非番の申請

文字数 4,662文字

 非番を丸ごと潰された翌日、代わりの休暇を申請するために、カラレスは本署の署長室を目指していた。昨日の事件の捜査という名目で、ほとんどの署員が方々に出ることを余儀なくされていたので、署内はがらんとしていた。 
 その中にあって、署長アドルフ・ブラックマンは悠々と椅子に腰掛け、タバコをふかしていた。
「署長。代わりの非番を申請したいのですが」
「カラレスか。お前の非番は昨日だったはずだが」
「あれが非番だと言うのなら、世界の死因トップは過労死だということになる」
 カラレスは申請用紙を署長に押し付けた。署長は迷惑そうにそれを受け取る。
「訊かないのか」と署長。「昨日のことは」
「昨日の何を、です」
「なぜ撃たせたか、ということだ」
「仕事ならば銃は撃ちます。普段も射撃訓練は行なっている」
「興味はない、というわけだ。いいぞ。だからこそ生き残れたのだ、お前は」
「生き残れた、ですか」とカラレス。「別に凶悪犯だったわけでもありませんからね、ロイドは」
「昨日だけで、警官三十四名、一般人一〇四名が死んだ。ミラー一家の件も合わせれば、ロイドは一四二名殺したことになる。これを凶悪と呼ばず何と呼ぶ」
「しかし分からない。ロイドはどうやって殺人を?」
「それは気になるのか、カラレス」
「興味はありませんが、今後のために知っておいた方がいいと思う。また似たような事件が起きないとも限らない」
「あんな事件、もう二度と起きるものか」
「署長は、今回の事件の全容を把握しているのですか」
「あらかたな」と署長。「そうでなければ、殺せ、などと言えるはずもない」
「ロイドはどうやって殺人を犯していたのです」
「今回のことは、ロイドが云々と言うよりもむしろ、殺された側に問題があった」と署長はタバコを咥えて言った。「簡潔に言えば、ロイドが死に際言っていたことで大体正しい。ロイドが実際には死んでいて、そしてそれを共感してしまった人間も、やはり死んでしまうのだ、ということだ」
「話がめちゃくちゃにも程がある」とカラレス。「まずロイドは実際には生きていたし、共感とかいうので人が死ぬわけがない。そんな社会だったら、警察など要らない」
「その通りだ。しかし、世の中には色々な人間がいるものだ、カラレス。そうは思わないか」
「話の意図が分からない」
「ロイドが実際には死んではいなかった、というのは紛れもない事実だ。あいつは生きていた。お前が鉛弾を眉間にぶち込むまでは、な」
「それは、そうでしょう」
「ロイドは恐らく特殊な体質の持ち主だったはずだ。例えば、そうだな、彼本人には、同情されやすい、といったように感じられるのかな?」
「そういえば、ロイドがそのようなことを言っていました」
「ミラーニューロン、という言葉を聞いたことがあるか、カラレス」
「殺されたミラー一家の関係者ですか」
「違う。人間の共感能力を司ると言われている細胞のことだ。この細胞のお陰で、人間は、実際に行動を起こさなくても、起こしているときと似たような感覚、つまり共感を覚えることができる」
「知りませんでした」
「世の中には様々な人間がいる。中にはこのミラーニューロンの働きがかなり活発な人間もいることだろう。無論、その逆も」
「ロイドのミラーニューロンは、特別活発な働きをしていた、と?」
「そうではない。今回の場合には、ロイドのミラーニューロンの働きはあまり関係がない。ロイドの感覚を共感した者、つまり今回死んだ者たちが、ミラーニューロンの働きが活発だった者たちだ」
「何だって」
「ロイドの持つ特殊体質は、確かにミラーニューロンに関することではあるが、自身のミラーニューロンに関することではない。ロイドは、他人のミラーニューロンの働きを異常なレベルにまで活性化することができる体質だったのだ」
「他人の細胞なんて、そんな手も触れられないものをいじることができるはずがない」
「直接いじらずとも、人間には五官という素晴らしい器官がある。見たり、聴いたりした情報は電気信号となって体内を駆け巡る。匂いだってそうだ。ましてや、人間にはまだ説明のつかない、第六感と呼ばれるような感覚器もある。それらを介して細胞を変異させることぐらい、わけはないのかもしれない」
「仮にロイドがそのような体質だったとして」とカラレス。「どうなるというのです」
「ロイドは他人のミラーニューロンに干渉して、その能力を限界を超えて引き出すことが出来た。いや、出来たというよりもこれは恐らく制御不可能な、いわば垂れ流しの能力だったはずだ。ロイドの周りには、さぞかし感傷的な人間が集まっていたことだろう」
「他人のミラーニューロンに干渉することと、死はどのように繋がるのです」
「ロイドは他人のミラーニューロンを活性化させる力を発し続けていた。ただし、ミラーニューロンはその細胞のみが活性化されても、本来の意味を成さない。共感する相手がいなければ、ミラーニューロンが活性化しても意味がない。恐らくロイドが活性化することが出来るミラーニューロンは、『その人物の、ロイドに関するミラーニューロン』の部分のみだったのだろう」
「つまり、他人のミラーニューロンそのものを活性化させるわけではなく、他人の、ロイドに対する共感のみが強力になる、ということですか。ロイドにはそういった力があったと」
「さぞかし面倒な人生だったことだろう」と署長は言った。「私ならごめんだね」
「他人の、自分に対する共感が強くなると、具体的にはどうなるのです?」
「まず、自分の考えていることが相手に伝わりやすくなる。これだけ言えば利点のようにも感じるが、ロイドのそれはあくまで『強力』に作用する。自分の考えが相手に伝わるどころの話ではなかっただろう。喧嘩などしようものなら最悪だ。場合によっては口喧嘩でも殺し合いに発展しかねない」
「なるほど」
「それだけではない。強力とは言っても、元は共感能力なのだから、自分のプライベートなど相手に筒抜けだ。プライベートがなければ、気が休まる時がない。人生がめちゃくちゃになる」
「ロイドはそれらを感じながら、成長してきたというわけですか」
「制御不能で面倒なこの能力と、それによって狂った人生を歩んできたわけだったが、ロイドはそれらを打開する策を思い付いた」
「それが、今回の事件」
「そうだ。制御不能だと思われていたロイドのこの能力には、一点のみコントロールが可能な部分があった。ミラーニューロン活性化を行なう、その範囲だ」
「今回の事件は、被害が町全体に及んでいた」
「これはロイドも知らなかったことだったのではないだろうか。自分にとって不利益しか産まない能力の範囲を広げようなどと考えたことすらなかったはずだ。しかし、実際にやってみたらそれが可能だった」
「ロイドは本当に人間だったのか」
「人間さ、紛れもない。確かに珍しい体質だが、世界にはそういう人間もいるのだ」
「ふむ」
「さて、ミラーニューロンの活性化が町全体に及ぶのならば、あとは簡単だ。自分が死んでいる、という感覚を、全員に共感してもらえばいい。それも強力に共感されるわけだから、自分は何も本当に死ぬ必要はない。むしろ本当に死んでいたら、脳の動きは止まり、ロイドのその無駄な能力もストップしていただろうからな」
「ロイドが、自分は死んでいるのだ、と暗示のように繰り返していたのはそのせいだったというわけですか」
「実際に人を死に至らしめるまでにリアルな死の感覚を共感させるには、それ相応の覚悟が必要だったということだろう。本人は完全に死んだ気でいたらしい。なかなかの覚悟だった。あそこまで思いが固まっていると、もはや殺すしか解決法はなかった」
「死者は、ロイドの、まがい物の死の感覚を共感したのですね」
「そういうことだ。それもロイドの能力によって強力になった感覚を、だ。通常のプロセスを経て共感能力を発動させた人は、その瞬間にロイドの強烈な死亡感覚を共感させられたことだろう。一種の催眠術だ。だが脳や細胞が、この身体は死んだのだと判断すれば、それは抗うことが出来ない通常の死と変わりがない。だからただ死んだのだ。外傷や内疾患などなしに」
「なぜ、署長は死ななかったのです」
「私だけではあるまい」
「では私は」とカラレス。「私はロイドの最も近くにいた人間でした。しかし死ぬ感覚などこれっぽっちも共感出来なかった」
「私もだ」
「なぜです」
「それは多分」と署長はタバコを揉み消して言った。「我々が、共感能力に乏しいからだろう」
「共感能力に乏しい?」
「空気が読めない、と言われた方がしっくりくるかな、カラレス」
「ああ」とカラレスは納得した。「なるほど」
「かく言う私も、空気は読めない」と署長は笑った。「だから生き残った、と言うことは出来る」
「なるほど。たまには役に立つわけだ。この欠陥も」
「しかし、これは大きな問題だ。現代社会はコミュニティの塊だ。コミュニティでは共感能力の乏しい人間は生きていけない。私や、お前のように。もし仮にロイドのような人間がまた現れたら、そしてその力が世界レベルに波及したら――」
「ロイドのような人間はもう現れない、と言ったのは署長でしょう」
「何だ、びびらないのか」
「空気が読めませんので」
「しかし対処法はもう心得ただろう。ロイドのような人間が仮に再び現れたとしても、殺してしまえば、いいのだ」
「それは、確かに理解しました。なるほど、共感能力、か」
「ん?」
「署長、私は、実はロイドに共感している部分もあった」
「ほう」
「ロイドは明らかに普通の人間とは異なっていた。殺人犯なのだから当たり前だが、非社会的な人間だったと言ってもいい。私もそうだ。贔屓目に見ても社会的な人間などではない。その点に私は共感していなかった、と言えば嘘になります」
「ロイドにしては、そのような部分を共感されても意味がなかったのだろう。なるほどな。そうだな」
「何です」
「いや、警察組織に身を置く者としては、社会的な人間よりも、お前のような人間の方が適していると言えなくもない。ロイドのような事件は恐らくもう二度と起こらないだろうが、似たような事件が起きないとも限らない。そういった事件に対応できる人材は、必要ではある」
「では、ロイドは殺すべきではなかったかもしれません」
「私もそう思っていた」と署長。「ロイドに警官の面接をやらせれば、真の意味で共感能力に乏しい職員を見極めることが出来ただろう」
「共感能力があるものは、死んでしまいますからね」
「別に構わない。その代わりに優秀な手駒が手に入るならば」
「やはりあなたも相当な異常者だ」とカラレス。「今回の事件の生き残りなだけはある」
「お前に言われたくはない。用が済んだのなら、出て行け。ロイドの事件関連の報告書が山のようにある。忙しい」
 署長はそう言って、手を振った。新しいタバコを取り出し、咥えて火を着けた。もう、カラレスに対して興味を失ったようだった。しかしカラレスはその場を動かない。
「非番の調整がまだ終わっていません」とカラレスは言った。「ロイドなんかどうでもいい。重要なのは非番の方です」
 カラレスはカラレスで、頑なに非番申請をする。署長はため息を吐くが、カラレスにはその意図を汲み取ることは出来なかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み