微かに沈む

文字数 1,427文字

 岸壁に私は佇んでいる。潮風がきつい。向こう岸に見える工場から緩やかに鉄の匂いが流れてきた。

「随分、長いことここにいるね」

 釣り糸を垂らした彼が私を見ずに言う。彼は船を係留させるためにコンクリートから突き出たブロックに腰をかけて、沈んだ針の先を見つめている。彼の顔は見えない。

「そうかしら」

 そういえば、どのくらいここにいるのか私にも記憶にない。ただ、気がついたらここにいて、そして彼がいたような気がしていた。

「ああ」

 彼が、ちらりと横を見やる。
 そこには、きれいに並べられた赤いハイヒールが海に向かって揃えてあった。

「残念に」

 彼は呟く。
 私に言っているのではなく、この靴の持ち主に言っているようだった。

「底知れない海は恐怖の象徴でもあるように、また回帰の象徴でもある」

 借りてきた言葉をなぞるように、彼が抑揚なくしゃべる。

「生物は海から生まれたらしい。だから、人は海に親近感を抱き、あわよくば海に還ろうとする」

 私に説明しているのではない、ということはわかっていた。もういなくなってしまった赤い靴の彼女に話しているのだ。

「そう、彼女みたいに」

 風が吹いて、私のスカートを揺らす。
不思議なことに冷たさは感じなかった。

「でもそんなのは空虚な思い込みさ。人は海になんか還ることはない。人は土に還り、空に還る。それでも海には還らない」

 私は、一歩前に進んで、海を見下ろす。天気は良いはずなのに、暗く濁った海は底を見せることなく、私を覗き返していた。思わず怖気ついて肩を震わせる。

「彼女は?」

「もう海にはいない」

 本当に残念そうに、彼は静かに首を振る。

「彼女を知っていたの?」

「ある意味では」

「ある意味?」

「僕はずっとここで釣りをしているんだ。もうどのくらい経ったのかはわからないけれど、それでも、ずっと釣りをしていることは知っている」

 私は彼の脇に置いてあった青いバケツを覗き見る。その中には魚は一匹も入っていなかった。入っているものといえば、革靴、財布、スカーフ、帽子、ぬいぐるみといった、海に投棄されたと思わしきものばかりだった。

「釣れるのはガラクタばかりさ。魚なんて一匹も釣れない。生きているものは、まだ釣れていない。どうやら日が悪いらしい。それとも僕が悪いのかな」

 自嘲気味に彼が笑う。

「僕はみんなにそんなことは無意味だから止めておけっていうんだけど、どうしてかみんな言うことを聞いてくれないんだ。海に還れないことは、先輩であることの僕が一番知っているのに」

 彼は酷く落ち込んだ声で、彼らの全責任を背負っているかのように嘆く。

「だから僕はここで釣りをしながら、注意をしている。いつか聞いてくれる人が現れてくれるまで。でも、また失敗だったよ」

「彼女、どこへ行ってしまったの?」

 私がぽつりと零すと、彼が驚いた顔で私を見上げた。
その顔は、どこか懐かしいような、ずっと昔から知り合いだったような、そんな顔だった。

「僕と話すくらいだから知っているかと思っていた」

「どういうこと?」

 彼は言うべきかどうか思案しているみたいだった。
ちゃぷんと、何かが針をつついた音がする。

「君はここにいるよ、そう、ずっと前から」

「え?」

 足先がひやりとした。

「だから言っただろう。人は海には還れないんだ。僕も君もね」
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