第1話 穏健派マルクス

文字数 2,927文字

ジャーナリスト・マルクス
Saven Satow
May, 19, 2018

「人間の職業選択は自由に決められるものではなく、境遇が人間御思想を作り、そこから職業が決まってくる」。
カール・マルクス

1 穏健派マルクス
 2018年5月5日はカール・マルクス生誕200年に当たる。彼は、1818年5月5日、プロイセンのトリーアに弁護士の父ハインリッヒと母ヘンリエッテの間に生まれている。そのマルクスは、フリードリヒ・ニーチェやジクムント・フロイトと並んで、20世紀に最も影響を与えた思想家である。彼の名を掲げた革命や国家樹立が行われている。また、資本主義の矛盾が社会問題化する度に彼が再評価されている。生誕200年も、世界的に貧富の格差が拡大する中で好意的に迎えられている。

 今日、マルクスは革命家や経済学者、哲学者、政治理論家など多様な肩書で知られている。しかし、彼の生前のそれはジャーナリストである。マルクスは世界史に最も影響を与えたジャーナリストだ。ジャーナリストが『共産党宣言』や『資本論』、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を著わしている。現代のジャーナリストは、マルクスの中期以降の著作を同業者が書いたことを念頭に詠まなければならない。

 マルクスは大学教員志望だったが、言論統制を敷くプロイセン当局が彼に無神論者との疑いを抱きそれを阻んでいる。そのため、マルクスはジャーナリストの道を進むことになる。

 ジャーナリストになって間もなく、マルクスは、1842年、『ライン新聞』の編集長に就任している。経験も未熟な24歳の若者が抜擢された理由も当局の言論統制である。新聞は存続のため、記事を当局に妥協的な内容にすると編集方針を転換する。その際、そうした路線を支持していたマルクスに新デスクの白羽の矢が立てられる。彼はリベラルであったが、社会主義を嫌い、その本さえも読んだことがない中道左派である。新編集長の下、新聞は穏健化していく。

 共産主義者を自認するようになった頃のマルクスはリベラル、すなわち自由主義者をブルジョア的と批判している。しかし、当時の彼はそのリベラルで、社会主義者に否定的である。今日、リベラリズム、すなわち自由主義と社会主義は左派と一緒くたにされがちだが、もともと両者は異なっている。

 自由主義は近代本流の思想である。近代社会は自由と平等で、自立した個人によって成り立っている。その理念の実現を推し進めるのが自由主義である。支持者はブルジョア、すなわち教養市民層である。それは医師や弁護士、大学教授、ジャーナリストなどの専門職を指す。彼らは近代社会を理念に従って維持運営するために不可欠である。

 マルクスの父は弁護士であり、彼も大学教授志望のジャーナリストである。マルクスの家庭環境や人生行路は専門職で、彼がリベラルだったとしても不思議ではない。彼のそれまでの経歴は社会主義に近くはない。

 自由主義者は、近代の前提から理論的に基礎づけられた市場経済・議会制民主主義・三権分立などの精度を支持する。これらが理想通りに機能するならば、近代社会は人々の幸福を増大する。

 他方、社会主義は労働者の思想である。労働者の置かれる現実を根拠に、市場経済が理想的に機能していないとしてその制限を主張する。

 専門職の思想である自由主義によれば、経済は私的活動であるから、公的組織である政府が介入すべきでない。しかし、社会主義は、個々人ではなく、労働者という集団が総じて貧困など悲惨な状況にあるのならば、それは社会的問題であると指摘する。近代の理念の一つである平等が損なわれている。経済すべてが私的活動とは言い難く、政府が介入して市場を制限すべきだ。また、公益性の強い事業に関しては民間ではなく、公営化する必要がある。こうした社会主義は自由主義の経済社会についての理想を現実によって批判する思想である。

 理念に基づいて構築された理論に基礎づけられた自由主義に比べて、社会主義は現実に立脚するため、体系性に乏しい。そのため、オーウェン主義やサン・シモン主義、プルードン主義など多くの分流思想を生み出している。 大学でヘーゲル哲学という体系的な理論を学んだマルクスには、こうした断片的な社会主義思想に知的好奇心が惹かれることはなかっただろう。

 後にマルクスは共産主義者を自認した際、自由主義をブルジョア的と批判する。彼の共産主義は近代の克服のヴィジョンである。そのため、彼は二段階革命論を唱え、ブルジョア革命をプロレタリア革命の前段階と見している。また、従来の社会主義も「空想的」として「科学的」な共産主義への発展に向かう段階と位置付けている。マルクスの思想は自由主義も社会主義もその体系に内包している。

 ところで、マルクスの穏健路線にも、当局は満足しない。検閲による記事の却下が絶えない。結局、1843年、『ライン新聞』は廃刊する。その後も、マルクスはジャーナリストとしての活動を続けている。1851年、マルクスはアメリカの新聞『ニューヨーク・トリビューン』の欧州特派員に採用される。彼はこれを10年ほど続け、その収入によって生活が安定している。

 『ニューヨーク・トリビューン』は、ホイッグ党の政治家ホレス・グリーリーが1841年に創刊した新聞である。同紙は奴隷制反対や保護貿易、女性の権利擁護などを主張し、南北戦争における北部の世論形成に寄与している。なお、共和党系のこの新聞は1924年に『ニューヨーク・ヘラルド』と合併、廃刊になっている。

 伝記的事実をたどると、疑問が浮かぶ。『ニューヨーク・トリビューン』に採用される前の1848年、マルクスはエンゲルスとともに『共産党宣言』を公表している。その時点でマルクスは共産主義者を自称している。けれども、同紙はリベラルであっても、左翼の主張をとっていない。北部の工業発展を支持する新聞にとって、市場経済の打倒など論外だ。なぜマルクスが雇用されたのかというと、実は、『宣言』が英訳されていなかったからである。

 その上、特派員になってからも、マルクスは同紙の論調に合わせて記事を書いている。1851年から62年までの間、彼は同紙のためにおよそ500本のコラムを書いている。週1のペースである。しかし、それに目を通しても、資本主義の終焉とプロレタリア革命による共産主義社会の到来を声高に主張する過激派の姿はない。

 一例を挙げよう。マルクスは、1858年9月25日のコラム『自由貿易と独占(Free Trade and Monopoly)』において、英国のアヘンの三角貿易を取り上げている。その際、これを自由貿易の問題として批判する。悪名高いかの三角貿易が自由貿易の原則のもたらす害悪であるかは疑問で、『ニューヨーク・トリビューン』の主張に沿った視点である。

 マルクスは新聞を自説展開の場ではないとわきまえている。彼は同紙の論調を踏まえて、その欧州特派員として仕事に励んでいる。マルクスの有名なフレーズ通り、「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在が人間の意識を規定する」というわけだ。
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