第3話 青子の想い

文字数 5,243文字

「もう遅いし。ランドセルはまた明日探そうか、周」
何と優しい顔で笑うのだろう。
「…其程までに大事な物なので御座いますか?」
「え?!
「いや、だって 学校どーすんの?」
一番目の男は青子の返答に吃驚し 苦笑しながら困った表情を見せた。
「行かなくていーじゃん。真面目か。春宮(はるみや)」
二番目の男はあっさりとして冷淡である。
「フルで呼ぶな!」
名を言われたが早いか直ぐ様返す。頬が赤い。
「春臣(はるおみ)」
返しの言葉を機に二人は互いに睨み合った。毎度の事で 二人はどちらがより古風な名で恥ずかしいかを争っているのだった。
「周が行かないってんなら其れで良いだろ。こんなぼろぼろになってまで行く必要あんのかよ?」
春臣は怒りも露わに青子を見たが 其の表情も其の言葉も 青子ではなく青子を傷つけた者に対して憤っているのだと分かった。
顔は違っていてもそんな優しさは春廻に良く似ている。
「いや、そうだけど…
そう言われた春宮は益々困った表情になる。暫し考え込むと
「うん、そうだよな。周 其れなら俺が勉強を教えるよ」
名案を得て晴れやかな笑顔になった。
「はい出ましたー。ミヤの勉強好き宣言ー」
春臣が茶化す。
「いいだろ別に。お前が勉強嫌い過ぎなんだよ」
また赤くなっている。
二人の男がやいのやいのとやり合っているが 先程までの威勢は何処へやら、怪しの女は何も言わない。見ると女は口を小さく開けてぽーっと二人の男を見ている。
其れは 恋い焦がれる女の目であった。
青子が見ている事に気が付くと女ははっと我に返り甘い夢から飛び出して来た。
「はいはい!二人とも其処まで!」
「ミヤは今日バイトでしょ?」
「あー!そうだった。ヤバイ 遅刻だ!」
「周。明日家に寄るから」
腕時計に目を遣ると慌てふためいて駆け出していった。見る間に其の背中が小さくなっていく。
「オミは…デート、でしょ」
どことなく厭味を含んだ言い方と冷めた眼を春臣にくれる。
「あれ?良く知ってんね?」
「知らない奴なんて此の世界にいないんじゃない?一組の槙葉若菜。オミにデートに誘われちゃったーって拡散してたけど?」
海花里はしなを作って若葉の口と素振りを真似て嘲った。
「女って怖ーわー」
春臣はそう言って笑うと 
「じゃーな」
片手を上げて灰色の道を歩き去ってゆく。
其れは本気の笑いには見えなかった。姿が見えなくなっても海花里は其の場に佇んだ儘動かなかった。心の目は其の後ろ姿を何時までも追い続けている。海花里の悲しみが伝わって来る様だ。青子の胸もまた締め付けられた。

出てゆく夫に心にある本当の言葉を言えなかった。喉元まで出掛かっていたのに
噓の笑顔で見送った。悔やんでも悔やみきれない。
どれだけ自分を責めても もう時は戻らない ― 

青子が感傷に浸っていると 切ない想いから吹っ切れた女がついと向き直った。
「周、本当にアイツらにやられたの?」
はて。其れが あの時何が起ったのか良く分からない。気が付いたら倒れていた。
「其の怪我ってさ。殴られたとか?」
はて。其れも良く分からない。そんな記憶は無いが 何時から傷を負っていたものか覚えていない。
首を捻っていると
「…まあ、無事で良かったけど」
ふいと顔を背けると女はすたすたと歩き出した。青子が其の背中を見送っていると
「何ぼけっとしてんの!帰るわよ!」
振り向いた顔は此の女らしい顔付に戻っていた。
兎に角今は此の女についていくしか道はないらしい。青子は大人しく従った。
暗い灰色の土は固く草木も生えそうにない。灰色の大きな木はつるりとして枝も葉もなく黒い蔓が彼方此方へと伸びている。
通りにある家々は木ではなく土を固めたもので造られている様で 所々に水を固めたかの様に透明なもの ― 話に聞く玻璃と言うものだろうか、其れとも鏡と言うものだろうか? ― をとりつけている。家は 此れが家ならば ― 色も様々であった。奇妙な造りで庭には奇怪な物が置かれている。青子が見知っているのは花や木だけであった。中からは眩い光が漏れ出でて 道に在る燈台は見上げるほど高い所から耀く白光を放っている。太陽が沈んでも地は明るく光に満ちている。
何と煌びやかなことか。此処は都であろうか。見た事も無い光景に青子の心は躍った。
何処の家も塀で囲われており 此れはきっと位の高い方々の住まう御屋敷に違いない、等と彼方此方に目を耀かせて余所見をしながら歩いていた青子は布に顔を突っ込んだ。
幟だ。何と書かれているのか。字は読めない。
ふと横に視線を移した青子は衝撃を受けて其の場に立ち竦んでしまった。
透明な板に童の姿が映っている。此の童は  あの時一人で山を登って行った ―
其の手が幟を掴んでいる。青子の手と同じ様に。其の眼は此方を見ている。青子の目と同じ様に。此の童は ― 
「ナルシストか!」
女の怒声が飛んで来る。
「何見とれてんの?あっきれたー。アンタ自分の女顔が嫌なんじゃなかったの?」
自分の ? 此の童が 私の ? ―  私は
「私は  男に御座いますか?」
茫然自失の口から漏れたのは独り言に近い言葉であったが 其れが女の怒髪天を衝いた。
「周!!シャキッとしろっ!お前はどう見たって男だろーが!」
― 何と。
神様は青子に男の体を与えられたのか。其れも幼い童の。
此れでは夫を探している、と言っても皆が信じて聞いてくれるであろうか?親を探している、と言うのならばまだ分かるであろうが。
まだ女が何やら叫いていたが青子の耳には全く入って来なかった。
目の前が真っ暗になって体中の血が冷たくなり 其の場にへなへなと頽れそうになった。
持てる気力の全てを奪われそうになった時 青子ははっと気が付いた。
若しや ―
神様は青子の心を試そうとなさっているのではなかろうか。春廻への想いがどれ程のものか見てやろう、と言うのではないか?どんな姿であっても 二人の想いは変わらぬのか、とそう言う事ではないのか?
其れならば しっかりしなければ。
― 此の地の何処かに夫は居るのでしょう? 神様 青子は必ずや見つけてみせます!
さては此の怪し 青子の行いを見張る役を仰せつかっているのやも知れない。
「なよなよすんな!男らしくしろ!」
其れならば
「あい … おうよ!」
男らしゅう 男らしゅうせねば ― 春廻様 青子にお力を
「よぉし!良い返事だ!」
青子の返答に 女は腕を組んで胸を反らせ破顔で賛辞をくれた。
「あ … おうよ!」 
褒められた青子もまた笑顔になる。
此の怪しは良い怪しなのだ。怖がったのが間違いであったのだ。

此れがあの周だろうか。小さな頃から女顔をからかわれては苛められ俯いてばかりいた周が。 まるで人が変わったかのようだ。勿論元気を出してくれれば其れは其れで良いのだが。何かがおかしい。特に話し方が ― 何と言うか 時代劇の様で 其れがまた冗談で言っているのでもなさそうなのだ。
真逆 蛙の姫君の伝承が本当だったとでも言うのだろうか。
「あ痛」
止め処ない疑問に心を奪われ ぼんやりと玄関の引き戸を開けた海花里はぱかんと良い音を立てて殴られた。
其程痛い訳では無かったが 頭をさすりながら眼前に居る人物を恨めしげに見る。
丸めた薄い雑誌を手に腕を組んで威風堂々立つのは黒縁眼鏡の似合う美女だが 張りのあるしなやかな肢体を黒いジャージに包み 艶のある黒髪を後ろに纏めて鉛筆を簪代わりに差すと言う勿体ない姿であった。
「こら。黙って入って来るとはどう言う了見だ」
「おばさん、ただいま」
「良し」
美女は次いでじろりと青子を見る。冷たい眼に射貫かれそうだ。
「た …! ただ いま ?」
そう言えば許してくれるのだろうか。
「入って良し」
二人は同時に安堵の息を吐き出した。
「おばさん今日は仕事は?」
「うん、暫く籠るつもりだ」
「晩ご飯は?」
「要らん」
言うが早いか美女は奥に姿を消した。
「ふー」
海花里はやれやれとばかりに長く息を吐き出す。
「ほら、先にシャワーだけでも浴びといで」
青子の背を押して歩かさせ 狭い一部屋へと押しやった。
しゃわーとは何か、と問う間も無くぴしゃりと引き戸を閉められる。困った。
横を見ると磨かれた白い石の水盤の向こうにあの童が映っている。
繊細な顔立ちで、髪は短く、黒目の大きな眸 ―



― 周
はて。何が巡りまするのか。
「周!」
はっきりとした声が頭の中に響くと青子の視界は鮮明になった。
青子の眼前に心配そうに見遣る顔がある。
春 ―
「…春宮様?」
確かそう言う名だった。
「え?!はい?え?
男は驚きふためいて
「そうだけど
「いや、つーか、様って
「やめて。何かのカフェっぽいし」
今度は苦笑いになる。
青子ははっとした。
そうであった。男らしゅうせねば。
「春宮殿」
「…いや、一緒だから。呼び捨てで良いよ」
とは言ったものの ― 頭の中は混乱している。
春宮が此処に来てからつい先程まで一言も発さず 顔も上げなかったのに。抑も
周は余り喋らない子供だった。声を聞いたのも数える程だ。其の中で春宮の名を呼んだ事は此れ迄に一度も無かった。其れが
「春宮様が何故此処に居りまする … 居るのだ?」
「!?
「え
海花里の言う通りだ。周の様子は何処かおかしい。山に登っていたらしいが 噂に聞く蛙の姫君の石を手にしたのだろうか。
いやいや そんな馬鹿な。
「えっと。あれ?覚えてない?勉強教えるって言っただろ。ほら昨日
ああ。そう言えば其の様な事を言っていた。言っていたが ― 昨日?
はて。思い出せない。
水盤の向こうの童を見た其の後 如何したのだろう。幾ら首を捻ってみても思い出せない。
一体何時から何故此処に座って ― ふと自分が手にしている物に目がいく。目は其の儘釘付けになった。細いつるりとした枝を右手に持っている。枝は明るい黄色で其の先に黒い棘が一つ突き出ている。
「…春宮様、此れは何に御座り  何なのだ?」
青子は春宮の目の高さに其れを持ち上げた。
「は?…えーと、シャーペン
しゃーぺん。青子は心の中で春宮の言葉を繰り返す。気付いてみればつるつるとした白い板の上に紙の束があり 紙にはたくさんの小さな字で何やら書かれている。此れが「べんきょう」と言う物だろうか。春宮は此の小さな字の一つ一つを青子に教えてくれようと言うのか。青子は食い入る様に見ていたが 枝で其の小さな字をなぞってみた。黒い線が走る。
「あれ」小さく悲鳴を上げ 驚いて一旦は其の手を止めたが好奇には勝てず手が動く。
紙の上に棘を突き立ててぐるぐると手を回すとぐるぐると黒い線が描かれた。
「 ― 
春宮は唐突に問題集に落書きを始めた周の奇行を唯呆然と見ていた。
最早如何したら良いのか分からない。
「春宮様、ご覧くださ 見ろ」
顔を耀かせて問題集に堂々絵を描いている。花の様だが太陽とも見える。ライオンかも知れない。
もう勉強どころでは無い。周は此れは何か此れは何かと其の辺にある物を持ち上げては春宮に聞く。其れはもう周は異世界から来たのだとしか思いようがない奇行であった。
「面白いなぁ春宮」
― 面白う御座いますなぁ 春廻様
「春宮は何でも知っておるのだな」
― 春廻様は何でも御存知に御座りますなぁ

青子
青子 お前がどの様な姿であろうとも 俺は ―

春廻様 青子も同じ思いに御座りますれば

目の前に居る男の顔立ちは何と春廻に似ていることか
けれども 違う
春廻はこんな表情をしない。春廻はこんな目で青子を見たりしない。
春廻は心の強い男であったから。
春廻に似た此の男はそうではない。違う。
其れなのに
此の男は 春廻に似せた顔で青子の前に現れて 心を動かそうとしている。
何と酷いことをするのか。

ああ 春廻様
何処におわしますのか
どうか一目なりと ―

笑んでいた周の、青子の目から大粒の涙が溢れ出しぼろぼろと零れ落ちた。
「ええ?!ちょっ…何で泣
急に泣き出した周に春宮は目に見えて狼狽えた。
無意識に慰めようとしたものか机に身を乗り出して其の手は周に伸ばされていた。
間が悪かった。
「ミヤ?!」
菓子を運んで来た海花里は目も飛び出さんばかりであった。
「え、違 …!
「何も為てない!何も為てない!」
咎める様に大声を上げられたので春宮は殊更動揺してしまった。今正に下されようとしている有罪判決の言葉を遮る様に両手を突き出して激しく横に振る。
「じゃあ何で周が泣いてんのよ?」
海花里は目を吊り上げて物凄い顔で睨む。
「何でって… 御免。全然分かんない」
正直な言葉であった。分からない、と言う言葉はもう周と言う少年の全てが分からない、と言う意味合いであった。
青子は鼻をすすり上げると声も高々に騒ぐ二人を見遣った。
何と賑やかな。
何と怪しの女の嬉しそうなことか。何と楽しそうなことか。
ああ そうか。そう言うことなのだ。
「怪し殿は春宮様がお好きなので御座いますなぁ」
青子の言葉で言ってしまったが 怪しは気にも留めなかった。
「好きじゃねーわ!」
瞬時になぎ倒されるかの如く凄まじい声の突風を叩き付けられ
― 怖い
青子と春宮は同じ思いを抱き 同じ様に真っ青になって言葉を失った。


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