第23話 演技賞

文字数 1,437文字

 自分は、演技をしているのだ、と、気づいたのは、いつだったろう。
 人間関係。人と、接する時、それは芽生えたように思う。
 自意識。「この人から、こう見られている。」
 最初は、戸惑い。次第に、あきらめ。
 それから、びくびく、するようになった気がする。警戒。心、開かない。自閉症ではないと思うが、いや、そもそも、心を開くとか閉じるとか、何だろうという疑念。
 演技を、生き生きとしていた時期もあった。演技とも思わなかった。ここでは、自分はこういう役割なのだと、自然のように割り切って、「自分」でいられた時期があった。何のプライドも、バカにされたら悔しいとかも、思わなかったと思う。
 何を考えていたのか。
 ただ目の前にいる相手との時間を楽しみ、それ以外に何も考えていなかったように思える。その時間の中で、ただその時間の中にいることが、まるで出来ていたようである。

「なりきる」ことが出来ていたようでもある。とにかく、何かになりきっていたのだ。そして、それが自分だという意識もなく、何が自分かという疑いもなく、少しはあっても微小なもので、その疑いに心が捕らわれることもなかった。
 社会的な立場とか、年齢とか、そんな「客観的な」意識を強く持つようになってから、何やら考え出したようである。
 誰かが私を「強迫観念症」と言ったが、言われた時は、ああ、そうか、そうだなぁと思った。だが、誰でも、そうではないかと、次第に思うようになった。「症」と付くのが病的であるとしたら、病は人を苦しめるわけで(だから快楽もあるだろうが)、強迫観念を基に、自分はこうするべきだとか、こうあるべきだとか、自分を規定した挙句、その「べき」から外れた自分に対して死にたくなるわけで、それは立派な、病気と言えば病気である。
 だが、やはり私には、病気とは思えない。

 するとまた、「病気を自覚しないのが真の病者だ」とのたもう人が現れる。まずは自覚し、認めるところから、対処することが初めて可能である、という言い分。
 やはり私には分からない。歯痛や腰痛と、心の痛みは、わけが違う。身体の痛みは、私がばかなせいもあるが、いつのまにか忘れるけれど、気持ちの痛さは、なかなか忘れられない。
 心など、形にあって手に取れるものではないから、処置に困る。これは、万人共通の、困ることであると思う。そしてその気持ち、心たるや、さらに困ったことに、自分にしか分からないかのようなのだ。
 ワカルカヨ、ソンナモン、と私は思う。苦しい、悲しい、淋しい等は、分かる。だが、なぜそのような気持ちに、自分がなるのかという「出どころ」、出生の秘密が分からない。

 真の原因は、その秘密の中にある。精神的な病に対して、形而下のクスリやらで処方するのは、うわべの塗り薬のようなもので、誤魔化されてしまう感じがする。それで楽になるならいい。しかし、何か誤魔化しだらけの人生を送ってきたような私としては、これ以上、責任転嫁するようなことは(責任! これも精神的なものだが)、したくない。
 そんな、あがきが、自分にこんなモノを書かせているようだ。あっても仕方のない、虚しい原動力か。
 生産的な、この世のお役に立てるような、そんなことをしてみたい。未練がある。ほんとかな。功名心。自己顕示欲。他者の手を借りて、自己満足したいだけでないのかな。まだ、何か演技をしたいのかな。ダメだよ、そんなんじゃ。もう、諦めたら? 諦めたところから、光明が差し込むこともある。と、自分へ。
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