第14話 「世界の名著」と太宰治

文字数 1,552文字

 1960年代前後に発刊されていた、中央公論社の「名著」シリーズ。100巻近く、続いたろうか。このシリーズの中には、小説家の名がない。ドストエフスキーもトルストイもいない。哲学、宗教、経済、心理学、法学、社会学といった著作が多い。思うに、この出版の意図は、「永遠普遍的なもの」「人が生きるに必要な根源的な哲理」だったのではないかと想像する。
 もはや古本屋で買い求めるしかなく、近所で250円で売っていたプラトン、フロイト、デカルト、キルケゴール、ロックヒューム、ヘーゲル、パスカル、老子荘子などが部屋の本棚に。まだ読んでいないのが多い。
 現在、このような本の類いは、一般に読まれないかもしれない。60年前は、「これくらいは読んでおかなければ」と、人間としての義務を果たすように、難解な本が多いイメージがある。戦争が終わって、まだ15年しか経っていない頃だから、平和とか社会とか、人間とは? 生き方とは? といった書物が、需要のあった時代のように思う。

 当世、あまり好まれないかもしれないが、荘子とモンテーニュには、ずいぶん憩うことができた。ソクラテスの、人との対話を通じて真実へ向かう姿勢には、絶句を通り越す。
 真実、真理というのは、ある。それはどこまでも主観的だけれども、それを言葉によって客観化し、人を納得せざるを得ない情況へ持って行くところに、彼らの凄さがある。それを創るのは、彼らの、自身への信心が根っ子にあると思えてならない。そして、それを言語に表示するのだという情熱。
 自分に自信を持てない者としては、この頃、よく太宰を読んでいる。20歳の頃は、ただ太宰の文体が好きで、行間ばかりを泳いで、まともに読んでいなかった。今、じっくりチャンと読んでみても、どこを切っても太宰だなぁというのは変わらない。同じようなことばかり書いているし、「しょうがないなぁ」と思いながら、憎めず、読んでしまう。

 漱石もそうだったが、読者へのサービス精神が旺盛だ。ただ漱石には、明治の時代潮流もあってか、自我というものが確固としてあったように見える。太宰には、それがない。自我、自意識は、過剰なほどあるのに、肝心な自信がまるで無いように見える。お酒ばかり飲んで、借金をし、どうしようない生活をそのまま書いているように見える。
 太宰の言いたいことは、「生まれたことを不幸と思え」が基本にある。そして「でも、」が付く。「でも、それは何も私(あなた)に限ったことではない。みんな、そうなのだ。みんな、どうしようもなく、生きているのだ。私は、そのどうしようもなさを書く。楽しんで読んでくれたら、それで結構。」
 小説は娯楽、読者を楽しませてなんぼと、割り切ろうとしていた気配がする。でも、本気では割り切れなかった。破れた、弱いハートを売り物のようにしながらも、きっとそれだけでない、人に、文を通じて訴えたいとするどうしようもない意思が、強く強くあったはず。

「世界の名著」たちは、読者から共感を得よう、などという姿勢よりも、自分の論理を確立するのに奔走していたが、太宰は(小説家は皆そうなのか?)特に、「共感」を求め、物語を書いていたように感じる。何かを感じるのは独りの世界、だけどホントは独りじゃない、みんな、そうなのだよ、と。
 一緒に、著者と共に思考を重ねるのでなく、共に「感じ合う」ことに重きを置いた作家。「感覚」に訴え、自身、そのように生きた人だったように思う。
 どうしようもない奴なのに、何やら憎めない、という人がいる。太宰の文学は、自分にとって、そんなふうな存在だ。
 名著も太宰も、今はもうそんなに読まれないかもしれないが、きっと時代は巡ると信じたい。そうとうな、命、ほとんど人生をかけて書いた物には、違いないからだ。
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