聡子-2

文字数 3,078文字

その日は、中庭の手入れの日だった。少年はその服装には不釣合いな鎌やシャベル等の道具を持って中庭に足を踏み入れる。
「私の庭にようこそ、ムラサキさん。」
車椅子の少女は、今日は入り口まで迎えに来ていた。大きな麦わら帽子の影になった顔色から察するに、どうやら体調が良いらしい。庭の木々も前より一層緑が濃くなっている。池では元気に魚が飛び跳ね、とんぼや蜂が賑やかに飛び交っていた。
「今日は庭を綺麗にして下さるのですね。一つお願いを聞いていただけますか。」
そう言って少女は中庭の入り口とは反対側の隅に視線を向ける。そこは建物の影になって日があたらないせいで、植物が育たず、土がむき出しになっていた。
「あそこに草花を植えれば良いのですね、かしこまりました。日陰でも育つ種類を選んで、緑多き庭にしましょう。」
願いの内容は言葉にせずとも少年に伝わったようで、少女はふっと微笑む。
少女に目が届く範囲で、少年は庭仕事を始める。枯れた植物を取り去り、土を掘り起こし、また新しい種を撒く。道に積もった落ち葉を掃き、池の底をさらって不純物を取り除く。木陰は涼しいが、それでもずっと動いていると汗が滲む。
ふと声をかけようと振り向いたとき、少女の姿は消えていた。車椅子なのでこの庭の中で動ける範囲は決まっている。入り口の方で喋り声が聞こえた気がして、少年はそちらへ向かった。
驚いたことに、そこには少女以外に、もう一人、小さな女の子がいた。
「君は…この前の…」
少年はすぐに思い出す。九重博士と別れるとき、一瞬だけ視界の端に映りこんだ女の子。車椅子の少女は目線を下げて、その小さな女の子の顔を覗き込むようにして、話しかけた。
「こんにちは。お名前はなんていうの。」
「…サトコ」
俯いたまま小さな声で答える。人見知りで大人しい子のようだ。
「サトコちゃん、私のお庭にようこそ。」
少女はサトコの手を優しく握り、庭に導くように引いた。
「よろしいのですか。」
少年は小声で少女に尋ねる。この庭は自分以外誰もたどり着けない場所のはずなのだ。
「心配しないでください、ここには元より私がお話をしたいと思った者しか、現れません。」
少女は落ち着いた声でそう答えた。少年もそうなのではないかとうすうす感じていた。だから少女の車椅子を引いて、サトコを共に庭に招き入れる。

3人で池のほとりを歩く、少年が少女の車椅子をゆっくり押して、サトコは少し前を、時々立ち止まって辺りを見渡しながら。あの年の子供は一番好奇心の強い時期なのかもしれない。はばたきを聞いて3人同時に頭上を見ると、以前見た鳥がゆっくりと林の向こうへ降りて行く。サトコはしばらくそれを見上げて、ふいに少女のほうを振り返って目で訴えかける。
「彼らのところへ行きたいのですね、いいですよ。そこのわき道を少し入ったところです。」
サトコは駆け出し、少年と少女もその後を追う。そこは前も来たことのある、鳥たちの住処だった。木陰になった水辺で羽を休ませる親鳥。その周りを小さな雛があの綺麗な声で歌いながら泳いでいる。しばらくそれを無言で眺めていたが、ふいにサトコは少女を見て尋ねた。
「おとなのとりは、なぜうたわないの」
少女は一瞬だけ驚いたように青い瞳を大きく見開き、そしていつもの穏やかな表情に戻って答えた。
「あの子達は、お父様が沢山飼っていらっしゃったものを、私が生まれたときに譲り受けたものです。その時は皆、綺麗な声で鳴いていました。」
少年は鳥たちを見つめる。雛は艶のある毛並みで真っ白なのに、成鳥は油絵の具で塗りつぶしたような醜い灰色の毛で覆われている。
「そう、そして、この世界で一番美しい姿をしていました。」
視線から少年が考えていたことを感じ取ったかのように、少女は上目遣いで少年を見る。木漏れ日に照らされた彼女を、綺麗だ、と素直に少年は思った。
「彼らは年を取ることはありませんでした。いつまでも変わらない美しい姿で、この世の全ての幸福を祝う賛美歌を、毎日聞かせてくれました。」
少女は再びサトコに視線を戻す。
「そのとき、私はこの庭で、彼らの助けを借りながら、草木や、生き物を育て始めたばかりでした。まだ慣れず、芽吹いては枯れ、生まれては死に絶えの繰り返しでしたが… 命という限りある時間の中で、雌雄が出会い、子孫を作り、種を存続させ、自ら進化していく…。それは今まで生命というものを知らなかった私と彼らにとって、驚きと発見の連続でした。」
「とても、たのしいせかい。そのままでは、だめだったの」
サトコがそう尋ねる。何の感情もない、冷たい声。いつのまにか、あれだけ生命の喜びを謳歌していた庭が静かになっている。空には少し雲が出てきたようで、時折冷たい風を肌に感じる。
「…いつしかこの庭が緑に包まれるようになった時、彼らのうちの何羽かが私に言ったのです。我々も生命が欲しいと。たとえ泥だらけになっても、最後は灰になっても、限りある時間の中で、懸命に生き、予想のできない未来を作りたいと。」
麦わら帽子の陰になった彼女の表情は、少年からは見えないが、少しうなだれた姿勢と、庭の様子からそれを察することはできた。
「だから私は、彼らに生命という呪いをかけました。私が存在する限り、彼らは歳を取り、成鳥になれば歌い方を忘れ、やがて無に帰ります。」
少し強い風が吹いて、中庭を囲む洋館の窓がガタガタと音を立てる。木々がざわざわと揺らぎ、空に葉っぱや小枝が舞う。先ほどまで鳥たちが集っていた水辺からは生き物の気配が消え、水面にはさざ波が立ち始めていた。

高校から帰ると、自分の部屋にあった漫画の道具や、原稿が全て捨てられていた。
「お母さん…どういうことなの、これ…」
怒りに任せて母親に詰め寄るが、母親は表情一つ変えずに答える。
「どういうことなのって、私が聞きたいわよ。あなた、この前の進路調査票、ふざけて書いたでしょ。」
この前の…そうか、学校から連絡が行ったんだ。進学校の教師にとって、進学以外を希望する生徒は問題児なのだ。
「ふざけてって…なんでそう思うの。この前も話したよね。私、真剣に漫画を仕事にしようって、だから美術の学校に通いながらアシスタントをして…」
「だからこの前も教えてあげたでしょ、そんなので食べていける人なんてほんの一握りだって。あなたの下手くそな絵じゃ一生フリーターよ。」
「そんなの、やってみなくちゃわからないでしょ!たとえ上手くいかなくたって、お金持ちにならなくてもいい、好きなことを頑張っていきたいの!」
正論を淡々と述べる母親を前にして、私はつい声を荒げて、自分の気持ちを吐き出す。
「それは社会を知らないからそんな呑気なことを言えるのよ。だいたい、学長の娘がフリーターだなんて、大学の教授や理事長に知れたらどんなことを言われるか。高い塾にも通わせてあげたんだから、お母さんよりも上の大学に行って、ちゃんとした仕事につきなさい。」
私は言い返せない。もうこんな話を続けたくない。なんでこんな時にほかの人たちがどう思うか、なんて話が出てくるのか。
「こういう時恥ずかしい思いするのは親なのよ、まったく…高校生にもなっていつまで子供みたいなこと言ってるのかしら…」
そう呟きながら母親は仕事部屋に戻っていく。その後姿を見ながら私は気づく。自分は怒っているんじゃなく、悲しいんだと。そして心底思うのだ。世間体や、社会的な成功に縛られて、なんて可哀そうな母親なんだろう、と。
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