第3話

文字数 1,452文字

彼女は本物の、額田王なのだ……。俺は幽霊とかSFを信じていなかったが、考えを改めねばなるまいな。

撮影は進み、鵜野讃良皇女が、大海人皇子に嫁ぐ前日のシーン。
話を少し元に戻すと、額田王は大海人皇子の妻であったが、権力者・中大兄皇子(大海人皇子の兄)の命により離縁させられ、中大兄皇子に嫁ぐ。額田王は、讃良が幼き頃より姉のように慕う存在である。その額田王の元夫に自分が嫁ぐことに、讃良は激しく苦悩している。

雨が降っている。
讃良、馬に乗りやってきて、中大兄の屋敷に忍び込む。
額田王の部屋で二人きりになる。

讃良 額田、ほんとうの気持ちを言って。額田はまだ、大海人さまを愛しているのでしょう?
額田王 (目を伏せ、だまっている)
讃良 額田がまだ、大海人さまを愛しているなら、私、大海人さまの元にいかないわ。
額田王 皇女(ひめみこ)さま。わたくしはもう、中大兄さまの妻なのです。わたくし自身が、選んだことなのです。

尾野真千子「額田、ほんとうの気持ちを言って。額田はまだ、大海人さまを愛しているのでしょう?」
額田王「ホホホ。大海人さまには100人を超す側女(そばめ)がいて、200人を超す子供がいるのよ。側女(そばめ)の子供を、わたくしが育てたこともあってよ。わたくしの方から愛想を尽かして、大海人さまの元から出て行ったのです」

「カット! カット!」
野上は叫んだ。
「ちょっとお~。額田王さん、どうしたの、突然。ちゃんと台本通りやってよね」
やばい、尾野真千子が目くじらを立てている。

「額田王さん、ちょっと」
野上はスタジオの隅っこに額田王を呼んだ。

「額田王さん、お願いです。台本通りやってください」
「わたくしは事実通りを言ったまでのことですけれど。今まで我慢していましたけれど、わたくしと大海人さまとの関係がかなり美化されて伝わっているみたいなので、本人としてこれはちゃんと言っておかなくては、と思いまして」
「お願いです。台本通りやってください。尾野真千子を怒らせたら怖いです」
「そうですか。では、仰る通りにいたしましょう」

当初、額田王の出番は前半で終了し、あとは、大海人皇子が天皇に即位した時にちょこっと出るだけの予定であった。だが予想外の額田王の人気の高さに、野上は台本の書き換えを指示し、なんやかんやで彼女の出番を増やした。もちろん尾野真千子への貢ぎ物は絶やさなかった。

すべての撮影が終了し、額田王にはドラマや映画のオファーが殺到した。だが、彼女はそのすべてを断った。

秋気身に染みる晩。
麻布のバーに、ふたりはいた。

「飛鳥時代へ、戻られるのですか……?」
野上は額田王に訊いた。
「はい。戻りますわ」
野上は額田王の眼をじっと見て、言った。
「このまま、この時代に留まりませんか」
額田王は笑ってこたえた。
「愛想を尽かしてはいますが、わたくしはやはり、大海人さまと同じ時代で生を全うしたいのです」

バーを出た。
満月が中天に架かっていた。
酔いを醒まそうと、少し歩いた。風が気持ちよかった。小さな公園へ出た。
先に歩いていた額田王がふり返り、そのまま、ふたりは向かい合った。
そうやって長い間、だまって立っていた。

「お別れですわ」

月の光が額田王を照らし、しだいにその輪郭が溶けはじめた。
野上は思わず駆け寄り、額田王の唇に自分の唇を重ねた。
あたたかい唇だった。

ほどなく額田王の姿は消えた。
野上の足元を月が照らしていた。

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