5.隣の芝生は

文字数 10,451文字

「ただいま〜。」
「あれ兄さん、帰ってきたんだ。珍しいどうしたの。」

その日の夜、カラッとした腑抜けた懐かしい声がした。
僕には6つ歳の離れた兄がいる。
普段は大学に通ってバイトをして、その時々季節のように変わる彼女と同棲をしている。

「いや〜振られちゃってさ〜!この寒い中追い出されたわ!だからしばらくここに居るよ。」
「そう・・・。母さんは知ってるの?」
「昨日電話したから知ってるよ。」

兄さんは手癖が悪い。
女の人を取っかえ引っ変えしては女の人の家に入り浸って別れたら戻ってくる。
そして新しい彼女を作ったらまた出ていく。
そんな兄である。
きっとまた浮気でもして彼女を怒らせ追い出されでもしたのだろう。
もう21時を過ぎてるのにノコノコ帰ってきた。

「そろそろまともに恋愛したらいいじゃん。男として格好悪いよ。空っぽの恋愛して楽しいものなの?」
「その口ぶりはまだ女を知らないな〜!?若いうちに遊ばないと!女を知ってから男を語るんだなー!お前ホントに兄ちゃんの弟か〜!?」

ケタケタと笑ってくる兄の言葉に飲んでいたミルクティーを吹き出した。
本当に僕の周りにはこんな人種が多すぎて嫌になる。

「ちょ、ホントに澄元といい兄さんといいデリカシー皆無すぎ・・・。」
「なんだよーつれないな。あ、そういえばすぐそこの家なんか凄かったぜ。怒鳴り声と物の割れる音でさ、こんな夜中だから俺亡霊の叫び声かと思ってちびっちゃうとこだったぜ。」

ぞわっと背中が震えた。
何かが僕の頭の中で過ぎった。

「怒鳴り、声のする家?」
「そそそ、なんだっけ、あの星なんとかさんって表札見た。多分あの家だと思うぜー。男の人の怒鳴り声だったけど夫婦喧嘩でもしてんのかな?」

よいせ、と荷物を降ろして胡座かいて座る兄に横目もくれず、一瞬目の前が真っ白になった。
嫌な予感とは皮肉にもぴったり的中するようだ。

「星河さんだ・・・絶対・・・。」
「ん?どした、知ってんのか?」

間違いない。
母さんの話といい兄さんの話といい・・・今日学校に来なかった星河さん。
全てのピースが組み合わさった。
もう居ても立ってもいられなかった。
お節介がどうとか、行ってどうするとか、考えるより先に身体が動く。

「ぼ、僕外出てくる!」
「あ!おい!上着は!」

驚く兄さんの声を無視して僕はマフラーだけを掴んで家を飛び出した。
団地の階段を落ちるように駆け下り、出て駅と反対の方向の道を走って『星河』の表札を探す。

一軒家を3軒ほど通り過ぎたところで街灯の下にしゃがみこむ少女を見つけた。
見覚えのある髪色。見覚えのある背格好。
・・・そして見慣れない痛々しい身体。

「・・・っ、星河さん・・・!」

僕の声にビクッと身体を震わせ少女は顔をあげた。
怯えた子猫のような瞳と目が合う。

「・・・志河、くん・・・。」

泣き腫らしたであろう腫れた目でこちらを見つめるのは確かに星河さんだった。
口の端が切れて血が出ていて、硬い何かが当たったように唇は青紫色に変色し、下唇の左端がパンパンに腫れていた。
髪は乱れて、部屋着のショートパンツから露出した足には緑がかった紫のような痣がいくつも出来ていて、その足は何も履いていなくて、外の気温に耐えれず真っ赤になり、ところどころ赤紫色のようになっている。
このような人の激しい外面的な損傷を目の当たりにしたのは初めてで、目を見開いてその姿を見つめ、僕の唇と手は小刻みに震えていた。


「・・・・・・知ってたんだね、その顔は。」




彼女は力なく笑っていた。


ーーー


僕は力なく笑った彼女を見つめた。
自分がどんな顔をしていた?
分からない。
彼女の目には僕の顔がどう写っている?
目の前がサァッと真っ白になりボヤける。
また、僕は情けなくなる。
僕が今できる事はなんだ。
傷ついた子の前で僕が焦ってどうする。
目を閉じ、息をゆっくり吸い、吐き出して目を開ける。
何かを話そうと口を開いた彼女より先に僕は言葉を放った。



「今、話さなくていい。・・・風邪ひくよ。」



僕は力強く握りしめていたマフラーを彼女の折れそうな首にそっと巻いた。

「理由はどうであれ、僕には怪我している女の子をこのまま放置して過ごせない。星河さんが嫌じゃないのならどうか僕の家で手当されて欲しい。」

びっくりしたように目を見開いた彼女が困ったように微笑む。

「・・・でも、こんな姿、ご家族の人がビックリしちゃうよ・・・。」
「母さんも兄さんも、なんとなく分かっていたんだ、ご近所の人達も知っていたみたいだ。きっとみんな理解してくれる。大丈夫だよ。」


躊躇うようにおずおずと頷いた彼女をおぶって僕は家の方向に歩を進める。

「ありがとう、ごめんね。」
「なんで謝るのさ。僕達、友達なんだし。」
「・・・でもっ・・・。」
「・・・大丈夫。」

彼女の身体はピクッと震え、言葉は詰まった。
上手な優しい言葉をかけてあげれなかった。
いや、そんな言葉をきっと彼女は求めていなかっただろう。
僕には今そっと、身体が痛む事の無いよう優しくおぶり、この氷のように冷たく冷えきった身体を家まで運ぶしか出来なかった。

氷のように冷たい、傷だらけの彼女は、まるで本当に人形のようだった。

ーーー

「ただいま。」


僕が彼女をおぶって家に戻るとまるで分かっていたかのように母さんと兄さんが玄関で待っていた。

「星河ちゃん、蒼月の母です。こちらへいらっしゃい。」

母さんは優しく星河さんに声をかけて僕はそっと彼女を下ろした。
母さんの目は酷く悲しそうに見える。
あられもない彼女の姿に兄さんも眉間をしかめた。
手を引かれて星河さんは母さんとリビングに消えていった。

「・・・お前が俺の話聞いて慌てて飛び出していったから母さんに話したんだよ。そしたらお前と星河さんが友達だって言ってたって聞いたからさ。きっと連れてくるんじゃないかと思った。いや、連れてくるって信じてたよ。家の中に入って強行突破でもしたのか?」
「兄さん相変わらず察しがいいんだね。・・・いや、あの姿のまま星河さんの家の前に座り込んでたのを見つけたんだ。」
「そうか・・・母さん、お湯沸かして暖かいタオルと一応救急箱も用意してたから母さんがどうにかしてくれるよ。男の出る幕じゃないさ。」
「兄さん・・・ありがとう。」
「ったく、何年お前の兄ちゃんやってると思ってんだよ。」

兄さんは僕の額を軽く小突いて、優しく笑って僕の頭をぐしゃっと撫でた。
僕一人じゃきっと何も出来なかったから感謝の気持ちで胸が溢れて、目の奥がじんわり熱くなった。


リビングに兄さんと向かうと手当された星河さんがソファに座っていた。
汚れた足は拭かれ、口元の絆創膏や丁寧に手当されていて、手足が尚更痛々しさを感じた。
力ない瞳でそこに座る彼女はまるで触ると崩れる人形のようだとも感じてしまった。

「志河くん、志河くんのお母さんもお兄さんも、本当にありがとうございます。お世話かけてしまいました。」
「気にしなくていいからね星河ちゃん。辛いかもしれないけれど、少し事情詳しく聞かせて貰っても大丈夫?それとも蒼月と2人きりの方が話しやすい?」

兄さんは優しく星河さんに話しかけた。

「いえ、大丈夫です。手当もして頂いたので、きちんと話そうと思います。」

僕達はリビングのテーブルにつき、星河さんから話を聞くことになった。

自分の想像していた以上に早くこの残酷な事実と対面する事になって、正直、心の整理が間に合っていなかった。


「ご近所で噂になっていると思うのですが、私はずっと親から虐待を受けています。」

彼女はハッキリと淡々と話し始めた。

「実は私の父は義父でして、私の母の再婚相手なんです。実の父の顔はもう覚えていなくてその人について何も知らないし覚えてないんです。二人が再婚したのは私が8歳の時でして、義父は、母の以前の男との娘である私が大層気に入らなくて私への態度は初めて会った時から明らかでした。そして義父は自分で会社を持っていまして、多忙で家を空ける事が多いんです。その間母は寂しさで私に八つ当たりして物を投げたり、ぶったりして母が暴力を振るう事が多くなりました。元々短気な義父は仕事での不満を最初は母に当てていたのですが、それに耐えかねた母が義父の居る時は逃げるように外を出歩くようになり、そこから新しく男を見つけたのかなんなのか、もう今では殆ど顔も合わせません。そして義父の不満は私に向けられ、帰ってくる度に殴られ蹴られ、床に叩きつけられたり真冬に裸でベランダに出されたり暴言を浴びせられたり・・・。母も顔を合わせると暴力を振るうので2人ともそういう感じです。昨日から義父が帰ってきていてこのような事になってしまって・・・皆さんに迷惑をかけてしまいました。ごめんなさい。」


そこで彼女の話は終わった。
キュッと痛々しい唇を噛み締めていた。

「じゃあ今は星河ちゃん、基本は家で一人なの?」
「そうですね、二人とも帰ってこない方が多いので基本一人です。」
「警察とか児童相談所とかに相談したりしないの?」
「二人とも酷く世間体を気にしているので周りには確証が得られないように相当見えるとこにはあまり殴ってきたりせず、もし顔とかに痣が出来れば治るまで外に出るなと言われて・・・。もし警察や児相に私が相談したとバレたらきっとただじゃ済まないと思います。それに警察に相談したところで泣き落としなり、お金で取り返したり誤魔化したりしてあの2人はきっと私を手放さないので・・・。」

母さんからの質問にも星河さんは顔色一つ変えずに答える。
だが目線はずっと下を向いていて、こんな話をしてきっと内心思い出して辛いのではないだろうか。
兄さんは黙って話を聞いていて、僕は彼女にかける言葉が見つからず、僕も黙り込んだ。

「・・・あの、失礼ですが志河くんのお家、お父さんは・・・?この時間なのにいらっしゃらないみたいなのでお仕事かなと・・・。」
「あぁ、うちの亭主、実は五年前に他界しちゃったの。病気でね。」
「・・・お線香あげに行かせて貰っても大丈夫ですか?」

彼女の問いに母さんは優しく了承した。

この季節はマフラーをつけて着込んでも寒い。
星河さんの部屋着と思われるものはとても薄く、これで外に居たのかと思うほどのものだった。
それなのにこの時期に、しかも女の子なのに真冬で全裸でベランダに・・・。
恐ろしくて、星河さんの環境に訳も分からず掌で顔を覆った。

僕達は線香をあげる布越しでも分かる細く骨ばった彼女の薄い背中を見つめていた。

「凄くいい子なのね。あんないい子なのに、どうして・・・。」



そう言う母さんの目からは涙が溢れていた。




星河さんはそのまましばらく父さんの仏壇の前から離れなかった。


その後、少しして星河さんはとりあえず家に戻ることになった。


「星河ちゃん、家で寂しいなら晩御飯だけでも食べに来て頂戴ね。いつでもいいから。というか、来て欲しいわ。ここが二つ目の家だと思っていいからね。」
「・・・ありがとうございます、本当にありがとうございます。」

「・・・蒼月」

母さんと星河さんが話してると兄さんが耳打ちしてきた。

「星河さん、送ってきてやれ。」
「・・・言われなくても。」


ーーーー


星河さんは靴を履いていなかったので僕は再び彼女をおぶって送ることにした。

「ごめんね、またおぶらせちゃって。」
「全然気にしなくていいよ。それより、言いたく無かったり辛かったらいいんだけどさ・・・どうして裸足だったの?靴、履けなかったの?」
「・・・お父さんが怒っていつも通り殴られた後、『もうその面も見せるな出ていけ!』って髪の毛掴まれてそのまま外に放り出されちゃったんだ。」
「・・・今日学校休んでたのも、お父さん?」
「うん、昨日の夜突然帰ってきて殴られて、足の痣が酷くて見えちゃうから学校行けなかったの。・・・心配かけちゃってごめんね。」

聞けば聞くほど生々しく、自分が今まで想像もした事も、経験した事もない話で、僕は奥歯をグッと噛み締めた。

「・・・友達になったばかりなのに迷惑かけて本当にごめんね・・・。私、こんなつもりじゃ・・・。」

そう呟く彼女の声は少し震えていた。

「・・・謝ってばかりだね、星河さん。」
「そりゃそうだよ・・・。」
「この事他の人は知ってるの?」
「ううん、友達なんて居ないし皆知らないと思う。凄くサボる子だと思われてるんだと思う。」

友達も居なくて頼れる人も居ず、家でも居場所のない彼女の心境なんて僕に分かるはずも無かった。けれど自分がもしそうだったらと想像するだけでとても生きた心地なんてしなかった。

「心配しないで、別に誰かに話したりもしない、僕はこのまま友達でも居たい。友達として、頼ってきて欲しいと思う。頼りないかもしれないけれど、いつでも星河さんの力になりたいんだ。」

「ーーー。」

彼女は何かを言ったようだった。
けれど僕は彼女の言葉を聞き取る事が出来なかった。
身体を震わせる彼女を背中越しに感じて、情けなくも僕まで泣きそうになってしまう。
僕が支えてあげたい、そう思って行きとは違う暖かい身体を背中に感じて一歩一歩しっかりと星河さんの家に向かった。

ーーー


「ありがとう、送ってくれて。そのうえ助けてくれて。」
「いいよ、それよりお父さんは大丈夫そう?」
「うん、元々鍵は閉められて無かったけど家に入ったら怒られるからあそこに居たの。今はきっともう寝てるし大丈夫。ありがとう志河くん。」
「明日は、学校来れる?痣が・・・。」
「・・・行くよ。待ってて。」
「分かった、また明日ね、星河さん。」

そして僕は彼女を扉の前で下ろし、彼女の家をあとにした。
今日の空は酷く真っ黒だった。

「・・・志河、くん!!」

後ろから星河さんの声が聞こえた。

「依弦!星河さんじゃなくて依弦!」

鼻と頬を真っ赤にした星河さんが叫んでいた。

「・・・!!」

必死な顔をした彼女に僕は少し笑ってしまった。
普段美人だと謳われる彼女とは思えない愉快な顔をしている。
こんな一面をきっと他の人達は知らないんだろう、そうあって欲しい。

「また明日!・・・依弦!」

勢いで叫んだ。
女の子を名前で、しかも呼び捨てにするのなんて初めてで急に恥ずかしくなった僕は振り向かず走って家まで戻った。
言ってみたものの思った以上に照れくさい。
バクンバクンと心臓の音が冷たい耳を通してハッキリ聴こえる。

明日は、また学校で彼女と会える。
心做しか気持ちはとても弾むように軽かった。



「・・・蒼月。」


何かを彼女は呟いた様に感じた。
だが僕にはなんと言ったか聞き取ることが出来ず、そのまま自分の家に向かって走り続けた。


ーーー



家に戻ると兄さんと母さんが玄関で仁王立ちをして待ち構えていた。

「びっくりした、そんなとこにいたの。」
「それよりお前、本当に星河ちゃんと付き合ってないのか?」
「そうよそうよ!本当は付き合ってるんでしょ?白状しちゃいなさいよ〜!」
「だから付き合ってないってば!!本当に!なんだよ急にさ!」

この二人は絶対面白がってる。
いつも以上にテンションが高くて心配になる。
あんな話の後とはいえ、僕が女の子の話をしたのはこれが初めてだったから仕方がないと言えばそうなるだろう。
本当この二人は能天気なもんだ。
はぁ、と小さくため息をつく。

「まぁまぁ顔赤くしちゃって!お母さん、応援してるからね!」

母さんはウインクして親指を立てるとキッチンに戻っていった。
兄さんもケタケタと笑ってリビングに行ってしまった。
なんだこれは茶番か?と思わざるを得ない。
僕だけテンションが置いてけぼりである。

星河さんは家で無事に過ごしているのだろうか。
余計なお節介ではなかっただろうか。
もし星河さんのお父さんがまだ起きていて、星河さんが帰るなり・・・。
いや、そんな恐ろしい事考えたくもない。
こんな事を思いたくはない。
だが僕と星河さんの育ってきた、過ごしてきた環境はあまりに違って、それは僕に異世界かのようにすら感じさせた。
そういう家庭があるのはテレビやニュースで知っている。
だが、無口だけれど優しかった父さん、お調子者で声が大きい明るい母さん、手癖は悪いが常識ハズレなことは基本しない兄さん。
この家族で育ってきた僕には元々想像もしなかった家庭で、その結果を目の当たりにした。
頭の中がかき混ぜられたかのように思考がまとまらなくなる。
駄目だ、考えたところで何もならない。
今日は取り敢えず寝よう。

ベッドに潜り、冴えた目を無理やり瞑った。


ーーーー



その夜、ふと目が覚めた。
時計は深夜0時半を指していた。
目が覚めたしトイレでも行こうと部屋から出ると、リビングから光が漏れているのに気づいた。
こんな時間なのに、電気の消し忘れだろうか。
電気を消しに行こうとリビングに向かうとボソボソと話し声が聞こえた。

「ーー蒼月、怒ってないかしら。流石にあんな事あったのに能天気なお調子だって思われたかしら。」
「ーーいやむしろ怒って俺達に気を向けさせた方がいい。良くない事ばかり考えさせても駄目だろ。」
「そうよね、今は気を逸らさせてあげないと。私達があの子を支えてあげないといけないしね。」

母さんと兄さんの会話に、僕は廊下で目を見開いた。
あの玄関での会話の事だろうか。
能天気だと呆れたけれど、あれは、僕を想ってわざと僕を挑発して困らせて母さんと兄さんにイライラさせる為だったのか?
だからあんなに空元気だったのか、と僕は全て理解した。と同時にその思いやりに気付きもしなかった自分が凄く情けなく、母さん達への申し訳なさでいっぱいになった。

「まだあの子、お父さんの傷も癒えていないのに、星河ちゃんのお父さんの事知って、あの子大丈夫かしら。」
「親父は優しかったからな。あれが全ての家庭の親父の姿だと思い込んでいただろうから、きっと気持ちが追いついてないかもな。」
「でも、星河ちゃんあんないい子なのに親御さんにあんな風にされて、あの子の精神も心配だわ・・・。明るく振舞ってるけど本心は・・・。いっそ抜け出してうちの子になって、4人で楽しい家庭を・・・。」

そのまま母さんは顔を覆ってわぁわぁと泣き始めた。
兄さんは黙って俯いていた。
考えていたのは僕だけじゃなかった。
この僕のお節介のせいで、母さんや兄さん達も悩ませてしまったのだ。
母さんも兄さんに凄く心配をかけてしまったのだろうか。


母さんの泣いている姿を見て、目の奥がじんわりと熱くなったのを感じた。
父さんの居なくなった日以来だ、母さんの涙を見るのは。
思いやりにも心配をかけた事にも気づかず、自分の事ばかりでいっぱいいっぱいになっていた自分が馬鹿みたいだ。

自分を戒めるかのように唇をギリギリと血が出るまで噛んで僕はリビングを後にして静かに部屋に戻った。

昨日の夜の事はこっそり自分の胸の内に隠して、平然と何も無かったかのように振る舞う母さんと話し、学校に向かった。

僕が昨日見ていたのは2人には気づかれていないみたいだった。



「おはよう、澄元。」
「おはよーっす志河ぁ!」


バシバシと背中を叩いてくる。
朝っぱらから背中を無意味に叩かれる意味が分からない。
本当に今日、星河さん・・・依弦は学校に来てくれるのだろうか。
ーー僕はふと依弦が消えてしまうんじゃないかとたまに感じる事がある。
あまり強く、深く触ると崩れてしまうような、逃げられてしまうような、消えてしまうような、そんな気がしてならない。
だからこそ依弦の姿が見えると安心してしまう。
その安心と同時に、依弦に触れすぎるのが怖くなる。


ーーー


「おいおい志河、またお呼びじゃねえか?」

休み時間に聞こえた澄元の大きな声に教室の入口を見ると、お昼休みでもないのに依弦の姿が見えた。
昨日丁寧に手当されたお陰か、依弦の唇の腫れは引いていて、口元にはガキ大将のように絆創膏が貼られていた。
手足は長袖と靴下で隠されていた。


「おはよ、澄元くん、志河くん。」

ニッコリ笑ってくる彼女に僕は戸惑った。
僕に下の名前呼びを命じたのに自分はそのままってちょっとずるくないか・・・。
呼ばれるかもしれないと少し楽しみに舞い上がってた僕の気持ちが一気に崩れ落ちるのがわかった。

「澄元くん、ごめんねちょっと志河くん借りるね!」
「いいっすよ〜後でちゃんと返してくださいね〜!」

ヒラヒラと手を振る澄元を後に、僕は依弦のあとを追う。
下の階に降りていき、どんどん人混みから離れていく。

「どこ、行くの。」
「なんかこの先の教室空いてるのさっき見つけたから。2限目サボっちゃおうよ!」

まるで猫が鼠を見つけた時のような悪戯っぽい悪い目でニヤっと笑いかけてきた。
ーー本当、僕は彼女に翻弄されっぱなしだと微かに口元を緩めた。

「ノった。」




ーーーー



空き教室は少し机や椅子が散乱していて、普段は補習等以外で特別使われていないだろうという感じが伝わってきた。

「これだけ端っこだと先生が通りかかる事もないし、大丈夫だよ!」
「やっぱりヤンキーなんじゃない?すぐこんなとこ見つけてきてさ。」

ーーー


僕達は教室の後ろの方の机に二人座って並んだ。

「志河くんさ・・・。」
「なんで僕だけ『志河くん』呼びなのさ。昨日僕に依弦って呼べって言ったのに僕の事は呼んでくれないのか。」
「だ、だって、志河くんだって私のことあれから名前呼んでくれないじゃん・・・。」
「依弦。」
「うっ・・・。」
「依弦。」
「わ、分かった!呼ぶ!呼ぶから!」

今日は珍しく僕がマウントを取れたようだ。
名前を呼ばれた依弦は顔を真っ赤にして照れたような、怒ってるような、そんな感じで僕をボコボコ殴ってくる。
こんなに恥ずかしがってる依弦は初めてみた。

「蒼月!これでいいんでしょ!」
「うん、いい。これからもね。」
「わかったわよ・・・。」

しばらく沈黙が続いた。

「そういえば僕達って、必要以上の事は知っていても、お互いの事あんまり知らないよね。」
「じゃあ質問大会しよ!何でも聞いて!」
「んーじゃあ、依弦の血液型は?」
「O型。」
「誕生日。」
「4月12日。」
「好きな食べ物。」
「納豆。」
「おえ〜僕食べられないんだよ。将来の夢は?」
「・・・天文学者。」
「素敵だね。君が白衣を着てるのとても想像できる。」
「・・・質問は終わり?」
「じゃ最後の質問。・・・好きな人はいる?」
「・・・・・・私、恋なんてした事がないから、好きとかよく分かんない。でも恋はしたいなと思ってる。でもそれがどうやって恋になるのかも分からないしどんな感情かも分かんないの。だから今はまだ答えはNO。」

最後の質問はほんの興味本位、だったと、思う。
なんとなくで、その質問を口走っていた。
依弦は恋をした事がない。
それを知れてなんだか安心している自分がいる。
でもそれは親の影響で男に恐怖心を抱いてるとかそういうじゃないかと心配にすらなってくる。

「次は・・・蒼月の番ね。」
「いいよ。」
「血液型は?」
「A。」
「誕生日は?」
「3月23日。」
「好きな食べ物は?」
「ミルクティー。」
「それ食べ物じゃないじゃん・・・将来の夢は?」
「・・・ない、かな。」
「・・・ないの?」
「具体的になりたいものが分からないし、目指している事もないし、ないと思う。夢がないんだ僕には。・・・つまらないでしょ。」
「・・・別に、いいんじゃないの。じゃあ、君は好きな人、いるの?」
「君と違って恋はした事ある。でも恋人は出来たことない。何も伝えず心の中だけで気がついたら終わってたよ。今は、どうだろうな、居ないんじゃないかな。」
「・・・ふーんそうなんだ。」

きっと僕達二人はこの質問を通してお互いの事を旗から聞く以上に知ったような気がした。
そしてそれと同時にお互いに対して言葉にはしないけれど思うことも増えただろうと僕は感じた。

「依弦、あのさ。」
「ん?なぁに?」

こちらを向くキラキラした瞳を真っ直ぐ見れず目を伏せて、何か分からないような不思議なこの感情を確かめるかのように尋ねる。


「クリスマス、空いてる?」


「クリスマス・・・そっか、もう来週、だもんね。」
「うん。」
「空いてる、よ。」

依弦は珍しく、こちらを向かず、そっぽを向いて答えた。

「じゃあ、友達だし、何処か出かけよう。遊びに行こう。クリスマス楽しもうよ。」

ぱあっと顔を輝かせてこちらを向く依弦は少し頬が桃色になっていた。
それに気づくとこちらも顔が熱くなり、胸が膨らむ。
でもクリスマスに誘うなんて、僕はまるで依弦の事が好きみたいじゃないか。
変な勘違いは多分依弦自身はしていないだろうけど、もし誰かに聞かれていたら僕は依弦にデートを申し込んだと思われても仕方ない。



お互いの赤くなった顔を見合わせて吹き出してずっと笑っていた。


「楽しみだね。」


嬉しそうな依弦を見てぎゅうっと胸が苦しくなった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み