7 天啓は十戒のごとく

文字数 5,786文字

 16時半すぎに槍の肩へ到着した槇村は、祈るような気持ちでテント場の受けつけに駆け込んだ。平日だったのが幸いしたのか、まだ何張りか幕営スペースは残っており、槍の肩という3,000メートル級の展望台にテントを設営することができた。
 早朝午前6時からずっと歩き通しだったため、さすがの彼も疲労は激しく、テントのなかでしばし仮眠することにした。次に目覚めるとあたりはすっかり暗くなっており、途端に飢餓感に襲われた。腕時計で確認すると、時刻は21時7分前。思ったよりかなり眠ってしまっていた。
 テントから顔を出すと槍ヶ岳山荘はすでに消灯しており、周りのテントもランプを消して静まり返っている。夜になって気温はぐっと下がり、真夏だというのに身を切るような冷風が吹き荒れている。テント内にも容赦なく吹き込んできて、体温をぐんぐん奪っていく。
 槇村はいったん内部に退散し、軍に貸与されたダウンジャケットを羽織った。安物らしく大した暖は得られなかったけれども、身体のふるえを止める程度には役立った。
 手早く湯を沸かしてアルファ化米とレトルトカレーの簡素なディナーをこしらえ、液体のように流し込む。速成訓練で鍛えた身体はカロリーをもっとほしがったけれども、食料を積めば積むほど道中が厳しくなる。そのため余分な食料はオミットしていた。すきっ腹を抱えて耐え忍ぶよりない。
 夕食を食べ終えるともう、することはない。青年は先人たちの汗の匂いが染みついた寝袋にくるまり、目を閉じる。眠りは一向に訪れなかった。中途半端な時間に睡眠をとったのが災いしたのか、妙に目が冴えてしまっている。
 それでも眠ろうと無駄な努力を試み、彼は狭い寝袋のなかで輾転反側し続けた。永遠とも思える時間がすぎたあと、ようやく浅い眠りが訪れるのだが、それはせいぜい30分程度のことで、時計を見ると1時間も経っていない。猛烈に眠たいのに眠れないのだった。
 以上のような流れを数度くり返したあと、観念して外へ出た。
 頭をハンマーでかち割られたような衝撃を受けた。全天を覆ったきらめく星ぼしが、槇村を包囲していたのである。標高は3,000メートルオーバー、周辺に都市の光もなく、月はおりよく新月、これ以上ないほど理想的な天体観測日和であった。
 誘われるように小屋のほうへ歩いていくと、豪華絢爛な天体ショーの観劇にありつくべく、そこそこの人出があるようだった。中高年の男女が年甲斐もなくはしゃいでいる声がそこかしこから聞こえてくる。漏れ聞こえてくる得意げな解説によれば、夜空に輝くひときわ明るいラインは天の川だそうだ。それは漆黒の夜空を切り裂く乳白色の裂け目であった。どちらかといえば無感動なタイプの彼も、これには圧倒され通しであった。飽きもせず首を限界まで傾け、またたく星ぼしをいつまでも眺め続けた。
「きさま、槇村か?」不意に現実に戻された。聞き覚えのある声がしたのだ。「槇村だろう、俺だよ俺、室田」
 ヘッドランプをそちらに向けると、まぶしそうに目を細めた大男が大きく手を振っていた。室田はなぜだかやたらと嬉しそうだった。横にもう一人誰かいるらしく、その人物の肩を何度も叩いている。「賭けは俺の勝ちだな。清算は山を降りたらでいいぞ。即金が厳しいなら金利8パーセントでローンと分割払いも受け付ける」
「くそ、まさか槇村まで脊髄反射でものを考えるゾンビ野郎だったとはね。買い被ってたよ」なにやらぶつぶつと悔しげにつぶやいている男にヘッドライトを向ける。あにはからんや、檜山であった。
「き、きさまらどうして」
「どうしたもこうしたもねえよ。人が最高の気分で星空を眺めてたら、この皮肉屋が声かけてきやがったんだ。せっかくのムードが台なしだぜ」
「冗談じゃないね。このデカブツが二人分のベンチを一人で占領してやがるから文句を言ってやったんだ。それがたまたまわが隊の木偶の棒だったってわけさ」
 槇村はこめかみをもみ、起き抜けのぼんやりした思考をまとめる。「てことは、申し合わせてきたわけじゃないのか。檜山も室田も独立に槍へ登ろうと決めたのか?」
 二人が同時にうなずいた。あとはもう爆笑するよりない。周りの中高年は何事かと奇異の目で三人を睨みつけたけれども、彼らは気にするようすもない。あれだけ無意味だなんだと突っ張っておきながら、結局五十嵐教官の言う通りに槍へ登ってしまったのである。これを笑わずしてなにを笑うというのか。
「よし、せっかく三人揃ったんだ、今日は呑み明かそうや」
 室田はどうせ登るなら訓練を兼ねてという名目で、下界から大量に缶ビールを担ぎ上げてきていたため、夜通しの宴会を催すだけの燃料は十分にあった。
 彼らはあえてテントにこもらず、槍ヶ岳山荘のベンチに腰かけたまま存分にきこしめした。アルコールで火照った身体には冷風がむしろ心地よく、ここなら眠りについているほかの登山者たちに迷惑がられる心配もない。
 8か月間同じタコ部屋に缶詰めにされ、もう話すことなど音素ひとつたりとてないと誰もが思っていたにもかかわらず、話題は無尽蔵にあるように思われた。教官連中の悪口(と同時に同じ人物の高評価が飛び出すこともあった)、軍隊の非能率さ、彼らをこんな目に遭わせている全体主義的な風潮、その他いろいろ。しばしば議論はヒートアップし、一人の話が終わる前からかぶせるようにもう一人が話し始め、すぐに収拾がつかなくなる。
 そんなことを何度もくり返しながらも、不思議と険悪なムードにはならなかった。三人は当人たちがどれだけ認めたがらなくても、いまや立派な同期の桜、運命共同体なのである。
「もしだぞ」と酔っぱらった室田がテーブルを叩きながら吼えた。「もし入隊しなかったやつにも人権がちゃんと与えられて、就職でも差別されないとしようや」
「異議あり! その仮定は非現実的すぎます。実際には入隊を選ばなかった者は非国民として差別され、その情報がマイナンバーを通して不可避的に登録されます。したがって――」
「ちょっと黙ってろ」槇村が遠慮なく皮肉屋の頭をはたく。「続けてくれ」
「まあこいつの言いたいことはわかる。俺の仮定はいわば物理の問題みたいなもんだ。ほら、例の〈ただし摩擦はないものとする〉とかそういうたぐいのな。でも理想的な条件だからといってその場面を想像しちゃいかんという法はあるまい。ちがうか?」
 ちがわなかった。
「俺は物理、槇村は化学、檜山は法学。入隊を拒否したあとも俺たちはなんらの滞りもなく復学できて、それぞれの分野に邁進するんだ。そのあと大学院にいくかなんかするかもしれんし、しないかもしれん。とにかく中国とのクソ戦争はどこか遠い宇宙でおっぱじまってる現実感のない現象で、俺たちはそれから隔絶していられたとする。……きさまらの言いたいことはよくわかるよ、でも最後まで言わせてくれ」
 驚いたことに檜山ですら茶々を入れなかった。
「そんなとき、目にするわけさ。俺は土岐の核融合実験場かどこかで、槇村は臨港コンビナートかどこかで、檜山は離婚調停かなんかを専門にする蛆虫の巣みたいな弁護士事務所で。なにを見るかわかるか、なあきさまら、俺たちがそのときなにを見るかわかるか」
「もったいぶるなよ、さっさと種明かしをしてくれ」
「俺たちは轟音に気づく。音は上から聞こえてくる。そこでなんの気なしにひょいと首をめぐらすと、お空に編隊を組んだ22式輸送機が北を目指して飛んでるわけだ。22式輸送機は200人もの兵員を詰め込める、空飛ぶ棺桶だ。5×200=1,000。これだけの人間が中国大陸に派兵されてる勘定になる。俺たちは算数の天才だから、瞬時にわかっちまうのさ。それを目撃したとき、未来の俺やきさまらはなにを思うんだろうな」
「ざまあみろと思うだろうな。俺はうまいこと逃げ出した。いま上空を飛んでるうすのろどもはそれに失敗した。せいぜいがんばってくれってなもんさ」
 檜山の強がりはむなしかった。言っている本人ですら気乗り薄だったのか、最後のほうは尻すぼみになり、風にかき消されてほとんど聞こえなかった。
「槇村はどう思う。くどいようだがそのときの俺たちはなに不自由なく成功してる人間だ。それをちゃんと計算に入れてくれよ」
 青年は言われた通り、できる限り室田の想定した場面を思い描いてみた。20代も終わりに近づいた彼は忙しくも充実した日々をすごしている。ますます原油が貴重になるなか、高分子材料製造は厳しい局面に立たされているはずである。いかにコストを切り詰めながら商品の質を向上させるか? 腕の立つ技術者として活躍する自分。もう何週間もアパートへ帰ってはいないけれども、不愉快さはまったくなく、つねにアイデアが脳内に渦巻いている爆発寸前の槇村・ニトログリセリン・啓一郎。
 23時すぎ、勤務を終えた彼はなにげなく空を見上げる。そこには航空灯をきらめかせながら一路、中国へ驀進する22式輸送機が勇ましい隊列を組みながら飛んでいる――。
「もし仮に俺たちがホームレスとか空き缶拾いとかをやってなくて、それぞれの分野で成功してるとしても」槇村は慎重に切り出した。「たぶん俺は22式輸送機(空飛ぶ棺桶)に乗ってる連中をうらやましく思うような気がする。俺だけ置いてけぼりを食ったような、一抹の寂しさを覚える気がするんだよ。それがいかに理屈の通らないたわごとであると自分でわかっててもだ」

 テーブルに突っ伏してうたた寝していた三人のうち、予感めいたものを感じた槇村が最初に目を覚ました。東の空が徐々に白み始めている。彼は二人を叩き起こすと、槍の穂先へと急いだ。時刻は午前4時33分、予報によれば日の出は5時7分である。行列さえできていなければ十分ご来光に間に合うはずだ。
 早起きが生理的な習性になりつつある高齢者たちがちらほら小屋から顔を出していたけれども、間一髪彼らを追い抜き、穂先の登攀路に取りつくことができた。槇村たちは風のように登攀をこなしていった。穂先はその名の通り、天を衝くがごとき威容を誇る急峻な岩場である。とはいえ彼らはこれよりはるかに厳しく危険なクライミングを経験していた。若さのほとばしる三人を誰も止めることはできない。
 わずか10分と少しで穂先最後の難関、垂直の長いはしごに着いてしまった。槇村を先頭に、彼らは臆することなく登っていき、ほぼ同時に穂先のてっぺんを極めた。4時50分、東の山間に後光が差しているかのように橙色の輝きを帯びている。
 槍の穂先は10人が立てばもう窮屈という程度のスペースしかなく、まさにこれぞ山頂といった趣である。小さな社と標高(3,180メートル)の記載されたプレートがあるきりで、あとは不規則なサイズの岩が転がっているだけ。まちがいなく日本でも有数の秘境であろう。
 下に目を転じると、シルエットになっている常念岳・蝶ヶ岳稜線の底が濃密な雲海に覆われ、両山頂がわずかに顔をのぞかせている。それは絶海の孤島を思わせた。槇村は雲海のスケール感にすっかり圧倒されていた。これは本当にこの世の光景なのか? 彼の口からは「すげえ」だの「やばい」だのといった、ありきたりな台詞すら出てこない。ただただ自然の造形美に魅入るばかりだった。
 三人が見守るなか、満を持して灼熱の光球がせり上がってきた。はじめは申しわけ程度に朱に染められていた雲海が、次の瞬間あっという間に燃え上がった。まるで雲海が引火性の液体でできていて、誰かが火炎瓶を投げ込んだかのようだった。陽射しは燎原の火のごとくあたり一面を照らしだし始めている。地球が、太陽が、銀河系そのものが回転しているのが確かに感じられる。
 槇村は沸き上がる衝動を抑えきれず、立ち上がって絶叫していた。すぐさま室田と檜山もそれに続く。そのあいだも太陽はぐんぐん上昇し、雲海と近隣の山々に命の息吹を吹き込んでいく。三人は声が枯れても叫び続けた。すっかり太陽が昇り、闇が打ち払われてもなお、彼らの魂は振動を続けていた。それは人が完新世から持ち続けている原初の衝動であった。
 そのとき槇村は悟った。自分はあのクソいまいましい軍隊に再入隊するだろうと。理屈ではなかった。なぜ理屈なんかが入り込む余地があろう? 彼はいまこの瞬間、単にそう思ったのである。それ以上の理由が必要だろうか?
 ありそうもないことだが中国が盛り返して再び沖縄を占領し、九州に魔の手が伸び、本土全体が中国共産党一党独裁の管理下に置かれたとする。それでも依然として日本列島は日本列島のままだ。国境が消滅して極東が中華帝国に編入されたとしても、その瞬間にプレート・テクトニクスに異変が起きて、一挙に日本が中国大陸と合体するわけではない。
 槇村の家族は不便をかこつだろう。南岳への旅程で出会った愛らしい女性、小西桃香も占領国の人間として漢民族に隷属させられるかもしれない。それでもおそらくなんらかのかたちで生き延びるだろう。21世紀の当節、民族浄化などというまねはもはやどの国にもできないのだから。
 そしてもちろん、槍ヶ岳そのものが核ミサイルによって破壊されるなどということも100パーセント起こらない。いま見ている光景は戦況が最悪の事態に転んだとしても、決して失われることはない。何億年もののち、自然が槍を破壊するまで存在し続けるはずである。
 しかし、と槇村は自問する。それでも――。
「きさまら、俺は決めたぞ」槇村啓一郎は雄々しく宣言した。「俺はクソ軍隊に舞い戻る」
 二人は目を丸くしてまじまじと彼を見つめてきた。宣言内容に驚いているのではないようだった。小ばかにしたような表情がこう語っている。


「いまから俺はとんでもなく恥ずかしい心の内を暴露するぞ。いいか、一度しか言わないからよく聞けよ、きさまら」
 槇村は深呼吸をして、言葉がほとしばるのに任せた。
「俺はこのクソ日本が大好きだ。文句あるか」

 たっぷり1時間以上も滞在したのち、三人は後ろ髪を引かれる思いでしぶしぶ穂先から降りた。テントを解体してパッキングし、一路新穂高目指して飛騨沢を下っていく。
 彼らは下山後、腹がはち切れるまでうまいものを食べようと約束した。
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