文字数 6,361文字

 岩淵さんと私は処分する遺品をトラックの荷台に積み込むと、そのまま帰途についた。トラックのなかで岩淵さんはなにか考えごとをしているようであった。私も塞ぎ込んだままであった。しばらくすると岩淵さんがためらいがちに口を開いた。
 「よかったら、すこしだけ私の仕事場へお寄りになりませんか。お見せしたいものがあるんです」
 私は予期せぬ誘いに戸惑ったが、せっかくなので行ってみることにした。返事をすると、庁舎へ向かっていたトラックはルートを変更した。
 ずっと気づかずにいたが、カーオーディオからはガブリエル・フォーレの『レクイエム』が小さな音量で流れていた。
 「この曲は」
 私がそう言いかけると、岩淵さんは照れたように答えてくれた。
 「いや、柄でもないんですけど。ただ、遺品を運ぶ時はいつもかけるようにしているんです。すこしでも故人への手向けになればと思いましてね。私自身もこの曲を聴いていると、なんとなく安らぐんです」
 「そうですか」
 岩淵さんはなにも感じていないわけではなかったのだ。それどころか…。私は心が温まるのを感じていた。
 岩淵さんの仕事場は住宅街からだいぶ離れていた。ススキの生い茂る原っぱを進んでゆくと、古びた倉庫のような建物がぽつんと建っているのが見えてきた。屋根も外壁もトタン張りであり、所々グレーの塗装が剥げ錆びついていた。仕事場と自宅を兼ねているようであった。
 建物はトラックを入れられるようになっていた。岩淵さんは建物の前でいったん降りシャッターを開けると、すぐに戻ってきてトラックをなかの駐車スペースに停めた。私は岩淵さんに促されるままトラックから降りた。
 建物のなかは思いのほか広く、遺品らしき古びた家具や家電製品等が駐車スペースの奥に置かれていた。まとめて廃棄するのだろう。天井の低そうな事務所のような部屋がそのさらに奥に見えた。その部屋の二階が自宅になっているようであった。
 岩淵さんはトラックの荷台を確認し終えると、きょろきょろしている私を事務所へ案内してくれた。飾り気はなかったが、よく整頓されていた。岩淵さんは隅にあったアームチェアを持ってきて、私に座るよう誘った。そして思いついたように二階へ上ってゆくと、すぐに下りてきて、手にしていた冷たいお茶のペットボトルを私に差し出した。冷蔵庫から取り出してきたのだろう。
 「いや、お気遣いなく」
 「ええ、まあ、これくらいは」
 岩淵さんはそう言ったきり、俯き加減で黙っていた。なにか言いたげであったが、なかなか口を開けずにいた。私たちは小さなテーブル越しに向かい合い、互いにお茶を啜っていた。
 「なんだかやるせなくなりますね」
 私が沈んだ声でそう言うと、岩淵さんはようやく重い口を開いた。
 「遺族がまったくいない場合、いてもそう変わりませんが、たいていは依頼主から、金目のもの以外の遺品はすべて処分してくれって頼まれるんです。ゴミでも捨てるように。でも、どうしても捨てられないものもあるんです。ただの物でしかないんですけどね」
 岩淵さんはそう言うと、おもむろに席を立った。そして事務所の角にあるスチールキャビネットの引き出しからノートのようなものを何冊か取り出してきて、私に手渡そうとした。
 「これ、よかったら」
 私は脆いガラス細工を扱うかのように、慎重に両手で受け取った。そして一冊ずつ丁寧にページを捲っていった。どれも死にゆく自分自身の想いが綴られていた。私はいたたまれなくなっていた。
 「黒瀬さんだけではないんですね」
 「ええ」
 岩淵さんは細い声で返事をした。
 ぎっしりと仏教経典を書写してあるノートもあった。
 「これはマンションの自室で孤独死した男性のものです。もうかなり高齢で、身体が弱っていたそうです。写経は途中で終わっています。最後の方の字はだいぶ乱れているでしょ。手が震えるほど、衰弱していたのかもしれません」
 「死ぬ間際まで写経をつづけていたのでしょうか」
 「そうだと思います。仏に導かれて逝ったのかもしれません」
 この人は信仰によって救われていたのだろうか。それを知る由もないが、信仰の持つ力を感じずにはいられなかった。
 「他にも写真や手紙がしまってありますので、よかったら」
 岩淵さんはそう言って私を誘った。
 私はスチールキャビネットへ歩み寄り、引き出しのなかを覗き込んだ。背表紙に名前と日付の書き込まれたドキュメントファイルが並べられていた。いちばん端のものを手に取ると、なかには何枚か古い写真が入っていた。慎重に写真を取り出し、一枚ずつ想いを巡らせながら見ていると、岩淵さんが近寄ってきて説明してくれた。
 「この男性は生涯独身だったそうです。これは子供の頃、海水浴に行った時の写真なんでしょうね。並んで写っているのは父親だと思います。顔がどことなく似ていますし。二人とも楽しそうに。いい想い出だったのでしょうね」
 「ええ、きっと。こちらも同じ方の写真ですか」
 「そうでしょう。若かりし頃の」
 「傍らでうれしそうに微笑んでいる女性は恋人だったのかもしれないですね」
 「ええ、そうだと思います。手をつないでいますし。しかし、なんらかの理由で一緒になれなかった。けれども、この写真は死ぬまで捨てられなかった。ずっとこの女性のことが忘れられなかったのかもしれないですね」
 「ええ」
 私は込み上げてくるものがあり、それしか声を発することができなかった。私の気持ちを察してか、岩淵さんも押し黙っていた。
 私は写真を見終えると、ドキュメントファイルのなかにそっと戻した。それを待っていたかのように、岩淵さんは別のところから手紙を持ってきて、私に手渡した。
 「これは七十三歳で亡くなった女性のものです。若い頃、実家の母親から送られてきたようです。離婚した直後で、自暴自棄になっていたみたいです」
 私は手紙に目を通した。娘を憂える母親の心情が痛いほど伝わってきた。実家に帰ってこいとも書かれていた。
 「母親はどんな想いでこの手紙を綴っていたのでしょうね。それを思うと、切なくなります」
 私はしみじみとそう言った。
 「ええ。結局、実家へは帰らなかったのでしょうね。母親に反発していたのかもしれません。けれども、この手紙は生涯捨てられなかった。母親が亡くなった後も、この手紙を読み返していたのだと思います。手紙にはこんなに手垢がついている。この染みは涙の跡かもしれないですね」
 「この手紙は宝物だったんだと思います。きっと…」
 「それから、この紙切れには、詩のようなものが記されています。この女性がアパートの自室で孤独死した時、枕元に置いてあったそうです」
 そう言うと岩淵さんは、その紙切れをそっと私に手渡した。詩は小さくやさしい文字で綴られていた。

 おかあさん おはよう
 おかあさん いってきます
 おかあさん ただいま
 おかあさん きょうがっこうでね
 おかあさん ごはんおいしいね
 おかあさん おやすみなさい

 かえらない 永遠の日々

 おかあさん ありがとう

 この女性と母親の間になにがあったかは知る由もない。ただいつしか母親は亡くなってしまった。そしてその母親の想いを胸に、この女性はひとりで死んでいったのだろう。そう思うと、私はまたやるせなくなっていた。
 私はそれからもしばらく、それぞれの人生に想いを巡らせながら、他の人たちの遺品を見ていた。涙が込み上げてくるのを必死でこらえていた。それを察してか、岩淵さんはもうなにも言わなかった。
 私が並べられていたドキュメントファイルの中身をひと通り見終えると、岩淵さんは自席へ戻った。私も後を追うように、先ほどまで座っていた椅子に腰かけた。互いに無言でお茶を啜っていた。ペットボトルは汗をかき、テーブルを濡らしていた。
 「死んだ他人の過去を覗き見ているようで、悪趣味だと蔑まれるかもしれません」
 「いえ、そんなことはまったくないです」
 思わず私は語気を強めていた。蔑むどころか、むしろ敬うべき行いだと感じ入っていたからだ。
 「ありがとうございます。私自身も疚しいことをしているとは思っていません。ただ、いずれは処分しなければと思っています。この仕事をいつまでつづけられるか分かりませんし、私だっていつかは死ぬのですから。その前にはきっと。でも、しばらくはこうして取っておきたいと思っているんです」
 岩淵さんはそう言うと、私が預かっていた黒瀬さんの写真と手帳をここに一緒に保管しておくと申し出てくれた。
 「ありがとうございます。そうしていただけると助かります。どうしようかと思っていました。捨てるに捨てられないですから…」
 「その人は亡くなりました。遺族もいません。親しい友人もいませんでした。その人はじきに、世間から忘れ去られてしまうのかもしれません。だからといって、その人のものをなにもかも捨ててしまうなんて。生きてきた痕跡をすべて消し去ってしまうようで。その人が存在していなかったことにしてしまうような気がして。そんなことをあっさりとはできないんです」
 「同感です。遺品にはその人の想いがこもっているというか。たんなる物ではないんだと思います」
 「この仕事は本当につらいです。やめたいと思うこともあります。けれど、やめるわけにはいかないんです」
 岩淵さんは沈んだ声でそう言うと、ひと呼吸おいてから悲痛な面持ちで、自分がこの仕事に就いた経緯について語りだした。
 「私は父を見殺しにしてしまったんです。母が死ぬと、父はその悲しみからか、急に弱ってきましてね。それなのに私は、父を気遣おうとはしなかった。父を実家にひとりきりで住まわせつづけていました。実家へ帰ることもめったになく、電話さえあまりかけませんでした。父の遺体を発見したのは、死んでから一週間ほど後でした。いくら電話しても出ないので、さすがに心配になって実家へ戻ってみると、とっくに息絶えていたんです。布団に包まったまま。寒かったんでしょうね。父は老衰死でした…」
 私は返す言葉が見つからず、黙っていた。
 「死ぬひと月ほど前に電話した際、父は身体がふらふらすると言っていました。そこまで弱っていたんですね。なのに私はそっけなく、あまりおかしいなら病院にでも行ってみたらとしか答えませんでした。父は体調が悪く、苦しんでいたのかもしれません。しかしその後、連絡をよこすことはありませんでした。私に迷惑をかけまいと思っていたんですかね。そんな父を気にかけもせず私は…。父と話したのはあの電話が最後でした。私は後悔と自責の念に苛まれました。そんなこともひとつのきっかけになって、この仕事に就いたんです」
 「そうでしたか」
 私はそれしか言えなかった。なにか慰めの言葉をかけてあげたくなったが、かえって岩淵さんを傷つけると思い、押し黙っていた。
 岩淵さんは伏し目がちに、声を絞り出すようにしてまた話しだした。
 「この仕事をしていると言ったら、ほとんどの友人は離れてゆきました。縁起でもないって。ショックでしたが、この仕事をやめようとは思いませんでした。それで離れてゆくような友人なら、いらないと思ったんです。ただ、遺品を見ると、つらくなることがあります。耐えきれなくなることがあるんです」
 「黒瀬さんのように身寄りのない方ですと、なおさら切ないですね」
 私はしんみりとそう言った。
 「ええ、まあ…。ただ、孤独死が惨めだとか憐れだとかいうのは違う気がするんです。親族に看取られながら死んだところで、同じだと思うんです。死は死ですよ。皆、ひとりで死んでゆくんです。皆、言ってみれば孤独死なんですよ」
 「そうですね…。しかし死んだ後、誰も悲しんでくれない、想い出してさえくれないというのは、やはり淋しいのではないでしょうか」
 「考えようだと思います。家族がいれば、いっときは悲しんでくれるかもしれません。弔いつづけてくれるかもしれません。しかしそれもせいぜい、子供が生きている間だけでしょう。孫、まして曾孫の代になれば、供養はおろか、想い出してくれることさえなくなるでしょう。皆、いつかは忘れ去られてゆくんです。同じことですよ。それならいっそ、死んだらすぐに忘れ去ってもらった方が、すっきりしていていいかもしれない。そんなふうに思うこともあるんです。結局は同じことなのですから」
 岩淵さんは一言一句噛みしめるように話していた。私は心を覆っていた暗い雲の隙間から、ひと筋の光が差し込んでくるのを感じていた。
 「死んだら、悲しんでくれる、弔いつづけてくれるなんて、思い込みなのかもしれませんね」
 「ええ。そうして自分を慰めているのでしょう。それでも、そうやって思い込んでいられるというのはある意味、幸せなことだとも思います。もちろん、人の気持ちなんて誰にも分かりはしません。人それぞれでもあるのでしょう」
 私は岩淵さんの言葉に感銘を受けながらも、いまひとつ引っかかるものがあった。そして勢い、それを口にしてしまっていた。
 「ただそれでも、子孫がいれば、自分の血が受け継がれてゆく。たとえ忘れ去られようとも、そのことで自分の命が受け継がれてゆく。そう考えることもできるのではないでしょうか」
 「もちろん、そう考えることもできるでしょう。ただ、これも考えようだと思うんです。極論ですが、例えば自分のクローンをつくったとしましょう。クローン技術により遺伝子の構成をほとんどまったく同じにすれば、容姿もそっくりになるかもしれません。しかしそれでも、そのクローンは自分自身ではありえません。他者でしかないのです。つまるところ、誰もがひとりきりなのではないでしょうか。皆、ひとりで生まれてきて、ひとりで死んでゆくんです…。それに、人類だって、いずれは滅びるのでしょうし、地球、そして宇宙だって、いつかは終わりがくるのでしょう。すべては消えてなくなるんです」
 岩淵さんは沈痛な面持ちであった。私はなにも言えなかった。込み上げてくるものがあったが、どう伝えていいか分からないでいた。
 そうしていると岩淵さんはすこし気を取り直したのか、表情を緩め、努めて明るい声で話しだした。
 「誤解されるといけませんので断っておきますが、身寄りがなく孤独死した人が皆、不幸だったなんて思わないでほしいんです。長く生きていれば、いいこともあったでしょう。最期まで幸福な人生だったと思っていたかもしれません。その人が幸せだったかどうかなんて、他人が決められることではありません。その人自身が決めることです。その人でなければ決められないことなんです」
 「おっしゃる通りだと思います。傍から見ていても分からないことがありますし、感じ方だって人によって異なるのですから」
 「そうです。その人が幸せだと感じているのを他人が否定するなんて、あってはならないことです。逆もまた然りです。私は常にそういう姿勢でこの仕事に取り組むようにしているつもりです」
 それで岩淵さんは黒瀬さんの遺品整理を淡々と無表情で行っていたのだろう。私は岩淵さんのなかに深淵な覚悟のようなものを感じずにはいられなかった。
 しばらくして私は帰ることを告げた。岩淵さんは庁舎までトラックで送ると言ってくれた。私は自費でタクシーを呼ぶからと断ったが、岩淵さんは自分が連れてきたのだからと譲らなかった。私は岩淵さんの厚意を受けいれることにした。
 帰りのトラックのなかでは互いになにも話さなかった。いつの間にか夕暮れ近くになっていた。空気が澄んでいたからだろうか。フロントガラスからは強い西日が差し込み、私たちを眩しいまでに黄色く輝かせていた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み