1 退職の日

文字数 579文字

 太鼓と(かね)の音が、どこか遠くのほうから聞こえてくる。祭りの練習だろうか。そういえば、提灯を玄関先に吊るした民家があった。
 いつまでも日が高いが、時刻は夕方の五時をとうに過ぎている。そんな午後の街中を、疲れた足どりで私は歩いていた。その風貌には不釣り合いな、花束を手にして。

「サラリーマンなんて、むなしいものだ……」

 独り言のようにつぶやく。見慣れたこの道を通勤で歩くのも、今日が最後だった。そう、私が手にしているのは、送別で貰った花束なのである。

 永年勤めていた会社が定年に達した。それは今を去ること数ヶ月前の、三月末日のことである。だが、会社の業務立て込みという都合から、引続き私は嘱託社員として勤務していた。
 そして仕事も一段落した今、晴れて最後の日を迎えたという訳なのだ。しかし何の感慨もなかった。形式的に花束なんぞを頂いたが……

 壁際の時計は定刻を示していた。だが事務室の誰もが、まだ電話対応に追われている。決して定時には片付かない仕事。それはいつもの光景ではあった。ならば、そぉっと帰ろう。
 私は、おもむろに立ち上がり、出口に向かって歩いた。女子事務員がそれに気づき、席から立ち上がる。その表情は、何かを言いたげだった。私は、それを制するかのように左手を上げ、閉じたチョキの形に指を立てる。

「アデュー……」

 小さな声でそうつぶやき、部屋を後にした。

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登場人物紹介

今年、定年退職しました

クソみたいな私の人生、笑っちゃうよね…

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