第6話

文字数 5,737文字

仕込みをしながら、佐竹はアキヒトの盛岡アルバイト話を楽しそうに聞いていた。
車とガソリン代を出して貰いながら、土産を買っていなかったことを帰ってから気がついたが、佐竹は気にしていないようだった。
食べ物系の土産をうっかり買って帰るよりは良かったが、さりとて郷土人形というのも違う気がする。

「そうだねえ、お土産なら水道水が良いな」

佐竹は土地ごとの水道水の硬度MAPを自作している。 取水後変化があったかの更新も大事なのだ。
アキヒトは由嘉里にメールして水道水を送ってもらえないかと頼んだ。
由嘉里は「水道水?」「水道水ですか??」とかなり不思議に思ったようだが、佐竹のことを知らせると急に張り切って、市内数カ所の水道水を送ってきた。

後日多少の躊躇はあったが、佐竹に水の段ボールを渡すと満面の笑みで受け取った。
多分土地一番の美味いものよりいい笑顔をしているのではないかとアキヒトは思った。

水には硬度というものがある
マグネシウム、カルシウムのミネラル分の含有量から軟水から硬水まで分けられる。
一般的には山に近いところから取水されたものは硬度が高い。
水道水も硬度に違いが出ることを把握しているのが佐竹のすごさだと思った。
国土交通省全国水環境マップ実行委員会の過ちを指摘できるのも佐竹であった。


そばは高い山で食べると美味しいとされているので、アキヒトは高地にあるそば屋を回ったが、どこも美味しいという感想しか得られなかった。
そのことを佐竹に話すと、硬度が高い水はそばを溶かしてしまうので、むしろ煮沸して軟水化すると教えられ無駄足になった。
高地のそばは山地が近いことと水の温度が影響しているので、保存管理がしっかりして冷たい水でさらす店なら平地で調理しても変わらないだろうというのが佐竹の見立てであった。


「れいめんや」の由嘉里がアキヒトを訪ねて来ることになった。
駐車場接面道路の拡張工事でしばらく営業が出来ないので、遊びに行きたいとのことであった。
佐竹に水の教えを請うというのが理由ではあったが、由嘉里がアキヒトに会いたいという気持ちのほうが大半であった。
アキヒトは前の彼女にまだ未練があるのでそのことには気がついていない。

由嘉里は滞在中 華岳で無償の手伝いをするかわりに、勉強するという形で落ち着いた。
佐竹の仕込み作業中の座学は、アキヒトも勉強になっている。

由嘉里は短大時代に山岳ガイドのボランティアをしていたので、佐竹の山の地質と森が水質を決めるという話がすぐに飲み込めた。
アキヒトも理解はしているが、由嘉里の吸収のほうが早かった。

「ということは地質と、降水量、保水量からして日本海側でまだ違う水が見つかると言うことですね」
「そうだね でも僕は浄水処理と水道管の保全をしっかりやっている自治体に引っ越すのをお奨めするね」
「ですよねー」

佐竹は天然水信者と言うわけでは無く、由嘉里もウォータービジネスで一山当てようという狙いでもないことにアキヒトは安心した。
卒業後のアキヒトには、友人からベンチャー企業就職の勧誘がかなり来ていた。
ほとんどが自治体支援金ありきのスタートアップなので、二の足を踏んでいた。
親の資金力に頼らないベンチャー支援制度は頼もしいが、短期に結果を出す必要があるので無理も出てしまう。
起業するか、起業に乗るかは悩みの種とも言える。

由嘉里の滞在最終日は、アキヒトと由嘉里の二人で出かけることになった。
佐竹の知人が営む山のそば店で、水そば会という集まりが行われるので行ってみないかと促されたのだ。
車は、商用バンではかわいそうだと言うことで佐竹のSUVを借りることになった。
やたらと空のペットボトルが積まれているのが佐竹の車らしい。

晴天にも恵まれてドライブ日和である。

「後ろからベコベコ音がしますね」
「ペットボトルの空ボトル詰めすぎだって」

気圧差で標高が高くなるほどペットボトルから空気の膨張音が聞こえる。

「アキヒトさんの彼女さんってどういう人なんですか?」

直球で聴いてきたので動揺でハンドルが揺れた。

「いや、うんまあ ねえ」

事実上振られただけで別れたとも言えない。
彼女がいない と言いたくない謎のプライドもある。

「由嘉里さんの彼氏?パートナー?はどんなひと?」

質問に質問で返すのは良くないが、これは返答拒否なのだとアキヒトは自分に言い聞かせる。

「うーん、いやねえ まあ」

由嘉里のほうは彼氏がいないごまかしである。
言い寄られてはいるが、お店を継いでくれそうな相手は皆無である。

車が片道通行の信号待ちで止まった。
3分ほどは動かない。
アキヒトがルームミラーから後続車を見ると、元彼女がそこにいた。

「うわぁっ!」
「どうしました?」
「いや、ハチが見えたけど勘違いみたいだったね」

アキヒトは動揺を隠せない。後続車からもルームミラーから見ればこちらが分かるかもしれない。
さりげなくルームミラーから見えないところに移動する。

よくよく見ると外車で彼女は助手席では無く運転席にいる。助手席の男は横柄にタバコを吸っている。
アキヒトは似ているだけの人違いであってくれと思いつつ、仕草から間違いないと確信してしまう。

連絡しなくなって半年ほど経過している。
彼女を責めることは無いが、見つかればきっと言い訳をしてしまうだろう。

車は動き出したが、山道に信号は少ない。それから30分間後続車両は変わらなかったのでアキヒトは極度の緊張を強いられた。
元彼女の運転にぎこちなさは無い。カーブが多くても一定距離をキープできているので山道慣れしているアキヒトと同じぐらいに運転は出来ている。
アキヒトと付き合っていた頃から車が好きだったのだろう。
悲しいような、少し嬉しいような複雑な気分だった。



水そば会は1970年から始まっている。
最初は、そば打ちを始めた素人の集まった試食会だったが研鑽の結果、極度の上達に達してしまい脱サラして自分で店を開く人間が続出、いまでは腕が落ちていないか確かめ合う名店の店主会となっている。

佐竹の紹介とあって、アキヒトも由嘉里も初顔だが歓迎された。
老齢ばかりだが若い顔も何人かいる
隣にいた坊主頭の男がこちらを見て会釈した。

揃ったところでアキヒトは挨拶をした。

「野間アキヒトです 佐竹さんのところで修行というか働かせて貰っています」
「及川由嘉里です 佐竹さんのところで勉強させて貰っています
 なんかすごい集まりのような気がするんですが 自分ここにいていいのかなぁって」

上座の男が声をかけた

「佐竹さんの紹介とあっちゃあ、よほど有望だろう、遠慮無く遠慮無く」

全国の水質を知る男 佐竹の信頼はここでも絶大であった。
坊主頭の男が二人に声をかけた

「慈閑院(じかんいん)の武藤義和(よしかず)と言います ここではギワって呼ばれています」
「どうも」
「いまのが、水そば会の会長で矢田さん、そば打ちのレジェンドと呼ばれている人です」

改めて周りを見ると、そば会と言うより剣豪の集まりのような顔ぶれである。

「武藤さん、僕たちはここにいて良いんでしょうか」

となりで由嘉里がこくこくと頷く

「大丈夫ですよ ここでしくじっても水そば会から嫌われるだけでそば業界に携わらなければ何も問題はありません」
「ラーメンは大丈夫ですか……」
「盛岡の冷麺は大丈夫でしょうか……」

「そういうのいいんだよ!」アキヒトは面接のことを思い出して青くなる。
由嘉里はもうぷるぷると震えていた。

隣の男がアキヒト達に声をかけた

「こちらのギワ和尚だってすごいんだよ 若いのに慈閑院宿坊の料理長なんだから」
「いやいや、厳しく怒鳴られてばかりですよ
 仏様のお声はいつも手厳しい」

武藤は穏やかに合掌する
緊張のゲージがあるなら、今、上限まで振り切っているだろうとアキヒトは思った。


会のそばは別部屋で打ち始めるものもいれば、持ち込みの者もいる。
鍋と水はそれぞれが持ち寄っていて、切るだけの職人を連れて来ている店主もいた。

「ではわたしから」

末席の男が促すと麺が数本だけ乗せられたざるが供された。
水そば会にはめんつゆが無い 文字通り水で食す。

アキヒトと由嘉里も食べてみる
緊張で味がしない。
 
「味がしない」
「私もです いや少しだけ?」

「では佐竹さんのところから来た 野間君から感想を聞かせて貰おうか」

アキヒトは気がついていたが、これはトップレベルの講評会である。
下手なことを言うと佐竹にも迷惑がかかる。
何番目かなら、前の評者に近いことを言えばごまかせたがトップバッターは逃げられないここは分かった風に言うより正直に言った方が好感が持たれる。
就活の知恵を活かして賭けに出た。

「緊張しているのか 味がしませんでした」

顔ぶれが落胆に変わっていくのが明確に分かった。
アキヒトは賭けに負けたことを理解した。
負けに慣れすぎた結果パニックにならないのが成長であった。

「もう、みなさん人が悪い 井本軒さんの更科の感想を求めては駄目ですよ」

武藤が声を出した。
同時にどっと笑いが出た

「すまないすまない、 最初の更科に意見を求めるのは無理だったな」
「井本軒さんですからなぁ」

「どういうことなんでしょうか」

アキヒトは武藤に助けを求めた。

「更科は分かりますよね」
「そばの殻を除くか否かですね」
「井本軒さんは身だけの更科粉に少しだけつなぎに小麦を使うんです、これが毎回産地が変わるのです まあ最初に味覚が衰えていないかのテストですね」

アキヒトはそばの味すらも感じなかったが、店主達は小麦の味が分からないと思っていた。結果論で言えばアキヒトの選択は間違っていなかったのだ。

「私は小麦は分かりました 産地は北海道 そばは全く分かりません!」
「それはすごい、僕も小麦がどこかは分かりません」

由嘉里の読み通り北海道産の小麦であった。他の店主も分からない人間が多かった。

緊張が解けてからは、そばの風味が分かるようになってきた。
産地当てからの答え合わせが勉強になった、店主それぞれが質問をして配合まで答える。
店主に付いている若手が熱心にメモをしている。
互いに情報交換はするが、同じものを出さない気概がこの水そば会なのだろうとアキヒトは感心した。

「ううぅ」

店主の一人が倒れた「長峰さん、長峰さん」と周りが声をかける。
長峰は泡を吹いている
それを見た由嘉里の目の色が変わり立ち上がり駆けつけた。

気道を素早く確保する

「アナフィラキーショックだと思われます 過去に症状は?」

おつきの若手は過去に例が無いと答えた。

「エピペンはありますか 救急車を呼びましょう」
「それは、もう呼んである」

アキヒトはカーナビの住所と店名を覚えていたので、由嘉里が駆けつけた同時に119番通報をしていた。
ラーメン屋でも時々起こるので、迅速な対応が必要なのが分かっている。
店員がエピペンを持って現れた。
エピペンとはアナフィラキーショックを和らげる注射剤である アドレナリン注射で症状を緩和させる。
医療従事者で無くても打つことが出来るが度胸がいる。
店員は注射したことがないようで躊躇している。

「私が打ちます!」

由嘉里はすばやく長峰の膝に注射した。
倒れてから3分と経っていなかった。

救急車が到着したのは10分後である。
アキヒトは時間を計っていて、山あいにある店は救急車消防車の到着時間も知っておく必要があると思った。
10分後に治療開始されたのと、すぐに応急処理が出来たことの差は大きい。

「山岳ガイドやってると、山でアナフィラキーショックがあるので講習を受けるんです
 お弁当交換したり、初めての食材を口にしたり、蜂に襲われることもありますから」

由嘉里は、運転中に蜂を怖がっていたアキヒトを山の怖さを分かっている人だと尊敬していたが、アキヒトはそれを知るよしも無い。

歓迎されていない訳では無かったが、由嘉里は店主達にさらにモテモテになった。
由嘉里もまんざらでは無さそうだ。
武藤がアキヒトに声をかけてきた。

「野間さんも対応早くて良かったですよ」
「アレルギー怖いですね 成人してからも出るものなんですね」
「水そば会も今回で最後かなぁ」
「残念です」
「アレルギー講習受講済みが条件なら続けられるんじゃ無いかな 進言しておきます」
「続けば良いんですけど」
「アレルギーは恐ろしいですね
 うちも精進料理だから安心だと思われてるみたいですが、かなり気を使ってますよ」
「精進料理って肉魚は使わないんですよね」
「小麦は洋風アレンジで使いますから」
「洋風? 洋風?」
「仏の心を持って、殺生無く美味しくいただければ何やっても良いんです」
「そういうものですか」
「海外からも来られる方が多いんですよ 最近はムスリムの方も来ます ノーポーク ノーアルコールでお出しします」
「え? いいんですか?仏教寺院に?
「宗派によっては、海外に出たときはその土地の神様に挨拶に行くということで大丈夫らしいですよ 僕(しもべ)扱いみたいですが」

武藤は一瞬遠い目をした。
アキヒトがアルバイトしていた時も、ムスリム観光客がやってきて何も食べられないと帰ったことがあり、鶏を使った白湯なんちゃって豚骨を館店長が考案したが、仕込みが面倒くさいという理由で早々と止めてしまった。

長峰の無事が報告されたことで水そば会はお開きとなった。
最悪の場合、そのまま葬式の段取りも覚悟して残っていたのだ。

帰りの車で由嘉里はにこにこ顔だった。
「いやー、褒められました 人生で一番褒められました」
「早かったね」
「アナフィラキーショックと確信が持てたなら躊躇無く です」
「僕も講習 受けておこう」

車は夜道を走り続ける
時折ある街灯に照らされた由嘉里の顔は暗くなっていた。

「最後に良い思いで出来ました」
「……最後に? お店もたまに休ませて貰えば」
「来週から 祖父母の介護になるんで
 正確には曾祖母の介護をしている祖父母の面倒見るんでダブルケアですね おじいちゃんも免許返上したので、運転できるのが私ぐらいで遠出は難しくなります」

介護施設に入れれば良いと言えないのは、アキヒトにも思い当たるところがあったからだ。時々道に寝そべる鹿を避けてアキヒト達は町に戻った。
テールランプを見つめる鹿の目は赤かった。
野生動物とは違う凄惨さが人間界にもあった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み