第1話

文字数 1,496文字

「ねえ、プラダのバッグ。買ってくれない?」
 明子のおねだりが始まった。それは毎度の事であり、別に珍しい事ではない。中流企業のしがないサラリーマンに過ぎない上杉にとって、かなりの痛手ではあるが、彼女を繋ぎ留めるには他に方法が無かった。背も低く、ルックスもイマイチ。学歴もない上杉にとっては唯一の手段と言っていい。
 交際してから一年になるが、これまで明子のおねだりを断ったことなど一度もなかった。

「シャネルの香水が欲しいの」
「雑誌に載っていたイタリアンのお店が気になるんだけど」
「女優の長浜あさ美がドラマで履いているブーツ。素敵だと思わない?」
 
 給料だけでは賄いきれず、サラ金に手を出してしまう。借金で首が回らなくなり、親に泣きついたことも一度や二度では無かった。
 だが、明子の喜ぶ顔を見る度に、そんな事はどうでもよくなるのだから始末が悪い。指を絡め、上目遣いに攻められると、どうしても首を横に振ることができなかった。
 このままではいずれ破産してしまうことは十分すぎるほど理解していたが、彼女を失う恐怖に比べれば――という思いが常に上回っていた。

 明子のおねだりは物だけではない。時には上杉の嫌がる欲求を突き付けてくることもあった。
「バンジージャンプやって」
 高所恐怖症である上杉にとって、ある意味、金銭以上に困難だった。それでも勇気を振り絞り、一時間以上ゴネたあげくにようやく飛んだ。

「今度はスカイダイビングよ」
 断る事など出来ないのを知っていてワザと要求してくる。しかし、それでも何故か従ってしまう上杉はきっとマゾなのだろう。

 日々エスカレートする明子の欲求。やがておねだりの範疇を越えるようになっていった。

「ねえ、名古屋城ってあるじゃない?」
「ああ、行った事は無いけど、結構すごいらしいよ。今度あそこでデートする?」
「登ってみせて」
 もはや犯罪である。
 それでも登った上杉。警察からこっぴどく叱られたのは言うまでもない。

「遊園地って楽しいけど、行列に並ぶのって、私、無理」
 さすがにUSJやディズニーランドは無理だったが、代わりに小さな遊園地を二時間程貸し切った。

 ある日のこと。うつむきながらつぶやいた明子の発言は上杉を驚愕させた。
「私、ストーカーがいるみたいなの」
 愛する明子をつけ狙うとは。
 絶対に許せないとばかりに、一週間張り込みをしてストーカーを見つけると、現場を押さえて警察に突き出した。その際、わき腹を刺され、ひと月ほど入院することに。明子は一度しかお見舞いに来てくれず、その一回すらも、知らない男物の香水らしき匂いを感じた。
 だが、それくらいは大した事じゃ無い。彼女はツンデレなのだ。焼きもちを焼かせるために、ワザとそうしたに違いない。

「ねえ、弟の友達の親戚の隣人の引っ越しを手伝ってあげて」
 もはや便利屋。退院間もない上杉にとって、かなりの難問だった。縁もゆかりもない全くの他人のためにここまでしなければならないのかと思うが、理不尽がゆえに逆に闘志が燃え上がる。

 そんなこんなで明子との交際は続き、気が付けば三年の月日が経過していた。
そろそろプロポーズを考えていた上杉。初めて挑んだトライアスロンに優勝する(もちろん明子からのおねだりで)と、その勢いで彼女を呼び出す(ちなみに自分から連絡を取ったのはその日が初めてだった)。上杉は先月、大食い大会で全国優勝を果たした(これも明子のわがまま)賞金で購入したダイヤモンドの指輪を手に、明子の前でひざまずいた。
「僕と結婚してください?」
 だが、そこは明子、ひと筋縄ではいかなかい。
「条件があるわ」彼女の口角がわずかに上がった。

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