生時代何を勉強してきたんだ、と気楽は嘆く。いや、犯人がキリスト教の信仰心を持っているなら、そりゃあ確かに踏み絵は効果的かもしれないが、なんていうか、そんなことを現代にやれば完全なる人権侵害である。やってはならない悪業に他ならないのだ。いいか、まず憲法を読み直せ。わが国の憲法に信教の自由が保障されているということは、何人たりとも踏み絵なんぞさせられる筋合いはないということなのだ。
 仕方なく気楽は言った。
「その方法は、俺が今晩考えてみる。いずれにしても、明日、作業をしながら安土は一人ずつスタッフと話をして、いちおうアリバイとか、そういうのを尋ねてほしい。俺はいっしょに同席させてもらうから、そうだな、あえて警察の人とかなんとか言っておいてもいい」
「なるほど、わかったわ。じゃあ、あんたは刑事ってことね。かっこいいじゃない。あたしも刑事やりたくなってきたわ」
「アホか。……キタコレまでに、新しいミカエルを間に合わせる仕事もあるんだぞ。もちろん、必死で取り返せるよう努力するが、本物が出てくる保証は全くないんだから」
「そうね、そっちも頑張るわ」

 そんなこんなですっかり窓の外は大都会東京の夜景が輝く時間となってしまい、ふと我に返った気楽は、困った顔をする。
「ところで、俺は今夜どうしたらいいんだ。下手したら一週間缶詰にされそうな状況で、ここで寝ろってのか?」
「あたしのワンルームには入れたくないわね。当然ながら」
 あたりまえでしょう、という顔をするめる子が憎らしい。別にそんなことを期待したわけではないが、べ、べ別にあわよくばひとつの布団で寝ようとかそんなことを考えたわけではないが、気楽としては大都会の真ん中に着のみ着のまま放り出されて、なすすべもないのだ。
「わかったわ、経費でなんとかしましょう。ビジネスホテルを用意するから」
「それは助かる」
「なんなら下着の替えも用意するわよ。男物のパンツはないけど、パンティならそこらへんに山ほど転がってるから」
 ぱぱぱパンティだあ?
 まて、まてまてまて!なんぼなんでも、この状況で、はいそーですかありがとうと、女性の下着を貰い受けるわけがないだろう。
 何か?明日たくさんの女性陣に囲まれながら、表向きはふつうの顔をして、下半身は女物のパンティを身につけて素知らぬ顔をしろというのか!変態にもほどがある。
「うえーっ。想像したわ気持ち悪い。だって、毛がVゾーンからはみ出てるのよ」
 ……もう何も言えない。勝手に想像して、勝手にエヅかれても、それは気楽の責任ではないのだから。
 まったく、こちらがそっちの下着姿を想像したら激怒するくせに、こっちの下着姿を想像して文句を言われるなど、やるせないにもほどがある。
 そもそも、すでにこの会社へ来て半日。そこかしこに転がっている女性ものの下着やら、そのポスターやら、なまめかしい生地に囲まれて、すでにこっちは完全にEDになっているのだ。
「もう何もツッコまんから、早いとこホテルの手配とやらをしてくれ。あとは何もいらん。下着はクリーニングサービスを利用するし、何なら途中で買う。いっそほっといてくれ」
 そう突き放すと、ちょっとだけ寂しそうな顔をするめる子だった。
「あら、そう?ちぇっ、つまんないの」
 ああ、とりあえずホテルについたら明日からの講義の変更やらを大学にメールしなきゃな、とすでに心はここにない。
 明日で目処がつけばいいのだが、とかすかに期待を寄せるが、それが儚いものになるだろうとは、うすうすながら気楽も気づいていた。長い戦いになりそうだった。
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