3 旅は道連れ

文字数 4,766文字

 槍平は飛騨側から槍ヶ岳へアプローチする際の重要拠点である。標高2,000メートル弱、森林のなかに突如として現れる広大な高原といった趣で、東へ進めば南岳への直登コースである南岳新道が、北へ進めば途方もないスケール感の飛騨沢を経由して槍ヶ岳へといたる。
 山小屋としては異例の多種多様な設備を誇る槍平小屋、それに付随するテント設営地を擁し、北アルプス南部の前哨基地としてその名を轟かせている。
 出発が早朝だったのもあり、槍平には午前9時30分に到着してしまった。ここから槍ヶ岳までは高山植物の咲き乱れる飛騨沢を一路、飛騨乗越目指して遡行する長丁場が待っている。槇村はずっしりと重いザックを降ろし、小休止をとることにした。腰かけるのにちょうどよい高さの板張りがあったので、ありがたく使わせてもらうことにする。
 槍平小屋の周辺にはこれから槍ヶ岳を目指すとおぼしき登山者の小集団がそこかしこにたむろし、元気はつらつ、鼻歌混じりに歩き始めていた。年齢層はほぼ中高年一色であり、彼のような若者は皆無である。
 水筒から水を飲み、カロリー補給としてチーズを二切れ口に放り込む。発酵食品の独特な味わいが口中に広がり、それが全身の細胞にしみわたっていくかのよう。青年は満足げな溜息を漏らした。
「おはようございます、今日はどちらまで?」不意に頭上から声をかけられた。「槍ですか?」
 またか。彼は恒例イベントと化しつつある中高年からのありがたいお説教に備えるべく、億劫そうに顔を上げた。予想に反して声をかけてきたのは、みずみずしい若い女性であった。あごひもを垂らしたからし色のサファリハット、それからのぞく色つやのある黒髪、上は七分袖のシャツと黒のインナー、下はカラフルなタイツに丈の短いホットパンツを身に着け、興味深そうに瞳を大きく見開いている。
「ご明察の通り槍ですが、そちらは?」青年はほどけてもいない靴ひもを結び直すふりをしながら答えた。
「あたしもそうなんですけど、どうしても大キレットを獅子鼻展望台から見てみたくて」
「すると南岳新道経由でいくわけですね」
「お兄さんは飛騨沢経由ですか、やっぱり」おもねるような上目遣い。「もしそうじゃないならご一緒しません?」
 そうではなかったけれども、青年としては異存などあるはずもない。「かまいませんよ」
「やった、助かりますほんとに。ほら、若者が一人でぶらぶらしてると人目が厳しいじゃないですか。夫婦のふりをしてればそういうの避けられるでしょ。徴兵免除項目にあるんでしたよね、確か」
「そのようですね」重いザックを背負い、首の凝りをほぐした。「ではいきましょうか」
「あたし小西です。小西桃香。フルーツの桃に香りで桃香」

 南岳新道は穂高連峰の一角である南岳(3,033メートル)の西尾根を直登するハードなルートである。標高差は1,000メートル程度であるが、道中は急登に次ぐ急登が続き、息つく暇もない。その代わり樹林帯を抜けた先の森林限界に達すると、北アルプスらしい男性的な岩稜の織りなす絶景が拝めるメリットもある。
 槇村と桃香は盛夏の陽射しを糧に成長する樹林帯を抜け、どこまでも伸びる岩尾根を直登しているところだった。高峰といえども真夏である、直射日光が二人をじりじりと焼き焦がし、拭っても拭っても汗がしたたり落ちてくる。
 桃香がついに音を上げた。「もう限界。ちょっと休憩しません?」
 二人は尾根上の小ピークでザックを下ろし、一本立てた。幸い水は槍平でたっぷり補給してある。青年は豪快に音を立てて飲んだ。
「あーあ、それにしてもいやな世の中ですよね。人目をはばからずに登山するのに偽装結婚しないといけないなんて。適用年齢だからってだけで戦争にいくのが当たり前みたいな雰囲気でしょ。おかしいですよこんなの」
 槇村はわざとらしくせき払いをした。「実は自分も軍人でしてね。まだ仮入隊の身分ですが」
「あ、そうだったの。今日は訓練の一環ですか、それならあたしずいぶん無理言っちゃいましたよね」
「速成訓練修了後の休暇中です。ご心配なく」
「休暇なのになんでわざわざ北アルプスへ?」
「それを言うなら小西さんも同じでしょう。いまは大学の夏季休暇ですか」
「そうなんです。いま二年生で、いろんな場所へいって見聞を広めようと思ってきたんだけど、きてよかったな」
「存分に楽しんでください」
 桃香が不意に身を乗り出してきた。「あの、槇村さんたちみたいな男の人には悪いと思ってるんですよ、一方的に重責を負わせちゃって。あたし志願したんですよ、でも丙種合格だって言われて。これって女性差別ですよね」
 男女差別が根絶されたはずの21世紀でもれっきとして、それは存在する。国家総動員法は男女のべつなく召集令状を発送するとうたっているけれども、事実上それを受け取るのは男子のみである。
 政府は適用年齢内の女子の志願まで阻止することはできないが、身体上兵役に適さないと判断することで彼女らを排除する道は残されている。どれだけ心身ともに頑健でまったく健康上の問題がなくても、女性は例外なく丙種合格(現役には不適格)がくだされるしくみになっている。そいういうものだ。
「だからあたしをのらくらしてる享楽主義者だと思わないでください」桃香は小声でつけ加えた。「そういう女の子がいることは認めるけど」
「そんなふうに思ってませんよ。自分は運が悪かった。それだけです」
「そうなのかな。本当にそうだと思う?」
 彼は黙っていた。もちろんそう思ってはいない。単に年下の女の子に心の内を吐露して泣き言をつむぐのがスマートでないことを心得ているだけだ。
「槇村さんたちは生け贄にされたんですよ。そうじゃない?」
「よくわかりませんな」
「上の世代の犠牲にされたって言ってるんです。知らないふりをするのはやめてください。あたしは本音が聞きたいの」
 数年前、感染力の強いウイルスが世界を席巻した時期があった。ウイルスに対する正しい知識を持たない国民は過剰な反応を起こし、常軌を逸した事件が続発した。メディア、政治、その他あらゆる媒体がこぞって恐怖を煽り、九分九厘の国民がそれを真に受けたのである。
 結果は惨憺たるものであった。国民は自発的に社会のために外出を自粛し、したがわない個人や企業を徹底的に排斥し始めたのである。彼らはみずから自由を放棄していった。インフルエンザとどっこいどっこいのウイルスを、まるでエボラ出血熱やエイズのように扱い、集団ヒステリーの拡大再生産をやらかしたのである。
 人びとの思考能力は完全に減退、あるいは麻痺していたといってもよい。彼らは政府が緊急事態宣言と呼ばれた看過すべきでない自由への容喙を見過ごすどころか、それを歓迎しさえしたのである。県知事へ宣言を出すよう要請するという痴呆同然の行為すら見られるようになったそのとき、おそらく日本の民主主義は終焉を迎えたのだろう。
 一度政府が強制力を行使し、反発が起こらなければあとはもう〈滑りやすい坂道〉を転げ落ちていくだけである。日本は民主主義からはるか遠く、どん底をさらに突き破って全体主義へと傾いていった。
 国民は自由よりも〈国〉や〈社会〉に価値を見出すよう自分たちで条件づけをし始めるという異常事態が出来し、それは指数関数的に悪化していった。まるで〈滑りやすい坂道〉の材質が摩擦係数ゼロであるかのように。槇村が

によって徴兵されるという先進国にあるまじき境遇に追い込まれたのも、以上のような文脈から見ればむしろ必然的な流れであったといえるだろう。
 槇村啓一郎は桃香の追及が聞こえなかったかのように、腰かけた岩場から見える対岸の笠ヶ岳を長いあいだ、眺めていた。立ち上がり、大きく伸びをする。「本音はもう言いました。自分は運が悪かったのだと」
 彼女の失望したような表情に気づき、彼は補足の必要性を感じた。「すべてひっくるめて運が悪かったということです。民主主義国家の皮をかぶったファシストだまりに生まれ落ちてきてしまった事実そのものが」

 正午すぎ、二人は青息吐息で南岳小屋に到着した。
 テラスでのんびりくつろぐ登山者、小屋の屋根に布団を干して回る山小屋のスタッフたち、決意を胸に大キレット方面へ南下するエキスパートの一団もそこかしこに見受けられる。二人は小屋の共用ベンチに腰を下ろし、深々と息を吸い込んだ。
「こんなにきついコースだってあたし知らなかった。もうくたくた」意味ありげな流し目が向けられる。「槇村さんも疲れたでしょ。今日はもうここでやめといたら?」
 槍ヶ岳は南岳からさらに北上し、中岳、大喰岳を越えた先にある。それほど長い行程ではないけれども、腕に覚えのある登山者でも南岳までで一日を終えるのが通例だ。
 彼は逡巡した。桃香は旅の連れ合いとしては最適なパートナーである。彼女の提案はひどく魅力的に思える。「いえ、どうしても今日中に槍の肩まで入っておきたいので」
 桃香は落胆を隠そうともせず、がっくりと肩を落とした。「そうですか」
「楽しかったです。機会があれば、またどこかでお会いしましょう」
「社交辞令じゃないなら、連絡先交換しようよ」
「喜んで」
 二人は端末を操作し合い、情報を交換した。最後に昼食を一緒に食べようと説き伏せられ、二人は山小屋のベンチで向かい合って座った。桃香は山小屋の提供しているカレーライスを、槇村は持参の食料を黙々と口へ運ぶ。会話は散発的に起こっては消えるばかりで展開せず、食事風景はどこか通夜に似たところがあった。
「仮入隊だって言ってたけど、もうどうするか決めたの」
「まだです。さてどうしますかね」
「いく必要なんかないよ。いま戦線はどのあたりだっけ、重慶?」
「そのはずです」
 日本軍は中国による沖縄への電撃的侵攻作戦の報復戦として、NATOの多国籍軍とともに中国政府いうところの〈国家主権外勢力〉の討伐に参加している。それがなにを意味するにせよ、少なくとも上海上陸作戦ではいっさいの抵抗を受けず、多国籍部隊の前途は明るいように見えた。中国政府の主張通り、沖縄を血の海に変えた敵軍は中国の正規軍ではなく、時代遅れの中華思想を地でいく過激派狂信集団が起こしたテロであるというたわごとにも一片の真実があるように思われた。
 本格的な上陸作戦が実行されるまでは。
「専攻してるのは化学で合ってたかな。高分子材料だったよね?」
「よく覚えてますね、会話にちょこっと出てきただけだったのに」
「あたし人の話を忘れないのが自慢なんです」桃香は身を乗り出した。「復学してその分野に進みたいって思わないの?」
「もちろん」
「じゃ、決まりだね」
 会話が途切れた。槇村はカップラーメンの汁を飲み干し、容器を持参のごみ袋に入れる。
「そろそろいかなければ」
 桃香はじっと槇村を見つめている。彼はばつの悪い思いを抱きながら、軍隊仕込みの効率的なパッキングをこなし、軽々とザックを背負ってみせた。入隊したてのころはその重さだけで右へ左へふらふらしていた青年も、いまでは筋骨たくましい屈強な男に変貌している。軍隊とはまったく驚倒すべき組織である。柳のように痩せ細っていた槇村を徹底的に叩き上げ、射出成型機から飛び出してきたかのような兵士に作り替えてしまったのだから。
「気をつけてね。それと山を降りたら連絡ください」
 青年は返事の代わりに人差し指と親指で環を作ってみせた。言葉を発した瞬間足の裏に根が張り、そのまま一歩も動けなくなりそうな気がしたのだ。
 彼は一路、槍ヶ岳を目指して歩き出した。後ろから彼女の声援が聞こえてくる。大きく手を振ってくれているのが気配でわかる。
 それでも槇村は一度も振り返らなかった。
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