6 鬼教官のすすめ

文字数 2,003文字

「きさまらは記念すべき今日という日に、各務原基地での訓練を正式に修了した」
 おなじみの荒涼たる練兵場、おなじみの寸分の狂いもない二列横隊、おなじみの五十嵐教官の割れ鐘のようなドラ声。8か月前までは甘ったれたひよこ同然だった彼らも、いまや誰もが精悍な顔つきで演説を拝聴している。背筋は精密な建築用定規をそれから製造できそうなほど、ぴんと伸ばされている。
「俺が保証しよう、きさまらはどこに出しても恥ずかしくない卒業生であると。残念ながら入隊式のときより数はいくぶん減ってるがね。やつらは軟弱だったがきさまらはそうじゃかったわけだ。まずは心から祝福させてもらう。おめでとう」
 槇村は耳を疑った。入隊式で手始めに檜山をぶん殴り、その後もことあるごとに訓練生たちを執拗にぶん殴ってきた五十嵐大尉の口からおめでとうなどという言葉がまさか飛び出す日がこようとは……。
「だがもちろん、きさまらの能力はせいぜい戦場で足手まといにならないという程度のものでしかない。現場で戦っておられる先輩がたからすれば、きさまらなんぞは蛆虫以下の存在にすぎん」
 二列横隊のほうぼうから安堵のため息らしき吐息が漏れるのを、彼は確かに感じた。みないつもの教官に戻ったことに安心しているのだ。
「それでも現況はいささか芳しくなく、その蛆虫の力ですら求められていることはいまさら強調するまでもあるまい。きさまらはひとまず兵役を免除されるが、1週間後に本入隊か除隊かを決めてもらう予定である。時間はたっぷりある。各自よく考えてほしい。以上、解散、わかれ!」

 槇村、檜山、室田の三人が黙々と荷物の整理をしていると、控えめなノックの音が響いた。室田が無造作に答える。「開いてるよ」
「失礼」五十嵐教官だった。即座に全員が整理をほっぽりだし、完璧な角度の敬礼をやる。
「いいんだ、楽にしろ、座れ」彼が発したとは思えないほど優しい口調だった。
 槇村は直感的になんらかの罠であると判断し、不動の姿勢を崩さなかった。ほかの二人も同じ心境らしく、互いにけん制し合って座るどころか〈休め〉の体勢すらとらない。
「まあいままであれだけ怒鳴ってきた手前、無理もないか」教官は独り言のようにつぶやき、三人とはまるで見当ちがいのほうを向いてしゃべりだした。「三人ともいままでよくがんばった。できるなら隊に残ってくれることを希望するが、それはきさまらが決めることだ。俺たち教官連中にいろいろ言いたいことはあるだろうし、日本の未来に対していまひとつ義務感を持てないもどかしさもあるだろう」
 三人は鬼教官の独白を一言も聞き漏らすまいと押し黙っていた。檜山ですら口を真一文字に閉じ、背筋を伸ばしている。
「除隊式ではああいったけれども、きさまらは十分な戦力になる。だがやらされているとか圧力に負けてしかたなくとかいう心境での入隊は願い下げだ。戦力増強の観点から形式上徴兵制を敷いてるが、最終的にわが軍はあくまで志願制を採用している。自発的な意志で戦う兵士がほしいからだ。もう一度だけ言おう、俺はきさまらにいっさい強制はしない。――以上だ、邪魔をしたな」
「ひとつ、いいでありますか」タコ部屋を出ていこうとする鬼教官を勇敢にも呼び止めたのは室田だった。「自分は優柔不断でありますから、自分自身の気持ちを計りかねているであります。諸先輩がたはどのように決めたのでありますか」
 ここで初めて、大尉は槇村たちとまともに目を合わせた。「きさまらは北アルプスの槍ヶ岳という山を知ってるか」
 全員が同時にうなずいた。槇村は知らなかったけれども、経験上首を横に振ると厄介な事態が出来することはわかりきっている。
「わが隊では伝統的に、おのれの進路を決めるのに槍ヶ岳詣でをするのがならわしとなっている。槍の穂先でご来光を眺めてみろ。なにか得られるものがきっとあるはずだ。希望者は申し出てくれれば装備を貸与する」
 教官は機械でもこう正確にはできまいといった〈回れ右〉を披露し、足音高く退室した。
「――だってさ。どうする?」皮肉屋が早速噛みついた。「そもそも槍ヶ岳ってどこだよ。スイスかどこかの山なんて落ちじゃないよな」
「槇村、きさまはどうする」室田は檜山に取り合わず、「せっかくの休暇を山登りなんぞに費やすってのもどうかなと思わんでもないが」
「実家に帰っておふくろと親父に顔見せて、あとはひたすら寝る。山になんかいく必要はないさ」
 檜山の顔が輝いた。「めずらしく気が合ったな、同士よ」
「こいつと同意見というのは癪だが」大男は大げさに目玉をぐるりと回してみせた。「山になら訓練でさんざんっぱら登ったしなあ。いまさら山頂で天啓を得られるとも思えん」
 こうして三人はそれぞれの休暇を楽しむべく、各務原基地をあとにした。いっぽう槇村は抜け駆けしているような後ろめたさを感じながらも、登山装備一式の貸し出しを申請したのだった。
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