第6話 それぞれの想い(前編)

文字数 3,591文字

「… 周、何か変わったよね」
「前までそんなじゃなかったのに」
「どうやって変われたの?」
二人が出て行った後、萎れた花宛らに項垂れた海花里がぽつりぽつりとそう言った。
「周」と言うのが今の青子の呼び名だ。其れはもう覚えた。だが
青子は青子であって 「周」は青子ではない。
例え 周の姿であっても 男の姿であったとしても 青子は青子として夫への想いを胸に 神が与えたもうた試練に打ち勝たねばならない。
姿が変わっても決して此の想いは変わらない。其れを証明しなければ夫には会えない。
其れに
どんな姿になっていても 夫は必ず青子だと分かってくれる。
青子も同じだ。
夫がどんな姿になっていようとも 再び会えたなら 今度こそもう二度と離れない。
自身を奮い立たせてくれたもの 其れは 愛しい夫への想いに他ならない。
変わった、と言われればそうかも知れない。
以前の青子は
夏の夜だけに灯る蛍の明かりのように 夜が明ければ 長雨が明ければ
音も無く消えてしまう 自身の存在の儚さに涙を流し 会いたいと言う想いを抱きながらも心の何処かでは もう叶わないのだと諦めてしまっていた。
何故 あの時 消えてしまわなかったのだろう 何度もそう思った。

もう二度と夫と会うことが叶わぬのならば 消えてしまいたい

梅雨になれば また山の中で一人佇んでいる 此のあさましい自分は一体如何したら消えるのだろうか。
そんな事ばかり思うようになっていた。
今は違う。
今此の時の為に 青子の心は死なずにいたのだ。夫と会える日が必ず来るのだと今は信じられる。だから
「愛しい人に会いたい一心からで御座います」
「… 一心からだ」
海花里は思わず少年を二度見した。
愛しい人に?
小学生であっても いや、園児でさえ 昨今は彼氏だのカノジョだのと宣う。
其れは別に良い。(目の当たりにすれば少しは嫉むかも知れないが)だが 周が?
引き籠もりがちで人と目も合わせない様な此の少年が? 一体
いつの間に そんな愛しい人 ―
いや、「愛しい人」って。やけに古めかしい言い方ではないか。小学生の口から出る言葉とは思えない。海花里の母はそう言った古典的な映画を良く観ていたが。ラブレターを下駄箱に突っ込む様な時代感だ。
「うん。えーと…要するに 好きなヒトが居るって事よね?」
「因みに、さ。誰だったりするの?」
アイドル歌手とか二次元のキャラクターか 其れとも 本当に密かに思いを寄せる少女が
「名に御座りますか?」
「名は 春
と言い掛けた時 海花里から放たれた砲撃に青子の声は吹き飛ばされた。
「あーーーーー!!良い!やっぱ良い!言わなくて良いから!」

― 春?
え?ちょっと待って待って?今 何て言おうとしたの?
春って聞こえたけど?春 …宮? 其れとも ― 
いやいや、ないないない。其れはないから。
ない よね、…
そんなの酷いよ
そんなのずるいよ周
春臣が好きな月風の顔をして 春臣の事 好きだって言うの?

まだ最後まで聞いてもいないのに 馬鹿みたいだ、そう分かっている。
そう分かっているのに心の動揺が鎮まらない。
春臣 ― そう言われたら。
幾ら想いを押し込めても 僅かに出来た隙間から往生際の悪い想いは顔を覗かせて 諦めなくても良いじゃ無いか、心の中で想っているだけなんだから別に良いじゃ無いか、と食い下がってくる。
自分の中で折り合いをつけられていないのに とてもじゃないが是れ以上続きを聞く気にはなれない。




遮るものの無い清々しい青空。白い太陽が燦々と照りつけ 細波の様な音を立てて青々とした木々が気持ちよさそうに風に揺れている。
眩い光に心も浮き足立つ 初夏の日曜日の午後。 
別世界への入り口が開かれて 光が落とす影も色濃く 鎮まった大気の中に重苦しい気を放つ幽鬼の棲まう屋敷から海花里が姿を現わした。
「…
「えーと … あの 海花里?
「どうかした?」
俄に辺りが薄暗くなってきた気さえして来る。春宮の陽気な笑顔も深い闇に吸い込まれてゆく。
「… ミヤこそ如何したの?」
海花里の言葉はじっとりと湿り気を含んだ大気の様な不愉快さが籠っていた。
「ああ、そっか。周?」
「はい…」
照りつける太陽の熱を凌ぐ程の寒気を感じ 答えるのも憚られた。
「ミヤも周に会いに来たんだ… そっか」
「残念だけど出掛けたわよ」
「… 今朝、春臣が迎えに来て一緒にどっか行ったみたいだけど?」
どす黒い気を纏った海花里はふっと息を吐き出す様に自嘲的に笑った。
海花里の言葉の恐ろしさに春宮の背筋は凍り付いた。
― やられた
落胆と怒りで言葉も無い。脳内に居る春臣には散々に雷を落としたが。
昨夜も遅く 二階の部屋で本を読んでいた春宮は「今から会えるか?」と言う春臣からのLINEを受け取った。返信を打つ間も無く「下」と言う文字が出た。窓から覗くと部屋の真下で春臣が手を振っているのが見えた。
珍しい事では無かった。
春臣は肉食獣の様に夜の方が活動的で 時間を持て余すと春宮を訪ねて来る事は良くあった。
下りて行くと春臣は映画のチケットを二枚手にして立っていた。
明日の日曜日に女友達と行く予定だったが 土壇場で喧嘩になり映画はキャンセルになった。自分には興味の無い映画だから明日周を連れて行って来たらどうか、と言う。
確かに小学生でも映画の内容はある程度理解出来るだろう。唯 恋愛映画なんか観たがるかどうか。春宮が難しい顔になったのを見て取ると 春臣は周だって毎日勉強ばっか嫌だろ、たまには遊びに連れて行ってやれよ、と痛いところを突いてきた。
確かに勉強を教えると言った手前 足繁く通っていたが 迷惑、と言われればそうだろう。
周は 好奇心旺盛で全く勉強にならない日とショーウィンドウに飾られた人形の様に座っているだけで全く勉強が頭に入っていない日の二通りだった。
外に出るのは良いかも知れないが 不安もある。やたら好奇心旺盛な時の周であったら 自分に対処出来るかどうか ― 
そう言った事情を知らない春臣は難色を示す春宮に業を煮やすと真面目かよ、一日位気晴らしに遊んで来いって、とチケットで春宮の額をぺしぺしと叩くと押し付けていったのだ。
其れが
一体どう言うつもりで ―
「…良かったらあがってお茶でも飲んでく?」
力無く落ちてゆく蚊の羽音のような声で海花里が言う。
春臣が来たと思ったら周が目当てで 更には連れ出して行ったのだ。当然ショックを受けただろう。
「そ、そうだ!
「映画のチケットあるんだけど、行かないか?」
直球過ぎるとは思ったがこう言う事には本当に疎いのだから仕方無い。
「映画…?」
魂が抜けた様な表情のない顔で奥に戻りかけた海花里が振り返った。
「そう、此れ… なんだけど」
春宮が手にしたチケットを見せると 海花里の顔に表情が戻って来た。
「…それ、あたしが観たいって言ってたヤツじゃん」
「ミヤ、覚えてくれてたんだ?」
流石に此の状況で いや、全然、等と馬鹿正直に言えはしない。
「え、いや…あの、実は此れ
噓を吐くのが苦手な春宮は返答に窮した。
「ありがとう、ミヤ。ちょっと着替えてくるから待ってて!」
明るさを取り戻した声を残して 海花里の姿は瞬く間に奥に消え去った。
春臣の策にまんまと嵌まった上に噓まで吐いてしまい すっかり意気消沈した春宮を一人残して。




春臣と言う男は 真 馥郁たる花の如しだ、と青子は思った。
其の甘い香に 薄衣を着た女達が引き寄せられて来る。花が歩くので追い縋る者もいれば次の花へと離れてゆく者もいる。春臣の回りは煌びやかな羽根で絶えず耀いている。
「悪いけど 今日は先約があるから」
「行こっか 周」
不満の声を上げる女達に向かって春臣は片手を振り笑顔を向けるのだが ― 其の笑顔は心からのものではない。どうしてだろう。其の笑顔が 冷たいものに見えるのは。
何処に行っても女の呪縛から逃れられない。
貢ぎ物も増えて来ている。夫もこんな感じだったのだろうか、青子は春臣の中に夫の姿を見出していた。
青子の視線に気付いた春臣は
「こんだけあったら買わなくて済むな」
と嬉しそうに笑うのだが。春臣は毒々しい色をした食べ物を手にして無邪気に喜んでいる。青子には考えられない事だった。
真逆 食べる気だろうか。
あの女達は人では無いかも知れない。怪しが毒を食わせようと化けた姿ではないのか ―
不意に春臣が屈んで青子と視線を合わせる。其の奥に在る心を覗くように。
其の眼は ―
「俺の取り柄は顔だけだからね
「最大限に利用するよ」
「何か文句ある?」
両手で青子の頬を引っ張ると不敵に笑んだ。女達の貢ぎ物を受け取った事を非難しているのでは無い。多分に誤解された様だったが
其の言葉も其の笑顔も 夫に似ている。夫も良くそんな顔をしていた。

何が貴方様をそんなに悲しませるので御座いますか?
如何して そんなに寂しい顔をなさるので御座いますか?

春廻様
青子は貴方様の本当の心を知ってはいなかったので御座いますか?


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み