Ⅰ ♪青年は荒野を目指す その2

文字数 13,050文字

「今や世界は絶滅の危機に瀕している。我々は豊かな文明を築いてきたと同時に「さらに豊かな生活」を合言葉に工場を建て、水や空気を汚し、森林を破壊し、道路を引いて、さらに車を走らせ、騒音や、二酸化炭素を撒き散らし、土に帰らないプラスチックの製品を地球上にばら撒き、食べきれないほどの食べ物を資源と自然を食い散らしながら、撒き散らし、自然豊かな山を削り、家を建て、その日の、必要以上の生活の為に、資源を、自然をむさぼってきた。さらに、我々のような先進国はこぞって自然豊かな、地球の肺ともいえる熱帯雨林を「開発」の名のもとにめちゃくちゃにしてきた。その結果は「もっと豊かな生活」だったのだろうか!いや、ちがう!ストレスと公害と環境破壊にまみれた殺伐とした、生き物が死に行く砂漠だ。開発という破壊は世界を死の淵に追いやってしまったのだ。昨今、隠しているオゾン層の破壊は進んでいる。昨今、言われている温室効果ガスは想像以上に増えている。二十一世紀に入るあたりで、我々は事の重大さに気が付いた。そこで始まったのは節約だった。電気をなるべく使わない、ごみを増やさない、車は電気で走らす。しかし、それで間に合うのだろうか!資源には限りがあるのだ。化石燃料、石油も無尽蔵にあるわわけではない。枯渇している。それに、先進国は生活レベルを落とせない。電気を使わない生活など考えられない。それ以上に電気の消費は増える。暖房や、冷房を止めることはできない。さらに、温暖化は進む。後進国といわれる人口の多い中国やインドが生活レベルを先進諸国並に上げてきている。資源はさらに必要となるし、その人口が、車や電気を使えば、いくら節約したところで、温室効果ガスは増えるばかりである。節約では到底間に合わないのだ。そしてなにより重大なことは、二酸化炭素を酸素に変えてくれる、森が乱開発により減少していることだ。砂漠化が進み、さらに地上の温度は上がる。以前より熱くなった夏を冷房で冷やすために化石燃料で電気を作り、温室効果ガスを増やす。さらに地上の温度が上がり、環境破壊の悪循環がさらに加速するだろう。我々に残された道はなんであろうか?それは、森を作ることである!木が、森が増えることによって、温室効果ガス、つまり二酸化炭素を酸素に変えることができる。それによって、地球の気温が下がり、資源の使用を抑えることができる。また、森は空気をきれいにするばかりでなく、治水力のある大地を作り、水をきれいにすることができる。生物が生きていける環境への回復のサイクルを創ることができるのである!豊かな自然を創り出せば、ストレスと公害から開放されるのだ!地球そのものを救うことができる。「節約」という守りも必要だが「森造り」という攻めの姿勢こそが重要なのです。古来日本では、神社の周りに「鎮守の森」を造り、森を大事にしてきました。それは我々が農耕民族で、治水を重要視している知恵でした。また、自然に生かされているという謙虚な気持ちの現れでした。それがいつのまにか狩猟民族である欧米の「自然を開拓し、支配する。」という尊大な考えに傾倒していきました。間違いの始まりです。しかし、我々のDNAには森との共存という意志は残っています。島国である日本は自然を破壊して住めなくなったら、移住ということができませんでした。だからこそ、先人達は生活保障林として砂防林、防風林、水防林、防潮林、水源涵養林などの森をみずから作ってきました。そういったことをしてきたのは我々日本人しかいないのです。あなた方団塊の世代は高度成長期の波に乗って、乱開発を推し進めてきた張本人だ。しかし、日本人であるからこそ、森を造り、世界を救うことができるのだ!我々の目下の敵は、今までの我々の生活だが、これからの行動より、いままでの我々に打ち勝つことができるのだ!断固、戦おう!立てよ、団塊!」
会場を埋め尽くす数万人の団塊の世代は「ウオオオ」と歓声を上げる。その地鳴りのような高揚感に満ちた響きの中、仁科も洗脳されたかのように目を輝かせて周りの人間と肩を叩き合いながら大きな声を上げていた。今までの贅沢な生活に対する償いの意識はなく、世界を救うヒーローとしての自信に満ち溢れていた。と同時に、団塊としての最後の仕事に向かう連帯感を持ち始めていた。

「おい、終わったど、はよ荷物もってついて来いや。」
作業は何時の間にか終わっていた。ぼんやりと立ちつくす仁科に先ほどより強くない口調で親方らしき男が命令する。荷物を文句言わず休み無く運んだことによって、ある程度仁科は認められたのだろう。上も下も無いはずだが、認められたことに仁科は少しいい気分になっていた。
「仁科さんでしたっけ、私、五条一角といいます。六角って呼んで下さい。教師をしていまして、生徒達からそう呼ばれていました。今朝、他の四人と来たんですよ。それでゲルってよばれる私達が寝泊りするテントを建てたんですよ、いやあー、あれは、よくできてますね。ほとんど佐治さんと与作さんが組み立てたんですが、簡単な造りなんですが、断熱がよく考えられてます。ここは夜、寒いですからね。」
よく痩せた眼鏡の男、六角が話し掛けてきた。仁科はさっきの愚図つきに対して体力的には自分より格が下と判断して、この先、足を引っ張るだろうと考えていたが、雰囲気的に話が合いそうなのは六角ぐらいだろうと判断して、くたくただったが、勤めて笑顔で返した。
「あっ、こちらこそよろしくお願いします。変わったお名前ですね。で、六角さん、私たち五人だけなんですか、本部のリーダーさんとかはいないのですか?」
「明日、技術指導員の方が来るそうです。現地のガイドさんの話だけなので、詳しいことは分りませんけどね。やっぱり、マニュアルとかあるんでしょうからね。私たち、素人ですからね。」
ここで二人して社交的な笑いをする。親方のような男、佐治が一瞬、振り返って睨んだ。その目は現場の人間の何も知らない事務員に対する、特有の蔑みに充ちていた。仁科は敏感に察知して笑いをゆっくりと止め、周りの景色に見とれるふりをした。こういったところでボス格に睨まれたら後の生活が苦痛に満ちたものになる。スーパーで店長を経験したとき鮮魚コーナーの職人と険悪な雰囲気になり三年間いやな思いをしたことを思い出す。自分が上司なのに、年功序列、現場経験、鮮魚職人特有の威圧感がお人よしの仁科の口をつぐませた。争ったところで、次の日から更なる地獄が待っている。この年になっても怒鳴られると、足がすくむ。争いはできるだけ避けたい。
「仁科さん、知ってます?この土地、昔は森だったそうですよ、しかし、紀元前に放牧をはじめてから、どんどん草原になったそうですよ。羊を飼うのに森を切り開く、牧草地になる、羊が増えると、さらに森を切り開く、一度牧草地帯になったら、木が生えても、羊が食べて、その上、踏み均して、二度と木が生えなくなるんです。それを数千年繰り返していたら一面の草原。木が無いから治水ができない。農耕が不可能だから、移動遊牧するしかない。なにやら連中は自分達で生活をどんどん追い詰めているみたいですね。」
教師だった過去を持つ六角は自分の置かれた状況を把握しないで無意識に自分の見識を誇示したいのか、他人事のように自分の知識を楽しそうに話する。佐治がまた睨んだ。仁科は六角の公務員特有の無神経さにイラついたが、「そうなんですか。」と生返事して極力興味の無いふりをした。六角は自分の話を本気で聞いていない仁科の態度に向学心の無さを感じ取り、仁科に蔑みの目を一瞬向けた。そのうち六角も黙った。地平線にオレンジ色の太陽がゆっくりと沈んでいる。それを感慨深く与作が立ち止まって眺めていた。他の四人は広大な大地を照らすオレンジ色の光をただまぶしいと捉えていた。
ゲルが二つ並んでおり、「日本無政府」と書かれた真新しいゲルと五メートルほど離れたところに使い古されたゲルがあり、そこに現地の家族が住んでいる。家長である老人が入り口の横に腰掛けていて、その入り口からは生活の光が漏れていた。そこから民族衣装を着た女性がなにやら皿を持って忙しそうに出入りしている。男が二人、ゲルの外の焚き火の前で低い長椅子を並べている。一人はがっちりとした大きな男で一人は小学生高学年ぐらいの少年だった。子供の方が仁科たちのほうを興味深く眺め、目が合うと、照れくさそうに白い歯を見せた。父親の方は仁科たちの方に目も向けず黙々と作業を続ける。貧しそうに見えたが、強く結ばれた家族の絆が感じられる。仁科は子供の頃の家族をそこに投影した。

仁科の故郷は地方の田舎で、父親は役場に勤める寡黙な男だった。家では父親は絶対的な存在で父親の前では緊張を強いられた。戦争で満州に行ってたらしいが、そのことは死ぬまで聞くことは無かった。後で母親が「お父さんは戦争で辛い思いをしたんだよ。」とだけ一度言ってた事がある。長男だった父の家には祖父もいた。祖父も寡黙な人だった。代々続く仁科の家は古びていたが、掃除だけは行き届いていた。薄暗い裸電球の下、家族八人で儀式のように黙々と慎ましい夕食を食べたことを思い出す。父が築いた家族は清潔だった。現在は仁科の弟が役場に勤め実家に家族と住んでいる。寝たきりになった母の介護を任せきりにしたことを仁科は申し訳なく思っているが、あの家で弟が清潔な家庭を築くことができたことに対して仁科は心のどこかで自覚の無い嫉妬をしている。

「おい、はよ荷物置いてこいや。宴会の準備の手伝いしたろうや。」
仁科は一人、集団から取り残されてゲルの前でぼんやり立っていた。「ああ、はい」と生返事をして、一瞬、自分がどこにいるのか分らなかった。なぜ夕暮れなのだろう。なんで命令されたのだろう。この荷物はなんだろう。思考と行動が一時停止する。ゲルの「日本」という文字を見て、思い出す。急いでゲルに向かう。ゲルの表面は新しいフェルト生地だったが、何度か使われた感じだった。中は薄暗く、柱に頭をぶつけた。痛みに瞬きしながら、薄暗いゲルの中心に古い型のストーブを見つけた。夏とはいえ、夜はストーブが必要になるだろう。目が慣れてくると、ゲルの中が案外広いことに気が付いた。五人の大人が眠ることは十分にできそうだった。ただ、集団で眠ることに抵抗を感じた。入ってすぐに荷物の置いてない、毛布がきれいに畳んである場所を見つけ、そこが自分の当面の寝床になるのだろうと覚悟した。そこに荷物を丁寧に置くと急いで外に出た。
上下紺のジャージ姿の男が長老と聞いたことが無いような言葉でなにやら話をしていた。
「六角さん、あの方は、現地の言葉話せるんですね。」
「ここはロシア語なんですよ。関西人の上野さんはロシアと中古車やカニで商売してたそうですから、ロシア語堪能なんですよ。あ、わたしもロシア文学に興味があったから多少分りますよ。六十年近く生きていたら、何かしら知ってるもんですよ。」
仁科は六角の知ったかぶりに、多少反感を抱いたが、同時にロシア語を話せることに尊敬した。それと同時に仕事で中国人と係わり合いがあったが、ついに中国語を学ぼうとさえ思わなかった自分の尊大さを少し恥じた。
「わたしもね、仕事で海外に行くことが多かったんですが、言葉までは勉強できませんでした。」
仁科は、悔し紛れに自分もなかなか世界を知らない方ではないことをアピールしたが
「ああそうですか。」
と六角に短く返されて撃沈した。気分を害した仁科は何か自分が知っていることはないだろうかと、原住民の方を詳しく観察した。仁科の勤めていた太陽堂は西日本エリアに八十店舗ほど大型店舗を構えていたが、ここで使われているようなものを店先で置くことはまず無かった。テナントでアジア雑貨など扱っている店もあったが、本部勤務の仁科の目の届くところではなかった。意識しないと出来事は経験にならない。
ウランジ共和国の男は青い絹の服を着ている。女は赤い絹の服だった。単純な振り分けだが、説得力があり分りやすい。その色分けされた上着の下に白いズボンを履き、ブーツを履いている。頭の上には王冠のような帽子をかぶっている。
「男の服の青は空の色、女の赤い服は大地の色らしいですね。知ってます?日本語の大地の「ち」の語源は血液の「ち」から来ているんですよ。違う民族でも「血」は「地」であると認識して赤を大地の色としているんでしょうね。母なる大地とはよく言ったものです。そこから動物にしろ、植物にしろ命が始まるわけですから。ちなみに「いのち」の「ち」もそこから来ているんです。祈る血です。」
民族衣装に目をとられる仁科に六角は更なる知識をひけらかす。仁科は「良いこと聞いた」と少しだけ思って「いちいち面倒くさい」と強く思った。それをあからさまに表情に出してみたが、六角は気が付かないで得意な顔をしていた。よく先生が勤まったもんだと仁科は思った。と、同時に娘と息子もこんな浅はかな教師に教育を受けたのだろうかと残念に思った。
「じきに、肉が煮えるそうや。座って待っとけって。」
上野が長老のもとから戻ってくると面倒くさそうにそういった。話は長かったが、ずいぶん要約された。仁科は上野にいろいろとなんて言っていたか聞きたかったが、上野の憮然とした表情を見て、聞くのを止めた。上野が焚き火の前に座り込む。現地の奥さんが忙しそうにしているのが気になったが、言葉がわからない以上、分るものに従うしかない。上野の次に佐治が胡座をかき、与作も長老に一礼して静かに座った。六角と仁科は最後に同時に座った。座った前に奥さんがランチマットのようなものを敷いた。そこへ男の子がやってきてアルマイトの使い古された皿と先がフォークになったスプーンを配ってくれた。
「なんだか、給食の食器みたいですね。」
「鯨の肉でも出すんかのう。」
六角に佐治がとぼけて返すと、一同少し笑った。食事への期待感と懐かしい食器に心が和んだ。焚き火の前で集団で食事することが新鮮でもあるし、懐かしくもあった。奥さんが大なべを抱えてトングで茹でた肉を配った。茹でたての肉は湯気が立ち上っている。
「羊の肉みたいですね。」
仁科はスーパー勤めでの精肉の経験から、肉の種別を嗅ぎ分けた。あとの四人が「へー」とか「ジンギスカンかー」などと関心の声を漏らすのを聞いて少し得意げな気持ちになった。ただし、羊の肉のくせの強さが苦手の仁科は、この先、羊肉を食べる生活のことを思うと気分が優れなかった。羊の肉の次に皿に盛られたのは羊の臓物を煮た物だった。
「ホルモンか、わしゃ、焼いたほうがええのう。タレはないんかのう。」
奥さんが愛想笑いすることも無く立ち去ると、今度は十五才になる娘が鉄のコップを仁科たちの前に並べた。仁科はその少女の顔を見ると思考が止まった。少女は切れ長のきれいな目をしていた。化粧ッ気などなく、体の線が出ることが無い素朴な民族衣装姿だったが、仁科は強烈に女を意識した。夕暮れの薄暗闇の光の加減だろうか、仁科は中学校の初めて女性を意識する頃の気持ちに戻っていた。純朴で汚れの無い思い出。たちまち仁科の頭の中は過去に戻っていく。

高西芳子、吹奏楽部でフルートを吹いていた。良家のお嬢様だった。三つ編みのお下げの黒髪は肩にかかり、走るとき揺れていた。おしゃれ等に無関係な田舎の中学生、恋心は異性に対する純朴な憧れだった。仁科が卓球部の練習を体育館でまじめにやっていると、三階の音楽室から吹奏楽部の間延びした音合わせが聞こえてくる。その中からフルートの音を聞き分けて、高西芳子が演奏する姿を思い浮かべる。吹奏楽部の演奏が終わりかけると、急いで帰りの準備をして教室に戻った。誰もいない放課後、一人で教室に入ってくる高西芳子を思い、胸を高鳴らせて待った。しかし、彼女が教室に戻ってくる前に同じ卓球部の坊主頭の石井が「仁科、帰ろーぜ」とやってくる。仕方なく石井と廊下に出ると、彼女がすれ違いで教室に入る。運がよければすれ違いざまに「仁科君、さようなら」の声が聞ける。彼女の切れ長の目をまともに見ることができない仁科は下を向いたままで「さよなら」とどもりながら返した。仁科は彼女に何も期待していなかったが、切なくときめいていた。ある夏の放課後、石井の登場が遅れて、高西と教室で二人きりになることがあった。教室の片隅から校庭を眺めるふりをしている仁科にかまわず、高西芳子が取り外しができるフルートの先の笛の部分を机にしまって、カバンを持って「仁科君、さようなら」と出て行く。気の無い振りする仁科は「さよなら」とだけ一瞬顔を向けて言う。その瞬間、彼女の切れ長の目、通った鼻筋、薄い唇、きれいな頭の形、白い首筋、膨らみかけた胸元、膝下に見える素足などを集中して、完全に記憶する。彼女が教室を去った後、急いで追いかけて、後姿の記憶を頭に焼き付ける。ごくわずかな彼女の情報を頭の中で繰り返す、頭の中に彼女の立体的な存在ができたところで、爆発しそうな胸の高鳴りをこめかみで感じながら、高西芳子の机の中にある、フルートの笛の部分を震える手で取り出し、一気に口に加える。ほんのわずか酸味の利いた唾液の味が、仁科には甘い蜜のように感じる。高西芳子の口が触れた笛に自分の口が触れる。間接的にキスしたことに罪悪感とそこから来る興奮と間接的に彼女に触れた喜びに快感を覚える。石井の足跡が聞こえると、瞬時に我に返り、笛を戻すと、走って教室を出た。「用事があるから急いで帰る」と遠くの石井に言うと走って家に帰った。田舎のあぜ道を満面の笑みで仁科は夕日を眺めて走った。その夜、自分の部屋に篭ると手で情欲を満たした。

「たぶん馬乳酒ですね。飲みすぎると下しますよ。」
六角がコップを持ち上げると、水割りのグラスのようにコップを揺らした。仁科はその声に我に返り、ささやかな恋心が見つからぬように平静を装った。
「それにしても現地の子は純朴そうでいいですね。日本の最近のあの年頃は女らしさを化粧やら服で誇示したがるもんだけど、彼女にはそんなところが無い。私、岐阜の田舎の育ちなんですが、中学校の頃、あんな子、クラスにいましたよ。飾りッ気がなくて、まじめな女の子、いいですね。」
六角がニヤけて言った。仁科は「そうだね、そうなんだ。」と同意の意見を言いたかったが、六角のニヤけた顔にいやらしさと不快感を感じて、自分の思いを後ろめたく感じた。しかし、純情な思いで好意を持っていると自分自身に言い訳をした。仁科は落ち着かない気持ちで宴の開始を待った。
「あう、あんた、名前なんて言うんじゃ、かわいいのう。」
佐治が女の子に絡んでいる。仁科は佐治の自分勝手な無神経さに苛立ちを覚えたが、同時にその無神経さを羨んだ。自分も話し掛けてみたい。上野がロシア語でなにやら話し掛ける。彼女はこわばった表情で、笑顔を作りながら答えている。
「なんていってるんです?」
我慢できずに六角に聞いた。六角は仁科の顔を見ないで、上野と彼女の方をじっと見ながら答えた。六角も彼女のことが気になっている。
「名前を聞いてるみたいです。彼女の名前はリンちゃんって言うみたいですね。」
「そうですか。」
思い切った行動が出来ない仁科と六角は佐治に対して苛立ちを覚えていた。
「そうか、リンちゃんていうのか、よろしくのう。」
佐治がリンに握手の手を差し伸べた。仁科は「やめろ!」と言いたかったが、そんなことも出来ないでいる。同意を求めて六角の方を見たら、六角の動きは止まっていた。二人してリンの行動をじっと見た。リンは照れたのか、ぎこちない愛想笑いをして、手を握ることなく立ち去った。「ふー」六角が安堵のため息をつく。仁科はそれを聞いて、六角の気持ちを知った。事がややこしくなると思い、仁科は気持ちを閉じ込めることにした。
「おー、嫌われてしまったのう!」
佐治が白髪頭を掻きながら、にこやかに言うと、与作は愛想笑い、上野は無関心、仁科と六角は安堵の笑いと心の中で佐治に野次を飛ばした。
料理も運ばれ、宴の準備が整った。長老が立ち上がると、上野を手招きした。上野は自分の役割を理解して、長老のとなりに立った。長老がロシア語で話し始める。ある程度話すと上野の方を見た。上野は咳払い一つして長老の言ったことを訳した。
「このたびは、遠くから来てくださり、ありがとうございます。あなた方は今日から私たちの友達です。あなた方の仕事をがんばってください。ウランジ民族のご馳走を用意しました。楽しんで、ください。」
 直訳したのか、関西訛りの変な日本語になったが、長老の歓迎に仁科たちは拍手した。長老はウンと頷くと、また話し始めた。
 「私は祈祷師をしています。あなた方の安全を祈り、お祈りをします。」
長老は丸い鏡と飾りのついた棒のようなものを持って、空に掲げると、ぶつぶつと呪文のようなものを唱え始めた。上野が聞き耳を立てたが、ロシア語で無いらしく、首をかしげて仁科たちに分らないと合図を送った。長老は掲げた鏡と棒を振りながら焚き火の周りを回った。祈祷のことよりリンのことが気になった仁科はリンを焚き火の向こうに探したが、彼女やその家族は目を瞑りうつむいている。祈りをささげているのだろう。その姿を美しく思い、じっと視線を向けようと思ったが、仁科以外はリンたちと同じように目を瞑りうつむいていたので、仁科も仕方なく目を瞑りうつむいた。いつもなら、目を瞑ったり、行動に時間を置くと発作的に仁科の頭の中は過去へ妄想へと、現実から離れていき、記憶が飛んでいくのだが、今は記憶が飛んでいくことが無かった。薬を飲んでいないのに調子が良くなった事に仁科は気が付いた。「心が潤うと、自然に解消しますよ。」主治医の佐々木先生の言葉を思い出す。今までくぐもっていた世界が鮮明になり、感覚が鋭くなっていた。長老の呪文がはっきりと聞き取れ、その意味さえ理解できるような気がした。

この大地に入りし者、精霊のもとにおいて健やかに過ごせよ
災いを起こすこと無かれ、災い起こせば罰が下る
その罰は重く、死ぬこともある。
しかし死んでも心配するな
肉体は大地に戻り、魂は新しい器に入るだろう。
そしてまた大地に芽吹く。芽吹きは羊の糧となり、羊は我らの糧になる。
命は大地をめぐる。
精霊のご加護があるように祈る

地鳴りような低い声で呪文を唱えながら焚き火の周りを長老が回る。棒を振り、鏡を掲げる。足音は聞こえなくて、滑るように長老は動いた。その姿を俯き目を瞑る火の周りの人間は見ることが出来ない。火と呪文が大地と人を結びつける。呪文が終わると長老が鳥のような高い声を「キー」と発した。それと同時に一同は打ち合わせすることなく顔を上げた。仁科たちは自然に儀式の中に捕らわれていた。長老は元の場所に戻っていた。馬乳酒が注がれたコップを掲げる。合わせて皆がコップを掲げた。長老がコップに口をつけると、つられるように仁科たちもコップに口をつけた。
ワイン程度のアルコール度数の馬乳酒が口に入り喉に流し込まれた。口当たりはまろやかだが、独特な風味が鼻をつく。しかし、酒には変わりなく、仁科たちはアルコールが熱く喉をならし、体に入ることにより心が和んだ。長老の息子である男と小学生ぐらいのその男の息子が原始的なバイオリンのような弦楽器を奏でる。日本の民謡に似て非なる独特の旋律であるが、酒の入った日本人には心地よく聞こえた。ここに来てから声と風の音ぐらいしか聞いてなかったので、聞きなれないものでも音楽が心に染みる。
「おお、なんか楽しくなってきたのう。」
佐治が酒を一気に飲み干すと、コップを掲げた。おかわりが欲しいのだが、持ってきてもらえなかった。仕方なく上野が立ち上がり、長老に話をすると、二升ぐらい入る酒つぼをもらった。
「なんや、酌もしてくれんのか。」
「そら、文化がちゃうからなー。」
不平をもらす佐治に、なだめるように上野が酒を注いだ。六角が空いたコップを上野に差し出すと「セルフサービスしてくれんか」と上野は壷を置いた。六角は何やら言いたそうだったが、仕方なく手酌でコップに酒を注ごうとしたら、仁科が仕方なく、「まあ、おひとつ」と壷を取って六角のコップに酒を注いだ。六角は機嫌を直して酒を注いでもらう。仁科は、次は自分だろうと、自分のコップを空けにかかったが、六角は注ぐようなそぶりも無く、酒を飲んでいた。気の利かない六角に仁科はイライラしたが、それを見ていた与作が壷を持って黙って仁科に差し出した。「ああ、どうも」と仁科は酒を注いでもらい、仁科も与作のコップに酒を注いだ。仁科は苦手な羊の肉に手をつけた。口に入れると、肉の味と塩の味しかしなかった。羊の臭みも強く、お世辞にもおいしいと言えるものではなかった。だが、しかたないので食べるしか無い。肉を咥える仁科をうらやましそうに男の子が見ていた。まずいものを食べる侘しさを感じ、それを羨む子供が不憫に思えた。
「なんじゃこら、味がせんど。醤油でもあれば食えるがのう。」
佐治が文句言いながら、肉を頬張っていた。与作は黙って食べている。上野はポケットから赤い小瓶を取り出して、ふりかけて食べていた。七味唐辛子だった。
「あっ、それちょっと分けてもらえませんか。」
六角が上野に頼んだ。上野はいやいや小瓶を六角に投げた。六角は自分の肉に振り掛けると、小瓶を上野に投げ返した。上野がその態度に腹を立てて、立ち上がろうとしたが、隣に座っている与作が上野の膝を押さえた。仕方なく上野は座って肉を食べた。仁科は六角の無神経さに腹が立ったが、それ以上に七味唐辛子を借りにくくなった事が悔やまれた。
「わたしも、醤油でも持ってくれば良かった。」
笑みをこぼして肉を頬張る六角。仁科は相手にしないで酒を飲んだ。奥さんとリンが立ち上がり、音楽に合わせて踊り始めた。日本の盆踊りに似たゆっくりとした踊りだった。仁科はリンの手を伸ばす姿、首を傾げる仕草などを食い入るように眺めた。すっかり暗くなった草原に焚き火に照らされたリンの踊る姿が幻想的に浮き出ている。アルコールと音楽が疲れた体に染み渡る。炎の揺れと踊りがゆっくりと同調して見るものに呪いをかける。見る者に高揚感を与える。酔いが回ってきた佐治が立ち上がり、座った四人の方を見てテレ笑いをして、盆踊りをはじめた。
「あら、えっさっさー」
佐治の盆踊りはリンたちの踊りの中で浮き立って、それまでの幻想的な空気を台無しにしてしまい仁科は同じ日本人として恥ずかしいと思ったが、長老が笑い、楽器を演奏する男が笑ったので、場が和み、男の子も喜んで楽器を置いて佐治の踊りに加わった。無愛想だった奥さんも笑顔になり、リンも面白がって笑顔を見せた。その笑顔を見て仁科は胸に矢が刺さるほどの衝撃を受けた。中学生時代以来のことだった。
「ほな、俺も」
と上野が立ち上がり踊りに加わった。阿波踊りのような踊りを楽しそうに踊った。それから奥さんにロシア語で何か声をかけた。奥さんは踊りながら吹き出して笑った。楽器を演奏する男も吹きだして笑い、楽器を演奏しながら踊りに加わった。与作も立ち上がり踊りに加わり、ゆっくりとした変な踊りをした。無表情だった与作も笑顔になっている。男の子が喜んで与作の前でいっしょにゆっくりとした変な踊りに合わせて笑いながら踊る。与作は孫でも見るかのように満面の笑みを浮かべている。これはチャンスだと、仁科も立ち上がり、リンの前に胸を高鳴らせて向かったが、六角が一足先に向かっていた。負けじと急いだが、割り込むように佐治がリンの前に陣取った。リンは無邪気に笑い、佐治の踊りを真似した。その姿にすっかり心を奪われた仁科は近づこうとがんばったが、うまく間合いに入ることが出来なくて、結局、長老と六角の三人で輪になって踊った。仁科と六角はチラチラとフォークダンスの順番が巡ってくるように、次の合間を待ったが、そのまま踊りの演奏が終わった。みんなで自然と盛大な拍手をする。リン達一家にとっては通常の生活にない出来事で大変喜んでいた。仁科たちも現地の人たちと触れ合うことで見知らぬ土地でのこれからの生活に希望が持てた。酒を飲んで踊ったので、必要以上に酔いが回っている。仁科たちは千鳥足だが、まだ飲むつもりでいた。仁科、六角には飲む以上にリンと近づきたかった。
「楽しかった。明日は早いので、今日はお開きやそうや。」
上野が長老の言葉を皆に告げた。短い宴だったが、仁科と六角を除いた全員が満足して宴の片づけを始めた。佐治と与作はリンの父親と一緒に長いすを運んだ。言葉は通じないが、お互い笑顔で作業をしている。上野は長老に頭を下げてお礼を言っていた。仁科は皿を片付けるリンに近づいたが、言葉がわからないのもあったが、リンの存在に緊張して話しかけようにも、足元が震えて、近づくことが出来なかった。こんなことは、中学3年生のキャンプ以来であった。そのときの相手は高西芳子だった。結局話しかけることもなく、そのまま卒業式を迎え、彼女は女子高に進み、二度と会うことがなかった。仁科はそこから人生が狂ってしまったとたまに思うことがあった。勇気を振り絞り高西芳子に思いを伝え、恋愛を成就させていたなら、もっと、ましな人生があったとトラブルに見舞われるたびに思っていた。しかし、自分の勇気、行動力の無さに問題があるとは思っていなかった。タイミングが悪い、運が悪いとしか思っていなかったのだ。
「人生をやり直せるかもしれない。」
仁科は一念発起してリンに話しかける決意をする。酒を飲んで踊っていたので、ずいぶん酔っていたのだが、酒の力を借りて勇気を振り絞ることにした。皿を片付けるリンの後ろ姿を見ながら、仁科は何か声をかけようと思ったが、大きな問題に気がついた。ロシア語をまったく知らないのだ。今わかるのは彼女の名前だけであった。名前を呼ぶしか出来ない。しかし、それは仁科にとってかなりハードルの高いことだった。仁科の胸は高鳴る。まるで喉元に心臓が迫りくる勢いで激しく脈を打っている。青年期とちがって更年期だと、胸の高鳴りはかなりの体への負担となっていた。アルコールも入っていたので、血圧の上昇はかなりの苦しさだったが、仁科はアルコール以上に自分自身に酔っていて、その苦しささえも、体に突き抜ける快楽となっていた。のどに張り付く彼女の名前を外に出すのに必死になったが、なかなか張り付いた言葉が取るに足らない羞恥心で剥がれないでいる。仁科は自分自身を取り返そうとしていた。そして、その取り返すまでの苦難のプロセスを楽しんでいた。つまり必死ではあるが、心のどこかで限界を知り、名前を呼んだところで、人生は変わりはしないと自分に言い訳をして、心底一生懸命になれないでいた。馬鹿になるべきところで、馬鹿になれないでいる。これまでの六十年、そうやって、核心に近づくと、逃げていた。久しぶりに昼寝から目覚めたような聡明な頭脳の持ち主になっていた仁科は、これまでの詰めの甘さに気がついた。失敗してもいい、自分がひらめいた行動に素直に従おう。ようやく仁科は、踏ん切りがついた。アルコールも肩を押していてくれている。仁科は思い切り息を吸い込んで、リンの名前を呼ぼうとした。その瞬間、その息を止めることになる。六角が割り込んできてロシア語でリンに話しかけた。六角はリンの名前を確かめるように呼び、物腰を柔らかく、柔和な笑顔で何か話しかけた。カッとなった仁科は一瞬、真っ白な意識で六角を引き裂いて殺すことさえ考えたが、そんな度胸も無く、また理性と常識が彼をなだめた。心を落ち着けると今度は、何を話しているのか気になって、必死に聞き耳を立てた。とはいえ、ロシア語を解るはずも無く、無駄に時間が過ぎる。その間に六角とリンは和やかに話し込んでいく。嫉妬は殺気となって、鋭い眼光を六角に向ける。憎悪と認めたくない現実と敗北感は、仁科の心をぶち破り、せっかく抜け出した記憶と精神の迷路に仁科を引き戻そうとしていた。仁科の記憶は中学の卒業式に飛ぶ。
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