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文字数 9,260文字

 そろそろ夏の気配を感じさせる季節のある日、音楽長屋に偉大な先輩がブラッとやって来た。割と小柄でちょっと派手なTシャツに綿パン、素足にサンダル履きというラフな恰好で背中にギターを背負っている。静かに防音ドアを開けて練習室に入って来たのは、何とついこの間までかのソニー・ロリンズのグループで活動していた益沢秀秋さんだった。その活動が一段落して日本に戻り、新井薬師の実家でブラブラしていたのだが、ダンモがやけに懐かしくなってやって来たとのこと。丁度その時間帯はE年の白河君のバンドの練習時間で、たまたま私はそれを見学していた。突然の大スターの登場に練習場は一時騒然となった。益沢さんは「練習の邪魔をして申し訳ない」と謝りながらも「良かったら一緒にセッションさせてもらえないか」と申し出た。その偉ぶらない態度と優しい笑顔に私は一瞬にしてやられてしまった。

 白河君がギターの場所を譲り、益沢さんを囲んでのセッションが始まった。ベースの寺久保君は感動なのか緊張なのか直立不動で畏まっている。最初は例によって肩慣らしのブルースだ。益沢さんがシンプルでブルージーなリフを奏でる。もうそれだけで私は鳥肌が立った。寺久保君はと言えば、これまで見せたこともない真面目な顔で必死にビートを刻んでいた。ソロに移るとクリアな音色と堅実なテクニックで次から次へと華麗なフレーズを紡いでいく。ドラムのD年の羽鳥俊君もピアノのD年の天谷敏子嬢も必死でそれに付いていく。益沢さんのソロに続いたのはE年のトランペットの徳光啓吾君だ。圧倒的に気後れする状況で、彼は照れくさそうにリフを少しフェイクしただけのソロを取った。それは逆にマイルスのようでもありなかなか良かった。ラストテーマは再び益沢さんのギターに戻り一曲目が終わった。練習場は一同の大きな拍手に包まれた。

 二曲目はその場にいた私にも声が掛かり、私は敏子嬢と交代してピアノの前に座った。白河君も加わっての二曲目はスタンダード・ナンバーの「There Is No Greater Love」をやろうということになった。益沢さんがミディアムのテンポを示し、テーマはトランペットの徳光君が吹いた。その後1コーラスずつトランペット、白河君のギター、私のピアノとソロを繋ぎ最後に益沢さんが圧巻のソロを披露した。私も寺久保君を笑えたものでは無かった。カチカチに緊張して気が付くと曲が終わっていた。時間にして三十分ほどだっただろうか、セッションを終えると益沢さんは「これからちょっと『MOZU』に行ってくるわ」と言い残すとサンダルの音をペタペタと響かせながら長屋を去っていった。残されたダンモの部員は皆しばし放心状態だった。『一体今のは何だったんだ?』『ひょっとして夢?』しばし練習場に静寂が訪れ、そして次の瞬間には大歓声が上がった。白河君のバンドはもう練習どころではなかった。誰もが興奮して大声で話し始めその場はカオスと化した。この後すっかり興奮した寺久保君と私がその余韻に浸るべく「DUO」に向かったのは当然の成り行きだった。


       ♪

 
 そして季節は七月を迎えた。いよいよ就職に対して真剣に向き合い始める時期でもあった。俗に有名大学と言われる大学生にはリクルートや毎日コミュニケーションズといった就職情報会社からそれぞれ段ボール一箱分の様々な就職情報誌が送り付けられて来るという話は聞いていた。どこで住所氏名を入手するのかと少々不審に思わないでもなかったが、私も例外ではなかったようで、アパートにはその段ボールが届けられた。中には様々な切り口で企業を紹介する雑誌がギッシリと詰まっていた。ゼミの仲間などもそろそろ具体的に就職に向けて動き出しており、授業で顔を合わせたときも話題は「どこの会社を受けるか」など就職に関すること一色になっていった。いよいよもって私も身の振り方について覚悟を決めなくてはならない状況に追い込まれてきたということだ。

 これまでずっと『卒業後はどこか企業に就職して普通のサラリーマンになるんだろうなあ』と漠然とイメージしてはいたが、本当にそれで良いのかを含めて最終的な結論を出さなければならない。それにしても自分が何がしたいのかがやっぱり良く分らない。ジャズ・ミュージシャンの道もモノ書きの道も自分にはそれで身を立てていけるほどの才能は無いと自ら見切りをつけていたが、それも失敗することを予測した上で逃げただけのことかもしれない。実際成功するか失敗するかはやってみなければ分からないことだ。しかしその道を避けたということは、要は『いかに貧乏しようともその道に進むのだ』というほどの圧倒的情熱は無いということでもあった。浪人時代にさんざん頭を悩ませ結論を大学に先送りしたものの、そのとき考えた以上の道はやはり見つからなかった。それは経済的な安定と創造的活動という私が望む二つものを同時に達成できるような仕事を見つけることだった。問題はどのような分野の仕事が自分に適しているかということだ。製造業なのか、マスコミ関連なのか、商社なのか、金融業なのかさっぱりわからない。こっちに向いているかと思うと、次の瞬間にはあっちの方が向いていそうだと思う。いろいろ考えてみてもいつも堂々巡りだ。自分一人で考えてモヤモヤするときは誰かに話してみることも一つの手かもしれない。私はトリオの仲間に相談してみることにした。


 ある日の練習後、DUOでの反省会には珍しくベースの外山君も同席していた。たまたま私たちの練習を見学に来ていた彼を、久しぶりに一緒に飲ろうと私が誘ったのだ。いつもの一番奥のテーブルに座り、新しいホワイトを一本入れて乾杯した。智明が加わってからのレギュラーは良い感じで進んでいるようだ。例によってしばらくとりとめもないバカ話をしたところで私が切り出した。

 「実はさ、今日はちょっと皆の意見を聞かせてもらいたいと思ってることがあるんだ。いや、ジャズの話じゃなくて俺の就職の話なんだけど。」

 「そうかあ。もうそういう時期かあ。俺には縁の無い世界で何にも分かんないぞ。」

 外山君の言葉に

 「俺らもあと一年先の話で全く実感も無いし情報も無いよ。ましてや柏木の将来を左右するような重大な話じゃないか。迂闊なことは言えないよ。」

 と赤坂君が続けた。

 「もちろん最後には自分で決断するから、そう改まらないで素直に思うところを言ってもらっていいんだ。いろんな道がある中で、一般の民間企業に就職するってこで大筋は決めているんだけど、実際どういう会社に進んだら良いのか迷いに迷っちゃってさ。」

 「こんなことがやりたいとかないの?」

 と外山君。

 「そうなんだよ。そこなんだよ。確かにさあ、ジャズを始めとして音楽全般が好きなのは間違いないんだけど、サラリーマンになるって割り切ったら敢えて音楽関係に拘るのも違うかなという気もするんだ。逆に距離を置いた方が音楽との良い関係を続けていけるようにも思うし。」

 「なるほどね。わかるような気がするよ。」

 赤坂君が大きく頷いた。

 「じゃあ音楽関係以外で何かこれってのはあるの?」

 寺久保君が真面目な顔で尋ねる。

 「それが無いんだよなあ。例えばマスコミ関連の仕事がしたいとか、医療関係の仕事がしたいとかそういうのが。でもやっぱり経済的には安定したいんだよね。上京してからの生活は本当にカツカツで苦しかったし。だから正直良い給料は欲しい。でもカネのためだけに働くってのはどうにも出来そうにもないんだな。それにこんな俺の性格だから、上から『これをやれ!』って一方的に命令されて働くのも長続きしないようにも思うんだ。出来ることなら、何か創造的な仕事を若いうちから任せてくれるようなところがあれば理想的なんだけど。」

 「今の話を聞いてると、業種で仕事を選ぶって感じではなさそうだよね。だったら業種は一切無視して、給料が良くて創造的な仕事をやらせてくれそうな会社をピンポイントで探すしかないんじゃないのか?」

 赤坂君が鋭い指摘をした。

 「そうか。業種で考えないってことか。確かにそうだよな。」

 私は呟いた。

 「柏木には日本で一番給料の良い会社に就職してもらって、時々そのおこばれにあずかるってのが俺達にはありがたいな。だよな。」

 そう言うと外山君は赤坂君と寺久保君の顔を見てニャッと笑った。

 「なるほどなあ。じゃあ給料の高いとろを色々調べてみるか。ありがとう、いろいろと参考になったよ。」

 私はそう言うと、もう一度乾杯を促した。

 「すごいよなあ、柏木は。こっちから会社を選べるんだから。俺なんかきっと入れてもらえる所に潜り込むしかないんだろうな。」

 寺久保君が最後にポツリと呟いた。

 「いやいや、いくらこっちがその気でも向こうがどう思うかは全く別の話。でも、先ずはどこの会社の門を叩くかをこっちで決めなくちゃならないだろ。今はまだそういう段階ってことだよ。」

 私がそう言うと寺久保君は力なく微笑んだ。

 『何でお前が暗くなってるんだよ』私は心の中で彼に突っ込みを入れると、彼のグラスにウイスキーを注ぎ、今年入った女子部員の話題に切り替えた。


       ♪


 就職情報誌と格闘する間にも時間はどんどんと進み、いよいよ私にとって最後となるダンモの夏合宿を迎えた。今年も合宿場所は志賀高原の熊の湯にある「志賀リバーサイドホテル」 私にとっては勝手知ったる場所であり道のりでもあった。今年も大勢の入部者があり、意外にも合宿参加者も例年を大きく上回った。それに伴い運搬すべき楽器類も増え、結局大型バス三台を貸切ることになった。機材車もおんぼろハイエース一台では間に合わず、ピアノのレギュラーであるD年の神保亮治君が自前のタウンエースを供出することになった。ハイエースは赤坂君が運転し外山君が補助についた。タウンエースの運転はもちろん神保君でその補助役として私が同乗することとなった。今回第二機材車のタウンエースに積み込むのは神保君のフェンダー・ローズのスーツケース・ピアノと私のステージ・ピアノのエレピ二台。部員一同は小熊講堂前に集合しそこからバスに乗り込んでの出発だったが、タウンエース組は大学には寄らず、直接私のアパートでエレピを積み込んで志賀高原を目指した。当時はもちろん携帯電話など無く、道中お互いに連絡を取り合う方法も無い。大学を出発した大キャラバン隊とは別行動の私たちは、今どういう状況なのか全く判らないままひたすら志賀高原を目指した。

 それにしても新車のタウンエースは快適そのものだった。あのハイエースとは比ぶべくもない。トランスミッションはオートマチックで滑らか。シートもしっかりしているしカーステレオも装備されている。さすがにエアコンは無かったが、昨年のことを思えば天国だった。神保君の用意してくれたカセットテープを次々にかけながら私たちは意気揚々と高速道路を飛ばした。しかし高速はアッという間に終わり、ダラダラと一般国道を北上するに従い例の暑さが襲い掛かって来た。やはりこの辺りまで来ると暑さと疲労でドライバーは少しおかしくなってくる。神保君もどんどんテンションが上がって来た。彼ばかりではない、それは同乗の私も同様だった。彼のお母さんが用意してくれた冷えたネクタリンを齧りながら二人で音楽に合わせて奇声を発するようになっていった。下半身は半ズボンにサンダルとしっかり暑さ対策済み、上半身はTシャツの袖を肩まで、裾は胸まで捲し上げて半裸に近い格好だ。二人は変なハイテンションで大笑いしながら先へ先へと進んだ。

 そして夕方少し前、私達の第二機材車が一番早くホテルに到着した。遅れること四十分大型バスが続々と到着し、しんがりは苦し気に息をするかのようなあのハイエースだ。何とか全員が無事に辿り着き、いよいよ今年も楽しい夏合宿の始まりだ。順調にスタートした合宿だったが問題はその翌々日に起こった。きっかけは、そうあの「キーム」だった。その噂は今年もC年メンバーに事前に広まり、それを忌避する者は合宿への参加を見送っていたのだが、それを全く知らずに参加した強者がいた。そしてその洗礼を頑なに拒絶し、「こんな所には居られない」と深夜に一人徒歩で山を降りてしまったのである。同室のメンバーから報告を受けた幹事会は大慌てとなった。ここは公共交通機関が一切ないような陸の孤島ともいえる場所だった。まして灯りも無い深夜に徒歩で山道を下るというのはいくら若者とはいえ危険だった。取るものも取りあえずマネージャーの赤坂君と幹事長の後藤さんがハイエースに乗り込んで捜索に向かった。そして約一時間後無事に本人を連れて戻って来た。その後三人で話し合いが持たれたのだが、本人の退部の意志は極めて固く、翌日赤坂君が草津温泉のバスターミナルまで送り届けて何とか一件落着となった。

 近年稀に見るなかなかの事件だったが、それも大きな影響を与えることは無く、それ以後も合宿全体は順調に進んでいった。私の練習時間は自分のトリオの一枠だけで、時間的にも余裕があった。その時間を私はC年のピアノのメンバーの練習を見ることに充てた。名前と顔を覚えることが目的で、特に指導らしきことも何もしない。今年もピアノ・セクションは圧倒的に女子部員が多く、その指導はD年の女性陣にお任せだった。今年は天候に恵まれたこともあり、私は外を散策したり日光浴するなど、これまでになく高原の夏を大いに楽しんでいた。

 ある晩、恒例のジャム・セッションが行われている大広間にC年のヴォーカルの塩谷しおり嬢を伴ったレギュラー・グループが登場し、チック・コリアの「500 Miles High 」ほか数曲を披露した。塩谷嬢はピアノの神保君と同じ文教大学付属高校ジャズ研の一年後輩で、C年とはいえ充分なキャリアがあった。神保君との関係でこうしてセッションにヴォーカルとしてお呼びがかかったのだろう。バックを務める質の高いレギュラー・グループの演奏に支えられて、塩谷嬢が気後れすることなく歌い上げる。それは間違いなく素晴らしい演奏だった。私と一緒にそれを聴いていた同期のトランペットの山垣君は誰憚ることなく大粒の涙を流していた。それを見た私が「どうかしたか?」と尋ねると、「音楽っていいなあって、感動しちゃってさ」と答えるではないか。ちょっと見リーゼントに口ひげと時代錯誤のツッパリ兄ちゃん風の山垣君だったが、その心根は少女のように無垢で繊細だった。

 しかしその光景を私はもう一つ別の観点から眺めていた。『これはひょっとするとダンモ内部の火種になるかもしれない』 その理由は先輩にあたるD年のヴォーカル陣の置かれている状況と塩谷譲のそれがあまりに違い過ぎるということだった。実力主義といえばそれまでかもしれないが、それはレギュラー・グループが塩谷譲だけを特別扱いしていると見えないこともなかった。と言うより誰がどう見てもそうとしか思えない。少なくともD年のヴォーカル陣がレギュラーと同等クラスの練習機会が与えられていれば、実力の違いも素直に認められるのだろうが、現実はそうではなかった。同じD年バンドの中で満足な練習もできていないのが実情だ。そんな中後輩のC年がいきなりレギュラー・グループに抜擢されたとなれば先輩陣は当然面白くない。『これは何か手を打つ必要がありそうだな』私はそう独りごちつつ、これが変な形の感情的対立に発展しないことを願っていた。

 幸い合宿期間中に私が怖れていた女性陣のトラブルが起きることもなく、合宿は無事に最終日を迎えた。今年の演芸大会では神保君の女装をメインに据えたピアノ・チームが昨年に引き続き優勝を攫った。そして翌朝いよいよ帰途に就くという段階になって、ピアノのC年の女子部員である羽生友梨亜嬢が発熱してぐったりしているという報告が入った。赤坂君と私が様子を見に行くと、確かにかなり辛そうだ。しかし体温を測ってみると三七度台で本人も大丈夫だという。二人は相談して途中容体の変化に柔軟に対応できるよう、小回りの利く神保君のタウンエースで彼女を移動させることにした。高校時代からの親友の日野ますみ嬢に付き添ってもらい、途中病院で診察治療を受けることも含みつつ、様子を見ながら入間市の彼女の自宅まで送り届ける役目を私が引き仰せつかった。

 バス組とハイエースを見送って、神保君、私、羽生嬢、日野嬢の四人が乗り込んだタウンエースもゆっくりと山道を下り始めた。彼女にはできるだけ眠っていくようにと話し、彼女もそれに大人しく従った。少しずつ水分補給をしながらの道中となったが、幸い羽生嬢の体調は悪化することなく、ひと眠りした後は顔色も良くなってきた。山を下り切り市街地に入ってからはある程度スピードを上げても彼女の気分が悪くなることも無かった。懸念されていた前橋周辺も渋滞することなく、ありがたいことに今日の暑さは行きほど過酷ではなかった。後半は四人でくだらない雑談を交わしながらのドライブとなった。東松山から関越自動車道に乗ると所沢インターまではあっという間だ。何とか無事に彼女を自宅まで送り届けると、さすがに私も神保君も大きく安堵の息を吐いた。再び所沢インターに戻り次は日野嬢を新宿区中井の自宅に送り届けた。次の目的地は椎名町。山手通りを北上し十五分ほどで私のアパートに到着した。神保君の手を借りてエレピを運び入れ元の場所に設置して任務完了だ。さすがに夏の長い日もかなり暮れかかってきた。アパートの窓を開け放って冷えたコーラを飲みながら私は神保君を労った。二人でしばらく談笑した後、自宅へと戻る神保君のタウンエースを私は感謝の気持ちを込めて見送った。


       ♪


 いつもの年なら夏の暑さに辟易して夏休みになるやいなや北海道に帰省していた私だったが、今年はダンモの合宿が終わってもまだ帰るわけにはいかなかった。これからゼミの夏合宿が待ち構えているのだ。合宿をするかどうかはゼミの自主的な判断にされており、何が何でもやらなくてはならないという性質のものではないのだが、ここ西北大にも何でも真面目にやらなければ気が済まないヤツはごく少数ながら居るもので、彼らが音頭を取る形で私の所属する中野ゼミでも夏合宿が企画された。そして『最後の年だし、それも良かろう』と多数決で二泊三日の実施が決まったというわけだ。場所は群馬県の榛名湖畔に建つ国民宿舎で、現地集合現地解散だ。

 私はゼミの中でも親しくしている以前の語学クラスの仲間たちと上野駅で待ち合わせをして急行「草津」に乗り込んだ。向かうは渋川駅。自動車と列車という違いこそあれ、途中まではダンモの合宿で進んだルートをまた辿ることになる。渋川駅からはバスに乗り換えで伊香保温泉まで行き、更に乗り換えて榛名湖温泉へと向かった。割り当てられた部屋に荷物を下ろすやいなや、そのうちの一部屋を麻雀部屋としてフロントから借り出した二卓の麻雀卓をセットした。幹事の説明によると中野教授は急遽所用が入り今回の合宿には参加できないという。その報を受けて、ここから二泊三日に渡る怒涛の大麻雀大会が開かれることになった。卓を囲むメンバーは半荘終了時点で二位と三位が交代するというのが基本ルールだった。最初は誰もが抜けるのを嫌がっていたのだが、食事時間だけは別として延々と続くうち、今度は誰もが二位か三位になることを目指し始めた。『トップかビリにさえならなければ、抜けて眠ることが出来る』皆の目標はその一点に収斂し始めた。しかし一度抜けて眠りについたかと思うと、またすぐ起こされての繰り返しでまともな睡眠など望むべくもない。そんな状況になっているにもかかわわらず、誰一人として「もうこれでお終いにしよう」と言い出さないのが麻雀の麻薬的なところなのかもしれない。

 こうして迎えた最終日、中野教授が突然合宿に姿を現した。しかしすぐにトンボ返りしなくてはならないという。教授はちゃんとした合宿授業を行えなかったことを詫びた。私たちは宿舎の玄関前で教授を囲んで集合写真を一枚撮り帰途に就く師匠を見送った。学生である私達に一言詫びるためにわざわざここまで足を運んでくれる、中野教授は心優しい年の離れた兄貴のような先生だった。先生が去ったことを切っ掛けに私達も宿舎をチェックアウトしこれにて合宿は終了、解散となった。

 三々五々帰途に就き始める中、「一緒に帰ろう」と矢野君を誘うと、彼は「湖で少し釣りがしたい」と言い出した。私は彼に付き合うことにし、先に帰る仲間たちを見送った。近くの釣具屋で釣り竿他一式を借り、二人は湖に突き出した木製の桟橋に腰を掛けた。あの過酷な麻雀大会にやられてしまったのか、矢野君はいつもの元気が無い。しばらく黙って釣り糸を垂らすものの暑い真夏の昼間である。当然ながら釣れそうな気配など全く無い。にもかかわらず矢野君はじっと黙って浮きを見つめている。どこか様子がおかしい。

 「何かあったのか?」

 と私は尋ねた。

 最初は口を開くのを渋っていた彼が、しばらくしてボソッと呟いた。

 「彼女と終わっちまってさ。」

 「お前さん、付き合ってた彼女がいたんだ。」

 「ああ、実はそうなんだよ。俺が札幌に引っ越す前に東京の高校で知り合った娘なんだけどね。当時はガキだったし遠距離になって自然消滅した形になってたんだけど、上京して偶然再会したんだ。それから一気に付き合いが深まってさ。その彼女ってのが実は演劇をやっていて、まあ女優の卵みたいなもんなんだ。その彼女に芸能界デビューの話が舞い込んできてさ、事務所から『男関係を整理しろ』って厳命があったんだ。結局彼女は事務所に従うことを選んで、俺を捨てて芸能界を取ったってわけさ。」

 そう呟く矢野君の背中は寂しそうだった。彼はハイソで順調にキャリアを重ね、レコードも二枚出し、今や代表者であるバンド・マスターにまで登り詰めた。それだけではなく、美しい女優さんが彼女だったなどとは何と順風満帆な学生生活だろう。しかしそんな彼が今やこうして打ちひしがれている。彼にとっては初めて直面した大きな挫折だったのかもしれない。そんな彼に私は掛けてやれる言葉を何一つ持ち合わせていなかった。その後も二人で黙って釣り糸を垂らしたが、当然当たりの一つもない。しばらくして意を決したように矢野君が「そろそろ帰るとするか」と切り出した。上野まで私と矢野君の二人旅だ。しかし帰りの列車の中でも矢野君は独り物思いに沈んでいた。そんな彼の傍に私はただただ黙って座っているだけだった。上野駅に到着した私たちは「じゃあまたな」と軽く手を挙げて、何事も無かったかのようにそれぞれが向かうホームへと歩き出した。


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