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文字数 11,771文字

 リサイタルが終わったことは私の学生生活の大きな区切りとなった。あとは卒業を待つのみ。そしてその先には全く未知の社会人生活が待ち構えている。中学から高校そして大学と、数年毎に春先は大きく環境が変化し私は毎回不安の淵に突き落とされてきた。そこから何とか楽しみを見出せるまでに順応したかと思うとまた振り出しに戻るという繰り返しだ。そして今度の春の変化はこれまでとは全く異質なものになる。学生というお気楽な身分から本当の意味での自立・自活が求められることになる。皆が羨むような企業に就職するということは、それは周囲がとんでもない俊英揃いということでもある。『そんな中で私が伍してやっていけるのか』『得意のハッタリがそもそも通用するのか』全ては周りの人間関係次第ということはこの歳になってようやく判り始めてきたが、それはこれまでとは次元の異なる新たな不安の芽生えでもあった。そんな私にとって友梨亜は唯一の心の支えだった。彼女との将来を考えることで、私はそんな不安に真正面から立ち向かう勇気をもらっていた。

 私の友梨亜に対する情熱はここにきてどんどん高まってきた。一方の友梨亜。その心の内を窺い知ることはできなかったが、彼女にとっても私という存在の重みはどんどん増しているように感じられた。恋のエネルギーというのは測り知れない。二人の心はその炎に翻弄されるかのように一気に燃え上っていった。そして二人きりで私のアパートで過ごしたある夜、私たちは結ばれた。私の腕の中で目を閉じてまどろんでいる彼女を私は心底愛しいと感じていた。このまま朝までずっと二人で過ごしたいのは山々だがそれは許されない。かといって、彼女を一人電車に乗せて帰すのも忍びない。私は家庭教師先の宮路のおやっさんの車を借りて彼女を送り届けようと思い立った。私は受話器を取り上げて「鶴の湯」のダイヤルを回した。

 「お、お兄ちゃんか。電話とはまた珍しいね。」

 「実は今日はちょっとお願い事があって。」
  
 「何だい? あんまり難しいことは無しにしてくれよな。」

 「実はこれから車を貸していただけないかと思って。」

 「車?別に使う予定は無いから構わないけど、一体何に使おうってんだ?」

 「実は私にも彼女ができまして、今アパートに来てるんですけど、ちょっと具合が悪くなっちゃって。それで送ってやりたいと思いまして。」

 「おお、そういうことか。お兄ちゃんに彼女がねえ、それは良かった。いいよ、使ってくれよ。こっちに来てくれればキーを渡すから。」

 私は彼女と一緒に「鶴の湯」の裏口を開けた。奥から出てきたおやっさんに二人で挨拶をすると、「こりゃまた可愛らしい彼女さんだ。お兄ちゃん、やったな」とおやっさんは笑顔で車のキーを手渡してくれた。車は本宅のガレージの中にあるという。それは日産ローレルの新車だった。椎名町界隈は戦争中も空襲から免れたこともあって、昔ながらの細い道だらけだ。私は図体のデカいその車を慎重に運転し山手通りに出た。ここまで来れば後は大通りだ。山手通りから目白通りに入り関越自動車道の練馬インターを目指した。カーラジオをつけて音楽番組に合わせ、二人は静かに会話をしながら夜の道を走った。練馬から関越道の所沢インターまではあっという間だった。そこから先は彼女の道案内で進むこと約二十分、無事に彼女の実家に到着した。友梨亜と相談して、今日は挨拶はせずこのまま帰ることにした。私は車を反転させ、自宅前で手を振る彼女をバックミラーの中に見ながら来た道を引き返した。       


        ♪


 年内にはもう一つだけイベントが控えていた。それはハイソの矢野君、美濃山君と約束したクリスマス・セッションだ。日時は十二月の二十二日の午後で決まった。『気心の知れた昨年のメンバーで演りたい』という彼らの要望に従って、私はベースの外山君、ドラムの赤坂君、ギターの須藤君に声を掛けた。外山君と赤坂君からはOKをもらったが、須藤君は別件が入っていて今回は参加できなくなった。私は早速昨年同様渋谷のエピキュラス・スタジオのリハーサル・ルームと録音用機材を予約した。

 そして二十二日当日がやって来た。東京はこの一週間ほど時折強い寒気が入り込み、寒暖差も大きかった。そのせいなのか私はここ数日体調が思わしくなかった。そして今日の朝目が覚めると、まるで二日酔いのようなのだ。頭は鈍く痛みクラクラし吐き気があり、カラダはフラついている。風邪かと思って熱を測ってみたが体温計は平熱を示している。こんな症状を経験するのは初めてだった。しかしホスト役としては約束をドタキャンするわけにもいかない。しかし私独りで渋谷まで出掛ける自信はどうしても持てない。私は友梨亜に助けを求めた。一時間ほどして友梨亜がアパートに駆け込んできた。彼女に介抱してもらいながら、私はゆっくりと外出の準備を進めた。時間の経過と共に激烈な症状は少しずつ和らいできたものの、まだ単独行動できる状態ではない。私は友梨亜に付き添いをお願いしてゆっくりゆっくりと渋谷に向かった。

 何とかエピキュラス・スタジオに到着したものの、体調は本調子からはほど遠い。私は集合したメンバーに「今付き合っている彼女だ」と友梨亜を紹介した。矢野君も美濃山君も特に驚いた風も無い。私は事情を説明して、皆の手を借りながら録音準備を整えた。こうして近年稀に見る体調不良の中クリスマス・セッションは始まった。

 先ず一曲目は肩慣らしのブルース「Straight No Chaser」赤坂君のブラシのカウントで演奏がスタートした。トランペットの矢野君とテナー・サックスの美濃山君がリフを吹き始めた瞬間私は面喰らった。美濃山君のテナーの音色が去年とは全く違うのだ。去年は力強いコルトレーン風だったのが、今年は意図してやっているのかどうかわからないが、半分息が漏れたようなレスター・ヤング風なのだ。しかし遊び心は変わることなく、二コーラス目から大胆にハモリ始めた。最初のソロはトランペットの矢野君。彼の音色は相変わらずだったが、それでも音のパワーを半分程度に抑えている感じだ。今日はお気楽なセッションということもあり、力みを捨てた軽やかな演奏をと考えているのかもしれない。

 四コーラスを終えると美濃山君にバトンタッチだ。彼はいきなりサム・テイラーばりの吐息を漏らすかのようなフレーズからソロに入った。『間違いない。ヤツはわざとやってる』一コーラス目はふざけた感じたったが、二コーラス目以降は本来の歌心が湧き上がったのだろう、速いパッセージを展開するなどグンと意欲的になった。しかし音色は相変わらずだ。やはり今年になって方針転換したのだろうか。彼も四コーラスを吹き切り次は私の番だ。しかし体調不良は隠せない。何とか鍵盤に指を走らせるものの思うように動いてくれない。そのこと自体が更にストレスを募らせる。何とか割り当ての四コーラスを終えてベースの外山君に繋いだ。彼は私とは対照的に絶好調の様子だった。メロディアスなソロを力強く弾いていく。四コーラスのソロをヴァリエーション豊かに弾き切ると、各パートと赤坂君のブラッシュ・ドラムによる4ヴァースを二コーラス。赤坂君の調子も良さそうで、いつもと変わり無く軽快にスイングしている。そしてラストテーマに戻り曲は何とか終了した。

 起き抜け絶不調だった体調も、こうして一曲演奏し終わった頃には多少はましになってきた。何が何だかわからないが、私にとっての音楽にはそういう不思議な力があるのだろうか。今日はフロントの二人をそれぞれ個別にフィーチャーした曲をやろうと事前に話し合っていた。二曲目は今日の日のために私が用意して来た「Autumn In New York」だ。このバラードを矢野君のトランペットで吹いてもらおうというのが私の計画だった。しかし彼にとってこの曲はいわゆる初見だった。いや彼だけでは無い、私自身も演奏するのは今回が初めてだ。私が用意して来た譜面を一度おさらいしただけで本番がスタートした。

 しかし私が四小節のイントロを弾いたところで入ってくるはずのトランペットが入ってこない。やはり彼ほど場数を踏んでいても入りを間違えることもあるということだ。私は改めてイントロを弾き直した。今度は上手く入って来た。やはり矢野君のトランペットの音色は実に艶やかだ。初見ということで多少躊躇いがちではあったが、それでも彼は抑揚をつけながら美しくメロディを吹き切った。それに続いたのが私のピアノ・ソロだ。私はメロディの曲想を損なうことの無いよう、バラードらしいゆったりとしたフレーズを紡いだ。一曲目ほどの体調不良を感じることもなく、想像以上の出来に自分自身が驚いていた。そしてラストテーマの矢野君は前半とは見違えるほどに情緒を込めてメロディを歌い上げ曲は静かに終了した。

 三曲目はテナーサックスの美濃山君をフィーチャーしたカルテット演奏だ。彼は自分が演奏したい曲として「All of Me」を用意していた。自分でも意外だったのだが私はこれまでこの超有名なスタンダード・ナンバーを一度も演奏したことが無かった。美濃山君からコード譜をもらい私は初見で本番に臨んだ。イントロはベースとサックスの二人で八小節、その後ドラムとピアノが入ると打ち合わせをして私はテープ・レコーダーの録音ボタンを押した。そしてイントロが始まった。だがしかし今回は私が入りを間違えた。「すまん、すまん」と皆に謝ってもう一度やり直しだ。

 そしてセカンド・テイク、今度はうまく曲に入れた。美濃山君のレスター・ヤング風の音色は古いスタンダードにはしっくりくる。『最近はこういう嗜好なのか』そう考えれば納得できる。良い意味で変幻自在、彼は何でも対応できてしまう器用な男だった。そのメロディを聴きながら、私は初演にもかかわらず気分良くスイングしながら付いていった。彼のソロは完全なまでにオールド・スタイルだった。そのムードを壊さないようにと私も続く16小節をブロック・コードだけで演奏した。バックでは外山君が堅実にビートを刻み、赤坂君のシンバルが心地良くアクセントを響かせる。私は体調不良のことなどすっかり忘れて演奏に没頭していた。私に続いたのは本日絶好調の外山君のベースソロだ。曲が合っているのかベースが歌う歌う。それは久々に聴いた彼らしいソロだった。そしてラスト・テーマでも美濃山君はオールド・スタイルを全く崩さない。半分息漏れしたように演奏する様はさながら年老いた蒸気機関車を連想させた。最後に唸るような感じでメロディをフェイクして楽曲は終了した。

 スタジオのレンタル時間は残り僅かとなってきた。最後にまた二管編成のクインテットに戻して選んだ曲は「Satin Doll」クリスマス・セッションと銘打ちつつもクリスマス・ソングを一切演奏しないというのも乙なものだ。全く打ち合わせもせず、いきなりイントロ無しで曲が始まった。最初のAメロをトランペットの矢野君が吹き始め、四小節の間ベースの外山君と赤坂君のブラッシュだけが付き従う。そして五小節目の冒頭からピアノの私が演奏に加わった。Bメロは美濃山君のレスター・ヤング・テナーに選手交代だ。そして最後のAメロを二管で一部ハモリながら締め括る。最初のソロを取ったのは美濃山君だ。ここでもオールド・スタイルを崩さない彼だったが、途中何度か意欲的なパッセージを盛り込もうとしていた。しかし指がそれについていかず、音自体にもいつもの冴えが感じられない。『ひょっとしたらこのレスター・ヤング風も練習不足か、あるいはどこか調子が悪いのかもしれない』彼の演奏はどことなく不調を何とか凌いでいるようにも聴こえた。そして続いたのが矢野君のトランペット。そう思って聴いていると矢野君も昨年に比べてピッチが曖昧で不安定だ。

 『これほど楽器に慣れ親しんでいるはずの彼らだ。少し練習から離れたくらいではこうはなるまい。ということは原因はモチベーション?』
 『そうだとすればその原因は私だ。それは申し訳ないことだが、私も生身の人間だ。どうしようもないことはどうしようもない。』

 そんなこんなをボンヤリと考えながら私はソロを引き継いだ。今奏でている音楽に今できる限りのベストを尽くす、私に出来ることはそれだけだった。そしていよいよラスト・テーマだ。冒頭と同様にAメロを矢野君がBメロを美濃山君が吹き、最後のAメロをハモって演奏は全て終了した。

 セッション終了後にはロビーで少しお喋りをした。美濃山君もプロの道には進まず就職の道を選んでおり、「明正生命」の内定を決めていた。そうなると矢野君にとっても美濃山君にとってもジャズ活動は今年が一応の区切りということだ。リサイタルも終わって彼らも一気に気が抜けたのかもしれない。彼らのモチベーションの低下は必ずしも私が原因ということだけではなさそうだ。人間というのは悪い時には悪いことばかり考えてしまうものだ。

 セッション中はだんだん体調も回復してきたように感じていたが、ここに来て私は一気に疲れが出てきた。私は今日参加してくれたお礼を述べてここで解散としメンバーを見送った。私はその場で少し休息を取り、セッションを録音した7インチのオープンリール・テープを大事に鞄にしまうと再び友梨亜に付き添われて渋谷駅に向かった。電車に揺られて椎名町の駅に着いた頃にはもうすっかり日も暮れていた。考えてみれば今日は一日何も口にしていない。「さすがに何か食べた方が良い」という友梨亜の言葉に従って私たちは商店街の蕎麦屋に入り、熱々の鍋焼きうどんの夕食を摂った。その後アパートに着いてからも友梨亜はしばらく私を心配そうに介抱し、夜遅くに帰っていった。


 その翌日も翌々日も友梨亜はアパートに来て私と静かな時間を過ごした。体調は徐々に回復してきてはいたが、まだまだ平常時とはいかない。気が付けば今日はクリスマス・イヴだ。二人で過ごす初めての聖夜は少し洒落た店で夕食をと考えていたのだが、結果的にはこのアパートで友梨亜が拵えてくれたタラちり鍋をつついて終わりだった。それはそれで楽しく心安らぐ時間だったが、私は『体調が回復したら必ずその穴埋めをしよう、彼女との忘れられない思い出を残しておこう』と心に誓った。こうして密度の濃かった一九七九年もいよいよ暮れて行き、私は実家で正月を過ごすべく北海道へと戻った。


        ♪


 今回私が北海道に戻った目的の一つは就職活動の詳細を報告することだった。特に私からお願いして親父の大叔父を巻き込んでしまった富二銀行と、親父の勤務先である北海道電力を結果的にこちらから蹴ってしまうことになった経緯をきちんと説明しておく必要があった。そしてもう一つは友梨亜のことを報告することだった。「彼女がまだ大学一年生ということもあり、近々どうこうということではないのだが、将来的なことも含めて真剣に考えている」と私は正直に話した。両親は特に意見を言うでもなく黙って聞いているだけだった。この正月は実家でのんびりというわけにはいかなかった。一月の半ばからは卒業試験があり、卒論の提出期限も迫っていた。私は三が日が明けて国民大移動が落ち着いた頃、慌ただしく東京へと戻った。

 目下の最大の課題はやはり卒論だった。こればかりはお得意の一夜漬けでどうこうなるものではなく、私も九月に入って以降少しずつ準備を進めてきた。卒論といっても私たちの専攻は理論経済学で、自ら新しい理論を創造して発表するなどという大それたことは誰も期待していない。やれることはあるテーマについてこれまで発表されている理論を引用し、それなりの結論にまとめあげるくらいがせいぜいだ。私は矢野君はじめゼミの親しい仲間とも相談して似たようなテーマで行くこととした。そして各自が参考となる文献を探し出し、お互いにその核心となる内容について情報共有してきた。そのテーマというのが「非価格理論と寡占市場」だった。

 これはゼミ自体の研究テーマであり、私が注目したのは、非価格競争と呼ばれる企業行動の代表格である「広告支出」と「品質改善」のどちらが企業の利潤をより高めるかを論理的に示すことだった。その結論に至る一連の過程を様々な数式やら何やらを示しながら論文形式にまとめあげるわけだが、肝となる個別のパーツともいえるものは何とかこれまでに用意出来ていた。あとはそれを組み上げていくだけなのだが、それはそれでまた面倒な作業でもあった。どうしたってそれなりの時間も手間もかかる。私は友梨亜と過ごすこともダンモの仲間と飲みに行くことも全てお預けにして、十日間集中して卒論製作にあたった。なかなかの苦労の末、私は約百ページの卒論を期限内に完成させ指導教官である中野教授に提出した。

 さあ次は卒業試験だ。こちらは最低限必要な単位が取れれば問題無い。その意味では気が楽といえば楽だった。科目数も少ないし、履修登録に際してはいわゆる楽勝と言われている教授の授業を選択していた。ノート類もゼミ仲間を通じて入手できており、あとはその要点をザッと頭に叩き込むだけだ。さすがにアルコールはもうしばらくお預けだったが、昼間に友梨亜と過ごすことは解禁した。もっとも彼女は彼女で試験があり、二人で過ごす時間は限られていた。こうして一月は柄にも無く学業優先で過ぎて行き、試験も充分な手応えがあった。これで卒業はほぼほぼ間違いない。

 
        ♪

 
 お互いに試験も終わった一月下旬、友梨亜が「一度家に来て欲しい」と言ってきた。それはそうだ。可愛い娘が付き合っているという男がどんな奴なのか、両親が心配するのは当然だった。そして直近の日曜日の午後、私は入間市にある彼女の自宅を訪問した。駅まで迎えに来てくれた彼女に付き従って到着した家は、今どき珍しい大きな平屋建てだった。真っ先に私を出迎えてくれたのはエアデール・テリアのジョン君だった。犬には全然詳しくない私はテリアと聞いて毛むくじゃらの小型犬を想像していたのだが、ジョン君は背が友梨亜の腰の高さ位まであった。聞くところによるとキング・オブ・テリアと呼ばれているテリアの中で最大の犬種ということだ。そのやや手荒い歓迎を受けて私は玄関をくぐった。

 家は和風の作りだった。廊下を進み庭に面した和室の応接間に案内されると、そこに待ち構えていたのは彼女の両親だった。私は廊下に正座して挨拶をした。そんな私に友梨亜のお母さんが「畏まらないでくださいね。そんな家じゃありませんから」と声を掛けてくれた。私は友梨亜に促されて大きな座卓の前に座った。改めて自己紹介をし頭を下げた。友梨亜のお父さんは年齢に似合わず体格が良かった。しかしその本心はともかく、表面上は威圧的なところは無く穏やかというのが私の第一印象だった。お母さんはそれとは対照的に小柄で細身ながら、チャキチャキの江戸っ子という印象だ。私のことは友梨亜からもある程度は聞いているようで、二人は私が殖銀に就職が決まったことを祝福してくれた。

 その後は私のこれまでの経歴の話題となった。十八歳まで生まれ故郷の北海道で暮らし東帝大を受験して失敗したこと。その受験のときの出来事で自分は東帝大向きではないと覚り、京洛大に志望を変更して一年間京都の予備校に通ったこと。その京洛大の受験にも失敗して半ば失意のうちに西北大に進学したこと。この東京での学生生活も当初は苦労続きだったこと。三年生になった頃からやっと諸々が軌道に乗り出し、四年生になってこうして友梨亜と出会うことも出来て今が一番充実している等々。

 気が付けば私は初対面の相手に自分のことをベラベラと話していた。友梨亜の両親がなかなか聞き上手だったということもあるが、私は自分という人間を良く知ってもらいたかったのだろう。自分でも少々意外だったが、この場に臨んで私は友梨亜との将来をはっきりと意識するようになっていた。話題は私の両親のことにも及んだ。私が親父は北電の社員でもうすぐ定年を迎えること、母親は樺太からの引揚者で実家は樺太時代は和菓子屋を営んでいたと話すと、友梨亜のお父さんは自分も大連からの引揚者だと言う。お父さんの語る引揚当時の苦労話を私は神妙に聞いた。そして私も何度も何度も母から聞かされた話を披露した。 同じ引揚者だということが強い共感を呼び起こしたのか、友梨亜のお父さんの私を見る目が少し変わったような気がした。その後二人の距離感はグッと縮まった。

 私は満を持して「友梨亜との将来を真剣に考えている」と宣言した。これには友梨亜本人も少しビックリした様子だった。それはそうだ、私はこれ以前に彼女にその気持ちを伝えてはいなかった。そして「もちろんそれは彼女が大学を卒業してからの話で、それまでに私もしっかり生活基盤を整えておくつもりでいる」とも付け加えた。それに対して両親は直接的な返事を避けた。いきなりこんなことを言われて、何と答えたら良いのか困惑するのは当然のことだ。それはそう言った私自身が十分理解していた。三年先のことなど誰にもわからない。しかし今の私がそう思っているということだけはしっかりと伝えておきたかったのだ。しばらくして友梨亜のすぐ下の妹の伊槻嬢が外出先から戻り挨拶に来た。二歳下の高校生だったが、彼女は友梨亜とはまたタイプの違うスポーツ少女だった。

 その後夕食を是非食べて行って欲しいという話になり、私はありがたく受けることにした。お母さんがその支度をする間、私は友梨亜の部屋に案内された。一目見て私は驚いた。そこにあるのはピアノとベッドだけだったのだ。「勉強するための机とかはどうしてるのか」と問うと、「勉強部屋は離れにあって兄弟三人で使っている」という。どうやらそれが両親の教育方針ということらしい。子供も成長するとそれぞれの世界が出来上がり、自室に籠ってお互いの交流も少なくなりがちだ。それを避けるためにも兄弟三人が毎日同じ場所で過ごす時間を設けているということだった。兄弟姉妹が大人になってからも仲良く居続けるためにはそういう経験が影響してくるのかもしれない。私はそこまで考えたことはなかった。だから我が家では姉と私はあまり仲が良くないのかもしれない。

 しばらくして友梨亜の家族に私が加わっての食卓となった。お父さんと私はビールで乾杯し、その後は日本酒となった。この場では酒はほどほどにしておいた方が良い。私はある程度のところで盃を置き、「そろそろお暇します」と切り出した。お父さんもお母さんも無理に引き留めることは無かった。私はご馳走になったお礼を言い羽生家を後にした。駅までは友梨亜がジョンと一緒に送ってくれた。

 「ねえ、『私との将来を真剣に考えている』ってどういう意味なの?」

 片手にジョンのリードを握り、もう一方の手を私と繋ぎながら友梨亜が尋ねてきた。

 「それはさあ、言葉通りだよ。今だけのことじゃなくて、これからの長い人生のことも考えてるってこと。」

 「それって、私をお嫁さんにしたいってこと?」

 「それはそのときが来たらきちんと言う。」

 「はーい。」

 そう言うと友梨亜は私と繋いだ手を大きく振った。
 

         ♪

 
 昨年のリサイタルが終わって以降ダンモではE年メンバーは事実上引退だ。ただし長屋での練習スケジュールは原則三月いっぱいまで有効だった。この時期私たちのバンドも週一回のセッションを名残りを惜しむように続けていた。ある日練習を終えて私が飲みに誘うと深水君とはずき嬢は所用があるとのことで、久しぶりにトリオのメンバーだけで繰り出すことになった。いつものように「鳥やす」を経由して「DUO」でホワイトをチビチビ飲っていると、寺久保君が私に訊いてきた。

 「ねえねえ柏木、今回の就職活動で殖銀に決めたのは、銀行の仕事がやりたかったってことなのかい?」

 「それがさ、あの時も皆に相談したじゃない。『自分は何がやりたいのか』ってのが良く分らなくてさ。それで赤坂から『業種は一切無視して、給料が良くて創造的な仕事をやらせてくれそうな会社をピンポイントで探したらどうだ』ってアドバイスをもらっただろ。その視点で絞り込んでみたんだよ。そしたら給料の条件で結果的に銀行が数多く残ったんだけど、その中で『創造的な仕事をやらせてくれそうなところ』ってそうそう無くてさ。それで残ったのは結局長信銀くらいだったんだ。しかもその長信銀でもやっぱり自分に合うところと合わないところがあるんだな、これが。ちょうど西北大のジャズのサークルでも俺にはハイソは合わなくて、ダンモが合ったみたいにね。それで最後に唯一残ったのが殖銀だったってこと。」

 「そういうことだったんだ。」

 寺久保君は相槌こそ打ったものの、まだスッキリとしていない感じだ。

 「就職するってことは結局カネを稼ぐってことだから、給料が良いに越したことはないだろうけど、俺にとってそれと同じかそれ以上に重要だったのは、その会社が、いや、その会社で働いている人間が自分に合ってるかどうかっていうフィーリングだったよ。それがピッタリくれば業種も職種も関係ないっちゃ関係ないかもしれない。」

 私は自分の経験を率直に伝えた。

 「それってさ、女の子と付き合うのと似てないか?」

 「ああ。まさしくその通りだよ。この先長く付き合っていくっていう意味でも、結局のところは同じことなのかもしれない。」

 寺久保君はやっと納得した顔をした。

 「それで、赤坂は就職先についてはもう考えてるのか?」

 私の問いに

 「実はさ、俺はもう行きたい先は決まってるんだ。」

 赤坂君はしっかりとした口調でそう告げた。

 「え、どこどこ?」

 寺久保君が真剣な顔で尋ねた。 

 「FM帝都。俺たちってさ中学生の頃からずっと深夜放送を聴いて育ってきたようなもんだろ。でも深夜放送って音楽より喋りがメインって感じがあったじゃない。それはそれで面白いけど低俗って言えば低俗で、大人向きじゃないわな。だけどFM放送はちょっと違ってて音楽がメインでさ。あの有名な『ジェット・ストリーム』なんて個性的なナレーションと音楽のコラボレーションだろ。『気まぐれ飛行船』では流行作家と女性ジャズシンガーがお喋りをしながら音楽の旅をする。『サウンド・イン・ナウ』に至ってはヒット曲の構造を解説して曲本体じゃなくてそのカラオケを流したりするんだ。ワクワクさせてくれるような番組がテンコ盛りだ。そんな番組作りに俺も参加したいって思ったら帝都FM一択なわけよ。」

 「なるほどねえ。そういや最近あのナベサダさんのジャズ番組も始まったよね。何て言ったっけか、あ、『マイ・ディア・ライフ』か。」

 「そうそう、あれもこれからが楽しみだよな。普段聴けない顔ぶれでセッションがあったりするし。」

 寺久保君の言葉に赤坂君が答える。

 「そうかあ。ハッキリとやりたいことがあるなら迷いは無いな。猪突猛進あるのみだ。」

 私はそう言うと赤坂君のグラスに自分のグラスをカチンと合わせた。

 「俺なんか何にも頭に浮かばないしなあ。どうしたらいいんだろ。リサイタルで司会の松山さんに『こいつは一生就職先決まらないんじゃないか』って言われたとき、冗談とは判っていても自分じゃ笑えなかったよ。」

 寺久保君は俯いてそう言うと頭を上げ、情けないような表情で私を見た。

 「そんなに心配するなって。結局はさっきも言った通り相手との相性、フィーリングなんだから。でもその相手もある程度は事前に絞り込まなくちゃならん。その段階ではやっぱり自分のやりたいことをある程度自分で見極めて、それを業種で選ぶか職種で選ぶかしなくちゃならないかな。友達との情報交換も大事だけど、結局は自分のことだから、それに変に振り回されないようにするってのも大事かもしれない。」

 私の言葉に二人は大きく頷いた。

 その後は今年卒業するダンモの先輩たちの就職の話題となった。マネージャーを務めた長峰さんは外資系の海運会社に、幹事長の熊野さんは最近急成長している信販会社に、お世話になったテナー・サックスの深井さんは外資系の食品会社に、アルト・サックスの渡瀬さんと盟友のギターの田島さんは会社こそ違え、それぞれ日本を代表するレコード会社への就職を決めていた。意外だったのが同い年ながら何故か大先輩に当たるピアノの小橋さんだった。当然プロの道に進むのだろうと思っていたのだが、某公営放送に就職が決まったという噂だった。このところずっと会う機会も無く、その真偽は確認できなかったが、あの小橋さんでさえサラリーマンになってしまうと聞いて、私はプロの道の険しさを改めて思い知らされた気がした。それはさておき、誰にとっても決して楽な就職戦線ではなかっただろうが、それぞれ概ね順調に進路が決まったことに私はホッと胸を撫でおろしていた。


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