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文字数 2,624文字
ヴィクトリー・ファッション社は都心の真ん中にビルを構えているなかなかの大きな企業だった。
関連プロジェクトのメンバーは急遽休みにされているらしく、める子の仕事をしているフロアだけはすっかり静かだったが、それ以外のフロアではせわしなく女の人たちが働いている様子が見えた。なんていうか、みんな都会の女子だけあって、しゅっとしている。え?しゅっとしているがわからない?関西ではそう言うんだよ!まあ、”スタイルが良くてすらっとしている”と、”洗練されてかっこよさげ”が混じったようなものだ。
到着してすぐ、入り口から入るとエレベーターで最上階の社長室へ向かう。
話はすべて通してあるから、とめる子は、気楽を従えてずんずん進んでいく。
気楽としては、なんかこう、全体的にいい匂いがする会社の中で、気が落ち着かない。
「さっきから何そわそわしてんのよ。そんなに女の園が怖いの?……まったく、ふだんからオタクみたいに大学に引きこもってるからそんなんなるのよ」
全くもってひどい言われようだが、俺は別に引きこもってなんかないぞ、と心の中で口答えした。
「そんなことはない。普段から周りとちゃんとコミュニケーションも取るし、飲みにだって行くし」
「誰と?」
「……そりゃあ、まあ、教授とか同僚とか学生とか」
「女は?彼女いないの?」
そんなことを言われて、ぎくり、と気楽はたじろいだ。
「いや、その……」
ぎゃはは、とその可愛い顔で、める子はお腹をかかえて笑う。
「いやー三浦君。彼女いないんだねー。もしかしてその歳で童貞とかヤメてよ~。愛すべき同級生ながら、さすがのあたしも引くわよ」
なんというデリカシーのない女だ!と激怒してもいいところだが、そこはさすがに人の良さだけが取り柄の気楽である。
「あのなあ、そういうことすぐ口に出すの、やめたほうがいいぞ。人によっては、恨まれるからな」
とそっと諭してみる。
「ごめんごめん。冗談じょうだん」
え?どこが冗談なのかさっぱりわからないが、言ってる間にエレベータが到着したので、この話はとりあえずここでお開きにする。
というわけで、気楽センセイの下半身の事情の真実については、今のところ謎ということにしておこう。
「お話は安土から伺っております。今日は遠いところをわざわざ、本当に感謝しますわ」
ヴィクトリー社の社長という人物は、思っていたよりも高齢で、たしかに品がよく立ち姿は凛々しくしゃきっとしているが、すでにおばあさんと呼んでもよいくらいの女性だった。後からめる子に訊いたところだと、すでに七十歳を越えているらしい。
それでもこの栄枯盛衰の激しいファッション業界で、この有名ブランドを率いてきたのだから、並大抵の女性ではないに違いなかった。
「どうも、三浦です。恐縮です」
気楽も丁寧に頭を下げる。
まあ、お座りください、と女社長に勧められて応接室のソファに座る。まさにふかふかのもふもふで、埋もれそうになる高級品だ。
室内の調度品も、一見して高そうだとわかる。へえ、なんだか安土も社会人を頑張ってるんだな、とめる子がこの会社にいることをすごいと純粋に思えた。
「初めまして、わたくしは勝とし江と申します。もう長年この業界にいて、すっかりおばあさんですが、一生懸命やらせていただいておりますわ。……ええ、今回来ていただいたのは、安土から説明はあったことと思いますが」
穏やかながら意志の強そうな息づかいで、社長、とし江は話しはじめた。
ヴィクトリー社は、長年女性もの衣料で業界を牽引してきたが、知っての通りこの業界は競争が激しく、新しいブランドも次々登場してけして楽な商売ではないという。
しかし、今回開発した下着は、適度な補正能力と女性のシルエットを究極まで美しく見せることができる素材を惜しみなく投入しているとのことだった。
「ミカエル、と名付けたのはあたしですのよ」
ととし江は言った。
「三浦先生は、同修社大学で神学をお教えになっておられるんですってね」
「ええ、そうです。まだまだ若輩ですが」
それを聞くと、とし江はうれしそうに微笑んだ。
「もう、古い話でお恥ずかしいことですが、子供の頃は戦争ですっかり焼け野原になって何もかも失ってしまった時代でしたけれど、あたしの家族はクリスチャンで、教会に通うことだけが本当に心のより所でしたの」
「……そうでしたか」
とし江がキリスト教徒だという話にはすこし驚いたが、それならあのブラのネーミングも納得できないわけではない。
しかし、多少つっこみを入れさせてもらうとすれば、神のみ使いの名前をブラに採用するのはどうなんだい?とも思うが、それがこのおばあちゃんも思い入れだというのならそれはそれで仕方がない。
「いや、来る途中安土さんから話は伺いました。美しいネーミングだと思います」
「あら、ほんとにそう思ってくださる?うれしいわ。いろいろ考えていたのよ。殿方が振り向いてくださるミカエルシリーズは、女性の魅力をきっと引き出せると思うのよ」
少女のようにきらきらした表情で、とし江は話し続ける。
「それから、別のシリーズも考えているのよ」
「あ、社長、それはちょっと……」
なぜか、苦笑いをしながらめる子が制しようとするのが最初意味不明だったが、すぐにその理由がわかった。
「三浦先生?殿方が女性に思わずむしゃぶりつきたくなるような下着って、魅惑的だと思いませんこと?」
「……え、まあ、そりゃ。ねえ、下着は魅力ですよ」
さらっと交わそうと思うが、自分の理解者だと思われたのか、とし江の目の輝きは止まらない。
「そうでしょ?だからあたし考えましたの、ミカエルシリーズがヒットしたら、次は『誘惑のブラ、ガブリエル』を……」
言いながら、とし江は両手でガブッと女性のどこかをわし掴みにするような動作をしながら、魅惑的な目線を気楽に送ってきた。
「……社、社長。そこらへんで、置いといてまずは現場を見てもらいますね」
見かねためる子がレフェリーストップのように両手でとし江を遮った。
「あらそうね。では、三浦先生、お願いしますわね」
「ええ、お任せください」
ははは、とひきつった笑いを浮かべて、うやうやしく気楽も立ち上がった。
逃げ出すように社長室を出て、階下のプロジェクトフロアへ向かうのだった。
関連プロジェクトのメンバーは急遽休みにされているらしく、める子の仕事をしているフロアだけはすっかり静かだったが、それ以外のフロアではせわしなく女の人たちが働いている様子が見えた。なんていうか、みんな都会の女子だけあって、しゅっとしている。え?しゅっとしているがわからない?関西ではそう言うんだよ!まあ、”スタイルが良くてすらっとしている”と、”洗練されてかっこよさげ”が混じったようなものだ。
到着してすぐ、入り口から入るとエレベーターで最上階の社長室へ向かう。
話はすべて通してあるから、とめる子は、気楽を従えてずんずん進んでいく。
気楽としては、なんかこう、全体的にいい匂いがする会社の中で、気が落ち着かない。
「さっきから何そわそわしてんのよ。そんなに女の園が怖いの?……まったく、ふだんからオタクみたいに大学に引きこもってるからそんなんなるのよ」
全くもってひどい言われようだが、俺は別に引きこもってなんかないぞ、と心の中で口答えした。
「そんなことはない。普段から周りとちゃんとコミュニケーションも取るし、飲みにだって行くし」
「誰と?」
「……そりゃあ、まあ、教授とか同僚とか学生とか」
「女は?彼女いないの?」
そんなことを言われて、ぎくり、と気楽はたじろいだ。
「いや、その……」
ぎゃはは、とその可愛い顔で、める子はお腹をかかえて笑う。
「いやー三浦君。彼女いないんだねー。もしかしてその歳で童貞とかヤメてよ~。愛すべき同級生ながら、さすがのあたしも引くわよ」
なんというデリカシーのない女だ!と激怒してもいいところだが、そこはさすがに人の良さだけが取り柄の気楽である。
「あのなあ、そういうことすぐ口に出すの、やめたほうがいいぞ。人によっては、恨まれるからな」
とそっと諭してみる。
「ごめんごめん。冗談じょうだん」
え?どこが冗談なのかさっぱりわからないが、言ってる間にエレベータが到着したので、この話はとりあえずここでお開きにする。
というわけで、気楽センセイの下半身の事情の真実については、今のところ謎ということにしておこう。
「お話は安土から伺っております。今日は遠いところをわざわざ、本当に感謝しますわ」
ヴィクトリー社の社長という人物は、思っていたよりも高齢で、たしかに品がよく立ち姿は凛々しくしゃきっとしているが、すでにおばあさんと呼んでもよいくらいの女性だった。後からめる子に訊いたところだと、すでに七十歳を越えているらしい。
それでもこの栄枯盛衰の激しいファッション業界で、この有名ブランドを率いてきたのだから、並大抵の女性ではないに違いなかった。
「どうも、三浦です。恐縮です」
気楽も丁寧に頭を下げる。
まあ、お座りください、と女社長に勧められて応接室のソファに座る。まさにふかふかのもふもふで、埋もれそうになる高級品だ。
室内の調度品も、一見して高そうだとわかる。へえ、なんだか安土も社会人を頑張ってるんだな、とめる子がこの会社にいることをすごいと純粋に思えた。
「初めまして、わたくしは勝とし江と申します。もう長年この業界にいて、すっかりおばあさんですが、一生懸命やらせていただいておりますわ。……ええ、今回来ていただいたのは、安土から説明はあったことと思いますが」
穏やかながら意志の強そうな息づかいで、社長、とし江は話しはじめた。
ヴィクトリー社は、長年女性もの衣料で業界を牽引してきたが、知っての通りこの業界は競争が激しく、新しいブランドも次々登場してけして楽な商売ではないという。
しかし、今回開発した下着は、適度な補正能力と女性のシルエットを究極まで美しく見せることができる素材を惜しみなく投入しているとのことだった。
「ミカエル、と名付けたのはあたしですのよ」
ととし江は言った。
「三浦先生は、同修社大学で神学をお教えになっておられるんですってね」
「ええ、そうです。まだまだ若輩ですが」
それを聞くと、とし江はうれしそうに微笑んだ。
「もう、古い話でお恥ずかしいことですが、子供の頃は戦争ですっかり焼け野原になって何もかも失ってしまった時代でしたけれど、あたしの家族はクリスチャンで、教会に通うことだけが本当に心のより所でしたの」
「……そうでしたか」
とし江がキリスト教徒だという話にはすこし驚いたが、それならあのブラのネーミングも納得できないわけではない。
しかし、多少つっこみを入れさせてもらうとすれば、神のみ使いの名前をブラに採用するのはどうなんだい?とも思うが、それがこのおばあちゃんも思い入れだというのならそれはそれで仕方がない。
「いや、来る途中安土さんから話は伺いました。美しいネーミングだと思います」
「あら、ほんとにそう思ってくださる?うれしいわ。いろいろ考えていたのよ。殿方が振り向いてくださるミカエルシリーズは、女性の魅力をきっと引き出せると思うのよ」
少女のようにきらきらした表情で、とし江は話し続ける。
「それから、別のシリーズも考えているのよ」
「あ、社長、それはちょっと……」
なぜか、苦笑いをしながらめる子が制しようとするのが最初意味不明だったが、すぐにその理由がわかった。
「三浦先生?殿方が女性に思わずむしゃぶりつきたくなるような下着って、魅惑的だと思いませんこと?」
「……え、まあ、そりゃ。ねえ、下着は魅力ですよ」
さらっと交わそうと思うが、自分の理解者だと思われたのか、とし江の目の輝きは止まらない。
「そうでしょ?だからあたし考えましたの、ミカエルシリーズがヒットしたら、次は『誘惑のブラ、ガブリエル』を……」
言いながら、とし江は両手でガブッと女性のどこかをわし掴みにするような動作をしながら、魅惑的な目線を気楽に送ってきた。
「……社、社長。そこらへんで、置いといてまずは現場を見てもらいますね」
見かねためる子がレフェリーストップのように両手でとし江を遮った。
「あらそうね。では、三浦先生、お願いしますわね」
「ええ、お任せください」
ははは、とひきつった笑いを浮かべて、うやうやしく気楽も立ち上がった。
逃げ出すように社長室を出て、階下のプロジェクトフロアへ向かうのだった。