猪田荘ブルース

文字数 1,377文字

 コンビニの袋を持ってぶらぶらと階段を上がる。袋がリズミカルに俺の体に合わせて踊る。腐っている階段はミシミシと不穏な音がした。金属のくせに軟弱な響きだ。もっと気合を入れたらどうだ。錆ついた手すりがぐらぐらと揺れる。まったく、手すりの体をなしていないじゃないか。
 ここは築何十年、木造二階建ての猪田荘という。大家の名前を取った古いアパートにありがちなネーミングかと思いきや、大家が小学校のとき片思いだった女の子の名前だそうだ。しかも音信不通らしい。
 どうかしてる。
 風呂なし、キッチン、一間、トイレ個別、と、今時こんなアパートに住むような人間は、お金に困っているか、この環境を気にしない変態かのどちらかだが、ここは残念ながらその両方が揃っている。例えば、道路ばかりに妙な絵を勝手に描く画家、ゲリラ的に路上尺八演奏をする音楽家、あとは今目の前の廊下を這っているこいつとかだ。

「何してんの?」

 俺が見下ろす。見下してもいる。
 もじゃもじゃの髪の毛がインパクト大だ。能にのめり込みすぎて般若面を収集し続けている奇怪な一階の男の話では、もじゃもじゃのこいつは近くの芸大生らしいが、少なくとも『近くの芸大生』であるところの俺が見たことがないのだから、それは怪しい。

「ドミノ、知らない?」

 髪に似合わずつぶらな瞳で即答された。
 こいつはドミノ倒しのことを言いたいのだろう。だが、お前が持っているのはコンニャクだ。立つわけないだろ、コンニャクは。それにドミノはれっきとしたゲームの一種で、倒すのがメインのおもちゃじゃないぞ、と知りもしないゲームのうんちくを垂れたくなるが、俺が面倒なので我慢する。

「一緒にやる?」

 廊下に並ぶのは、尺八、画板、般若の面。

「やらねぇよ」

「面白いのになぁ」

 そりゃお前はそうだろうな。
 どうかしてる。
 残念そうに肩を落とす毛の塊を通りすぎて、俺は階段に近い自分の部屋に入り、中央に座ると、コンビニの袋から弁当を取り出した。
 電子レンジはない。コンビニで温めてもらった弁当は、とっくのとうに冷めてしまっている。いよいよ持って理不尽な怒りがこみ上げてくる。
 廊下をガタガタと音が駆け抜ける。
 あいつ、本当に始めやがった。
 廊下の端から倒れる音が大きくなっていく。正面に玄関のドアを臨む俺には、何かが近づいてくるのがわかった。
 おいおい、何だよ途中の『めにゃあ』って生々しい動物めいた音は。存外俺は知らんぞ倒れてそんな音がする道具。
 まあいいさ、あいつに構うだけ時間の無駄だ、と箸を二つに割った瞬間、ガチャンと何かが割れる音がした。真後ろで。同時に降ってきたのは俺の部屋の窓ガラスで、それを打ち砕いたのは、どういうカラクリかはわからないが、とりあえずコンニャクだった。

「よっしゃ、ゴール!」

 もじゃもじゃの叫び声が聞こえた。遠くかもしれないし、耳元かもしれない。
ガッツポーズも見えた、俺の脳に。

「ゴールじゃねぇよ、バカ」

 そして俺はガラスが混じった特製焼肉弁当から丁寧にガラスを箸で取り除いた。器用さだけなら専攻一と呼ばれ恐れられる俺だからこそ平常心でできる芸当である。
 あいつの髪の毛、どうにかしてサラダにならないかな。
 まったく、どいつもこいつもどうかしてる。
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