第1話 迷子の恐竜マイゴン

文字数 2,917文字

 我々は歩き慣れた迷宮の中にいるだけである。
 これは誰の言葉だったかな。たしかプラトンか私だったと思う。
 私は電車で寝過ごしたがために迷子の恐竜マイゴンになってしまったようだ。マイゴンは雑食である。つまり出されたものは何でも残さず平らげる。
 私はマイゴンになったのだが、どうやら人間としての自我も残っているようだ。ならば、マイゴンを俯瞰で語ることを試みよう。次の段落から三人称小説の形を取る。

 マイゴンは見知らぬ駅で一人立ちすくんでいた。マイゴンが途方に暮れた後に途方に暮れて、たまにはにかんだりしていると、ホームに電車が入ってきた。ぼーっとしていたマイゴンは、降車する人々を眺めていたが、ふと思い立ったかのように彼らについていった。特にマイゴンが目をつけたのは、六人組の女性だった。彼女たちは笑ったり泣いたりして今日という日を謳歌していたが、そんなことマイゴンは知る由もなかった。六人組の後を追ったのは、集団についていけば、道が分からなくても目的地に着けることが多いことを経験則で知っていたからである。しかし、マイゴンには盲点があった。この法則は目的地が自宅である場合を除くという点だ。よって迷子の恐竜マイゴンは、依然としてマイゴンであった。
 さて、改札まで抜けてしまったマイゴンだが、ここで自身の考えに欠陥があることにようやく気づいた。マイゴンは六人組の後をつけるのをやめて、駅の方向に向き直った。そこに何があるというわけでもないが、マイゴンは虚ろな目をして、動きを止めた。マイゴンの目に映っているかは不明だが、視線の先には駅の表示板があった。そこには漢字で翠ノ条駅とあり、その下には平仮名でぷりごーつぃとルビがふられていた。私は神視点だから、それをルビと認識できたが、果たしてマイゴンにそれができるかね。いーや無理だと思うね。ははっ。少し無邪気な神すぎた。
 翠ノ条と書いてぷりごーつぃ?
 迷子の恐竜が冷静であればこう思っただろう。キラキラネームにも程がある。そしてこれは最早キラキラしているのか。キラキラネームは何かとネガティブな話題になるが、親が込めた意味や意図があることは間違いない。それがないと倫理的にまずいからだ。しかし、ぷりごーつぃはどうだ? 対人間ではなくなった途端にこれだ。駅にだってつけていい名前とつけてはいけない名前がある。
 マイゴンは突然冷静さを取り戻した。そして、ぷりごーつぃには反応せず、自身が出てきた出口が東南口だったことを確認した。マイゴンは、せめて4方位のどれかの出口から出ていれば未来は変わったかもしれないと思った。しかし、神視点である私は知っている。翠ノ条駅には東南口と中央口しか存在しない。マイゴンが夢見た世界は、どの分岐にも存在しない。
 マイゴンはストレスを感じてゴツゴツした背中がフワフワになった。マイゴンは声の限り叫びたかった。しかし、そんなことをすれば周りの人間はそれ以上の叫び声を上げ、逃げ惑い、人生最後に食べたい物の話で盛り上がってしまうだろうと考えて止めた。生きているだけで人に迷惑をかけてしまうから、意図して迷惑をかけることだけはしない。それはマイゴンとマイゴン母が交わした約束だった。母のことを思い出したマイゴンは込み上げてくるものがあった。そして、母に会うために動き続けなければいけないと思った。行動すれば何かが変わる。周りの人も変わる。誰かも動く。今回動いてくれたのは、変哲なきにも程がある老人だった。その推定年齢86歳の老人は改札に切符を入れて抜けた時にマイゴンの存在を認識した。老人は不思議そうに首を傾けた後に、しばらくして何かを思い出したかのように晴れやかな表情になった。
「なんだ、マイゴンか」
 この老人の人生において、マイゴンは既出だった。やはり長く生きている人はそれだけで尊敬できる。
「俺が21の時、今日と同じようにマイゴンがいてな。あの時は俺も若かったからどうすればいいか分かんなくてな。マイゴンと一緒にただ慌てるばかりだったんだよ。それで、俺にも一丁前にプライドがあったから、マイゴンを助けているところを知り合いに見られたらどうしようとか下らないこと考えていてな。そんなこと人生の何の足しにもならないのにな。でも今思い返せば、あの頃は自分が尖っている気でいたけど、やっぱり純粋だったんだろうな。今はもう汚い人間になっちまったよ。あれ何の話だったっけ」
 マイゴンは首を長くして話が終わるのを待った。一説によると、マイゴンの首が長くなったのは、この老人が原因であるとされている。
「そうだ、そうだ。お前も親元に帰りたいんだろう。連れてってやるよ。ああ遠慮しなくていいぞ。これは俺の自己満足だから。この齢になってもう自分を嫌いになりたくないからな」
 マイゴンは「マイゴン、マイゴン」と鳴くばかりで老人と意思疎通が図れなかった。ただ、マイゴンも老人が助けてくれようとしていることは、老人が出す温かみのようなものから察していた。マイゴンはこの老人についていくことに決めた。老人は人通りの少ない道を選んで歩いた。それは先の老人の発言のような知り合いに見られたくないという思いもあったのだろうが、マイゴンが一目につかないための配慮だともいえた。
「孫が亡くなってな」
 前を歩く老人は、後ろを振り返ることなく話し出した。マイゴンは言葉が分からなかった。
「もうないと思ってた。もう散々苦しい経験はしてきたから、もう静かに余生を過ごせるって何の根拠もなく勝手に思ってた。家内が先立った時にこれがピークだと思った。なのにまだあったよ。もういいだろ。代わりに俺を殺してくれよ。なんで、俺が馬鹿みたいにこんな生きてんだよ。あれ何の話だったっけ」
 マイゴンの首は少しずつ時間をかけて長くなった。それは、話が長かったからではなく、四足歩行のマイゴンが、前を歩く老人を抱きしめるためには首を使うしかなかったからだ。
「お前は親を悲しませたら駄目だぞ。悲しませたらその分親孝行しろ。親も泣いてるんだ。現世だけで強く変われるなんてそんなのは無理だ」
 老人はそれ以上何も言わなかった。
 一人と一匹は田園風景を横目にひたすら畦道を歩き続けた。マイゴンは母と父のことを想っていた。老人は生きている孫ではなく、亡くなった孫のことばかり考えてしまう自分にまた悩んでいた。
 老人は道の端に立っている案山子の前で立ち止まった。それから案山子をぐるぐると回転させ始めた。マイゴンは老人が何をしているのかさっぱり分からなかった。案山子は100回以上回り、目が回ったように倒れ込んだ。すると、周りの田んぼは消え失せ、一面には草原が広がっていた。マイゴンが老人の方を見ると、老人は顎で前方を指し示した。100メートル前方にはマイゴンの群れがいた。
 マイゴンは老人にお礼を言おうとしたが、老人は既に群れとは反対の方向に歩き出していた。マイゴンは声の限り鳴いた。
「俺の話は全部忘れて生きろよ」
 老人はそれだけ言っていなくなってしまった。
 マイゴンは老人と会えたその喜びを忘れないように心に留めながら、群れの中に帰っていった。
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