第1話

文字数 2,062文字

「……ぜんぜん、似てない」

 それは、年下の夫とのぎこちない初事(はつごと)を済ませ、夜明け前にはじめて顔を見あわせたときのことだった。

 夫となった近衛基通(もとみち)の口から出たその言葉を、完子は忘れない。

 十一歳の基通の声はまだ甲高く、なんの邪気も含まれていなかった。ただ思ったことがそのまま口から出てしまったという様子で、完子は問いかえすこともできなかった。

 いったい、だれに似ていないと言うのだろう。

 後日、あの夜に妻戸のむこうで控えていた女房に聞いてみたところ、きっと完子が父の清盛には似ておらず、可愛らしい姫だったことに安心したのだろうと教えてくれた。

(本当にそうなのかしら。そういう感じではなかったけど……)

 完子は首をかしげる。

 あの時の基通は、あきらかに落胆しているように見えた。だれかに似ていることを期待していたのに、それが外れたことを不満に思っているような声だった。

 夫は自分を通してだれかを見ている──そう感じた完子は、はやくも基通に不信感を覚えた。はじまったばかりの結婚生活に影が差したようで、不安になる。

 しかし、自分に似ていないというその「だれか」は、案外すぐにわかった。

 完子のもとを訪れるのとおなじくらいに、いや、それ以上に、基通が「ご機嫌伺い」と称しては、都の外れにある養母が住む(やしき)へ通っていることを、女房たちの噂話から知ったのだ。

 はじめは、あちらに目当ての女でもいるのかと勘繰った。けれど、養母というのが完子の異母姉であり、夫とは四つしかちがわないと聞いて、似ていない「だれか」とは姉のことなのだと悟った。

 一度も会ったことのないその姉は、わずか九歳で基通の父だった摂政・基実(もとざね)の正室となり、子のないまますぐに死に別れたと聞いている。いまは、基通の養母というだけでなく、帝の准母としても尊重されているらしい。

 清盛の正妻を母とする姉には、平家一門の公達や、つながりのある者が家司として顔を揃えているせいか、彼女のもとへ足を向ける者は多い。

 基通もそれ幸いと、妻である完子の目をいっさい憚ることなく、気心の知れた養母のもとへ日参しているようだった。

「母上からお菓子を頂いたよ」「母上に絵巻物を贈って差しあげたいんだ、どういうのがいいと思う?」「母上が──」「母上に──」

 姉妹なのだから気にしないだろう?と言わんばかりに、基通は屈託のない笑顔で養母の話を聞かせてくる。しかも、枕を交わしているその時に。

(なんて無神経な方なのかしら)

 完子がむっつりと口を閉じてしまうと、基通はわざとらしくため息をついてみせる。そして、拗ねたように言うのだ。

「母上は、そういう態度はなさらないよ。いつだって、わたしの話を熱心に聞いてくださる。お優しくて、とても長閑(のどか)な方なんだ」
「そうですか。勝気で悪うございました」
「……まったくだよ」

 完子が切って返すと、基通は彼女の肌をまさぐっていた手を止め、白けたように身体を離した。まだ幼い口もとをとがらせて、憮然とした表情で座りこむ。

(ああ……また、このお顔だわ。笑ったお顔よりも、不機嫌なお顔のほうが見ごたえがあるなんて、わたしはどうかしているわ)

 完子はまだ大人になりきっていない痩せた身体を横たえたまま、うつむく基通をまぶしげに見あげた。

 どう考えても、ふたりのあいだには不穏な空気が流れているのに、こういうときに見せる基通の怒ったような表情が、なぜだか完子は好きだった。

 切れ長の目もとをうっすらと赤く染め、きゅっと噛んだ下唇もぷっくりと赤い。

 少年の殻を脱ぎ捨てる直前の、きらめく清流のような透明感のある美しさに彩られた夫の姿は、何物にも代えがたく、そして儚く思われた。

(……悔しいこと。わたしは、この方を恋しく思っている)

 想い合って結婚したわけではなかったけれど、いまでは幼い夫の訪れを心待ちにするようになっていることが、負けん気の強い完子には口惜しい。

 そもそも、基通は彼女をないがしろにしているわけではなかった。

 姉から菓子を貰えば、あたり前の顔をして「美味しいから」と完子へ分け与えるために訪れ、姉への贈り物の相談に乗れば、同じものを完子へも届けさせた。

 いまのように険悪なまま別れた朝でも、きちんと心のこもった文を寄越すし、なんならその夜にふたたび訪ねてきたりもする。

 そうして、完子の白く美しい肌に口づけをしながら「あなたは、わたしだけの衣通姫(そとおりひめ)だよ」と愛しげささやいて、濃やかに身体を重ねてくるのだ。

 姉のことは気になるけれど、閨での基通を知っているのは自分だけなのだと思うと、ほんの少しだけ優越感を覚えた。

 骨張った薄い肩も、腕や脚を覆うやわらかな産毛も、ほっそりと華奢な腰つきも、こらえきれずに漏らす幼い吐息も、なにもかもが完子だけのものだった。

(基通さまは、まだ子どもでいらっしゃるのよ。もう少し大人におなりになれば、触れることのできない花など、見向きもなさらなくなるわ)

 完子は、はしたないと思われない程度に、けれど基通へ誘いかけるように、白い腕を絡ませた。
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