「少年」単行本刊行の意義を考える

文字数 4,255文字

 長年、出版化を希望していた川端康成「少年」が単行本化されたのは私にとって喜ばしいことであった。なぜなら、昭和26年(1951)の目黒書店・人間選書IVからハードカバーにて刊行されたものがあるだけで、古本としては手に入り難く、経済的に購入を躊躇してしまった。数年前にその作品の存在を知った私は、図書館の閉架から全集の一つを借り出して期限付きで読まなければならなかったのだ。

 ゆっくりしておられないので、借り出した全集に掲載された「少年」を老眼のメガネを外してまさに、「舐めるように」読んだわけだ。この読書から私は幾つもの(私にとってはの)「発見」をして、その感想と論考をカクヨムというオンライン小説の投稿サイトに投稿した。
(参考:「川端康成と「少年」、清野少年の虚像と川端の実像について」)

 現在、BL(ボーイズラブ)と呼ばれるジャンルが盛んとなり、美しい少年・青年(さらに中年から老人の男性)達がお互いに絆を結び、愛し合うような作品が多数ある。この「少年」も川端の旧制中学時代の「清野少年」との交友が描かれ、その

『お前の指を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を愛着した。
 僕はお前を戀してゐた。お前も僕を戀してゐたと言ってよい。』

という文章が、BL愛好家の目に止まり、その内容への興奮がブログやSNSで広まり、今回の新潮社の刊行とあいなったと分析しているが間違っているだろうか?

 確かに私の目を最初に引いたのはこの愛情表現で、ノーベル賞受賞者がこういうものを書いた!という興味であったが、読むに連れてこの「少年」に描かれているのはそれだけではないことに気がついた。

 多分、好奇の目のみで読んでいると、巻末に収められた宇能鴻一郎氏の刊行ぎりぎりで書かれたと思われるエッセイに端的に表されている、
『「ほめれば神韻縹渺、けなせば「なんじゃこれは」と放り出しかねない』
で終わってしまうだろう。

 このような宇能氏のエッセイをなぜわざわざ「少年」一本の単行本化に付けたのか、私は首を傾げた。彼は『筆者(宇能氏)は自他ともに許す女好きだから、同性愛についてのめりこまずに客観的に論評できる自信がある』ともっともらしい詭弁を言っている。同性愛への侮蔑的発言とも受け取れる。この言をうがってみれば、推測であるが「少年」の巻末を飾るものを書いてくれと依頼された時に「場違いだがしょうがねえな」と腰をあげたのではないかと想像できる。

 依頼したのは編集者あるいは編集方針に従った人であろうが、こういう場違いの文章をわざわざ載せたという編集方針は、なにやらうちわで色々論争と忖度があったのではと疑わざるを得ないのである。

 宇能鴻一郎氏のエッセイで読み取れることは「この作品は同性愛やBLに興味のねえ奴向きじゃねえよ」と言っていることだ。余計なお世話である。
 「少年」を愛しながら読み終わって、余韻をもってエッセイに目を通した途端に否定される、まさに「川端的文章意味(コンテキスト)の暗転」を地で行った刊行といえよう。

 もとより氏が興味のない作品なので、この「少年」の半身である「伊豆の踊り子」の最後に、川端が踊り子に「いい人ね」と言われてほっとし、

『世間尋常の意味で自分がいい人に見えることは、言いようなく有難い』

と何故、書いたのも分かっていないということだ。「孤児根性で歪んだ」性格ゆえにこう思ったとは、この「伊豆の踊り子」だけ読んだ場合の一般の理解の限界であろうが、「少年」にはさらに詳細な理由があることが書き込まれているのだ。
 それは一瞬であったが、川端の虚無の淵からの生還であった。
 それでも宇能氏は「好悪にかかわらずもっと注目されるべき作品である」と作家らしい直感を述べられている。こう書くことは「好悪」の「悪」に氏の真意があることは明白だ。

 前述の目黒書店刊行版は「少年」「伊豆の踊り子」「十六歳の日記」と、詳しく「少年」を読んでいれば連作とも考えられる掌編を織り込んでいる。川端が「焼き捨てた」とする日記(じつは結構残っている)と関連するのは孤独になりつつある時を綴った「十六歳の日記」であろうし、「伊豆の踊り子」に通じるのは、読み解く人はあまりいないと思うが、川端の「奇怪(きっかい)な性癖」なのである。

 僭越にも大作家の宇能氏のエッセイを引用させて頂き色々書いてきたが、別に宇能氏の批判をしているつもりはない。この単行本の刊行の姿勢を論じるのに、彼のエッセイは本を購入した人は読めるので、利用させて頂いているだけなのである。

 宇能氏は「川端の描く愛の対象」には「においがしない」と女色作家らしく見極めておられる。これは川端の『何も愛せない、愛するふりをする』虚無的サイコな性格と、元来虚弱である肉体に所以している、と私は考えているが、三島由紀夫はこういう評価は一切していなかったと思う。否定的な嫌悪をハドリヌス帝などの意味のない逸話のオブラートで包んだエッセイが川端作品の巻尾を飾ったと知ったら、川端の「細部の精密な虚偽」を愛する三島は激怒するに違いない。彼が生きていたらこういうかたちの出版をゆるさなかったかもしれない。
 もっとも三島なら他者の批評を許さずこの文庫本の巻頭巻尾を絢爛なレトリックで覆っただろう。

 宇能氏は巻末のエッセイで作家はみな「ペテン師」だとおっしゃっておられるが、まことにそうだ。この「ペテン」を見抜けるか、享受出来るか、で文学の読む人の価値が決まるのだろう。ペテンに命を掛けたのが三島・川端だと考えている。「少年」には、意識的にか、無意識にか、これほどの内面を書くことが出来る「人」の皮を被った「鬼」を読み取れる。彼の文学は私を恐怖に陥れた。

 「少年」の最終章にある清野からの一文は、ついに人間の一員についになれなかった男の人類へのはなむけではないだろうか。
「獣のやうな世の中、人間は一人もゐませぬ。誠ある人はゐませぬ。物質文明が発達すればするほど、人の心が獣に近づきます」


令和4年4月15日更新
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少し思うところがあり補填する。

後記
令和4年6月16日
 宇能鴻一郎氏 の「魔楽」、オムニバスとして載っている「公衆便所の聖者」を読んだ。

氏は
『筆者(宇能氏)は自他ともに許す女好きだから、同性愛についてのめりこまずに客観的に論評できる自信がある』
などと川端康成の文庫本「少年」巻末で書いているので、どのような「客観的に」で小説を書いているのか興味があったのだ。

 さらに、私は文庫本「少年」のアマゾン書評欄に
「場違いな人のエッセイをなぜ純粋・虚無な心情を描いたといえる川端康成の単行本「少年」に載せたのか?」
という出版姿勢への疑問と怒りを書いてしまったが、そもそも官能小説家と呼ばれる一面の氏の作品を読んだことがなかった。なぜここで宇能鴻一郎氏だったのか、私は混乱した。川端に関して適当な文筆家は高原英理氏、森本穫氏らがいるではないか?(もっとも森本氏は「故園」の失稿を新潮社に正したが新潮社は次刷で直し森本氏には何の挨拶もなかったそうだ)それで急ぎ読んでみたのだ。


 「公衆便所の聖者」「魔楽」は同じ語り口で書かれている。著者と思われる人物が、同性愛の物語を他人から聞いてその人間の本質を「客観的」あるいは「作家的興味」見地から掘り下げて見せている。「少年」巻末のエッセイで見られる私が感じた同性愛への「嫌悪」はこの1969年の作文には少ないと思われるが「公衆便所」の題名はそれとなくそういうものを感じる。


 思うに水上勉の「男色(だんじき)」と似た雰囲気がある。自分は客観者を装っているだけ狡猾な感じがする。女色者がなぜここに踏み入ったのかと考えると、女が好きなら、やはりそういう場所や環境に身をおくことが出来るので、同性愛者などとの距離も近くなるのだろう。氏としては作家としての糊口のための活動かも知れないが。


 さて、現在のところの私の思いは、宇能氏のエッセイは、やはり「少年」の巻末を飾る文章としては「場違い」である、ということは変わらない。
 だが、なぜ氏がよりにもよって川端康成という「同性愛未満」の作品の巻末に文章を飾る決心をしたのであろうか、という疑問がさらに湧いてきた。そういえば、「魔楽」は「伊豆の踊子」のパロディ、あるいは同性愛版とも言えないことはない。氏の好みかは分からないが、インドに出張した会社員を惑わすのは「女の子に見える」女装した踊り子なのである。感情描写も、衒いを感じるところもあるが女性そのものだ。


 彼が「少年」のこの巻末エッセイに「嫌悪」を書いたとしたが、同性愛への嫌悪とともに、川端康成への嫌悪もあると考えている。「魔楽」「公衆便所の聖者」の文章を読んだが、川端のように分断しているようで本質的な一文をさっと差し込む作法を使っているが、川端の文章とは違う。読みやすい。


 一般的な作家に言えることと思うが、彼らの文章(私を含めて)の現代病と思えるのは、書く対象に心象が捕らわれすぎるということではないだろうか。読みやすいということはそういうことだろう。それを考えると川端康成の文章は、心に、或る決心をしないと身に入ってこない。決心は読者それぞれだろう。「小説家」の孤高さを感じるのだ。


 ここで血迷ったことを書くが、少し間を置いて反芻していると、川端「少年」と宇能「巻末エッセイ」の対比が浮かんできて、そういえばエッセイの書き方は川端の文章構成を模しているのではないか、とも思えてくる。

 「魔楽」のストーリーは、インドの少年「踊り子」に惹き付かれた日本人「会社員」が全てを少年に捧げ堕落していく。「伊豆の踊子」の川端の虚無からの救済の、真逆のプロセスの物語だ。しかし、「会社員」はそんな堕落の中で救済されている雰囲気で「魔楽」は終わっている。
 作家とはかくも競い争うものなのだろう。

 川端康成は「少年」において自ら『同性愛』と書いたが一般的な「同性愛」でないことは読者は理解していることと思う。

 そうすると宇能鴻一郎氏が「少年」巻末のエッセイにて、この作品を敢えて『同性愛未満』と書いたのは、かなり辛辣な出版者の無理解への批判と受け取れないこともない。あえて『自分は女色者だから』と書いたのも、「美しい少年との同性愛」などのコピーで売ろうとした出版に合わせた諧謔だったのかもしれない。

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