第14話

文字数 4,010文字

8 
  
 私は愚か者だった。
目を覚ますと出張保健室(競技場の医務室)の天井。部屋に差し込む西日が眩しい。
私は大惨敗の上にぶっ倒れて、大繩の出場もできなくなった。一か月分の生活費とクラスの信頼を同時に失った。
「タヌキって美味しいのかな」
 ポケットから勝生徒投票券(単勝)を取り出して、まじまじと眺める。何度見直しても外れの投票券。もう開き直って笑うしかない。
「自分に賭けていたんだね。どおりで必死だった訳だ」
脇に目を遣ると空席のパイプ椅子と美作さんの姿。さっきまで茜もいたのだろう。離席は自分自身の出番が近いためだと思う。
「それじゃあ説明の義務を求めてもいいかな?」
微かに上ずる彼女の声音から苛立ちの情を汲み取って、私は額に冷や汗を浮かべる。
「ええとね、ヒート形式競争はスローペースだと前ポジションが有利。ハイペースだと反対に後ろが有利になるんだって。だから三回連続でハイペースに設定して、差し切り勝ちを目論んでいたんだ」
「ペースセッティングのためには先頭に立つ必要があったんじゃない? 先頭が速ければ自然と後ろも速くなるし反対に遅ければ後ろも遅くなるんでしょ」
「そこで三年四組の陸田君にラビットをさせていたの。無理にでも先頭に立って絶対にハイペースにするように命令していた。彼は良くやってくれたよ」
 ペースのセッティング係はラビットと呼ばれる。その起源はドッグレースらしいけれど、私はよく知らない。
「彼がラビットを引き受けてくれた理由は訊かないで。密約だから」
「別に興味もないよ。そんなことより訊きたいのはラビットが上手くやって仲真さんは後方にポジションをとった。つまり、全てが想定通りだったんだね?」
「……まあ、そこからが想定外に見舞われちゃって」
私は痛む上半身を起こして、やおらに眉根を揉む。

 一走目。違和感を覚えたのは最終直線。私は最後方に控えてレースを進めていた。
「実況が「ペースは速めだ!」って叫んでいたでしょ? 私の思惑通りの展開だった」
前が不利のハイペース展開。大捲りのビジョンが完璧に見えていた。
凄く速い逃げをみせた陸田君はしっかりと第一コーナーで撃沈。だけれど、前目の有象無象共の足色は衰えない。
「確かにおかしいね。ハイペースなのに前が残るなんて」
整備直後の芝ならレースが流れた上での前残りも起こりうる。でも最近に芝の手入れが施されたって話はない。つまり、前残りは全く別の要因のはずなのだ。
「私がギアを上げた時にはもう手遅れ。頑張って先頭まで迫ったけれど、交わしきれずに有象無象Aと同着でゴール板を潜り抜けた」
ハンデキャップのリュックが双肩に深く沈み込む。トップギアの時間が長かった分、疲労は想定よりも大きかった。
「デッドヒート!」
ゴール板を通過した直後、叫ぶ審判と湧く観客。異様な熱狂に包まれる競技場と実況席。
「初手からデッドヒートだあ! 今年は荒れるぞお!」
 
「どうして前目の走者は撃沈しなかったんだろうね」
私が言葉を切ったタイミングで、美作さんが呟く。
「美作さんは実況がハイペース、スローペースをどう計測するのか知っている?」
「ええと、確か先頭の走者の二百五十メートル通過タイムじゃなかったっけ?」
「その通り。先頭の通過タイムが判断基準なんだ。私の頭からはすっかり抜けていたよ」
 今にして思えば口惜しい。どうして、こんな簡単な事実に気が付けなかったのだろう。
 ……一端、前残りの謎は措いておいて続き。二走目。
 芝、右回り。一走目と全く同じ条件。ゴムチップコースにも左回りにも変更されず、全く同じ条件。一走ごとに条件が変わるはずだと聞いていたからおかしいな、とは思った。
 一走目と同じ展開。破滅的な大逃げを打つ陸田君。ハイペースのはずなのに垂れてこない前目の有象無象共。トップギアでも差し切れず、有象無象Bと並んで先頭ゴールイン。
「またもやデッドヒートの判定! 二回連続のデッドヒート!」
 やかましく喚く実況。始まる三走目。
やっぱり芝、右回り。一、二走目と全く同じ条件。
一走目、同着。二走目、同着。そして、三走目。三連続同じ条件での出走。

「ちょっと待って、何度も話の腰を折って悪いけど仲真さんはデッドヒートも把握せずにいたの? ルールも理解していないくせに、あんなに強気だったの?」
 ……返す言葉もないです。
「三走目の途中でようやく勘づいたよ。私がまだ、ゼロ勝だってことに」
「呆れてものも言えないよ。一着が同着の場合、そのレースは無効になるんだよ」
 ヒートが死んだから(無効になるから)デッドヒート。デッドヒートはもともと、ヒート不成立(同着)を示す言葉だったけれど、時が経つに連れて白熱したレースを意味する言葉に変わったのだとか。ふざけないで欲しい。ご存じの訳がないだろ。
「まあ、とにかく二連勝で計画通りだと思っていたんだよ。三走目。ハンデキャップもあって万全からは程遠い状態だったけれど、ここで勝負を決めるつもりだった」
「本当は一勝もしていないのにね」
陸田君には、破滅的な大逃げを指示していた。彼は三百メートル付近でぶっ倒れて、舌を噛んで血がだくだくで救急車で搬送された。
陸田君が倒れた時、私は二番手に位置を取っていた。
「ハイペースなら後方が有利って話じゃなかった?」
「そうだよ。でも私は前目の位置取りを選択した。どうしてだと思う? ヒントは実況」
美作さんは、小さく「実況?」と呟いて顎に手を置く。
「実況の弱みを握っていて嘘をつかせたとか? 本当はスローペースなのに、ハイペースって実況するように指図をしていた?」
「そんな物騒じゃなくて、もっと簡単な理屈。ペースの判断基準は先頭の二百五十メートルの通過タイム……陸田君のタイムだけで決まる訳で」
これだけで伝わった。美作さんはすぐに合点してパチンと指を鳴らす。
「分かった。記録上はハイペースでも実際はスローペースだったんだ」
 私は首を縦に振った。
「その通り。実況が「超・超ハイペースだ!」って叫んでいたでしょ? だけれど、本当は二番手の私がちんたら走っていたせいで超・超・スローペースだったの」
 陸田君単体の二百五十メートル通過タイムは、超・超ハイペースだった。だから実況は「超・超ハイペースだ! 後ろは届くのか!?」と叫んでいたし、記録上もハイペースということになっている。
 でも実際の(陸田君を除いた)全体のペースはドスロー。つまり前有利の展開となっていた。
「計画は完璧だったよ。多分、私以外は騙されていたと思う」
……これが誤算だった。有象無象を見誤っていた。
 西日が眩しくて目の奥がチカチカした。瞼を軽く擦る。
「さっき保留にしていた一、二走目について説明させて。どうしてハイペースなのに前目の走者達は沈没しなかったのか」
私は一拍措いて言葉を接ぐ。
「それはね、一走目も二走目もハイペースではなくスローペースだったからなんだよ。三連続記録上ではハイペースだけれど、実際はスローペースだったの」
 皆、初っ端から陸田君をノーマークだった。普通であれば(自分のリズムで逃げられないように)徹底的にマークされ(マークする側もされる側も競り合って、その結果テンポが上がるから)全体のペースも速くなってゆく。
普通だったらハイペースのはず。その思い込みが私の敗因だった。
有象無象共は、私が負けさえすれば何でもよかった。陸田君ならノーマークでもいい……そんな「暗黙の了解」を形成していた。
「私ね、悪気は無かったんだけれど千五百メートル走の授業で有象無象達をコケにしちゃったんだ。彼らのプライドをへし折っていたみたい」
 美作さんは無言で私に水を向ける。
「私は後ろに位置取りをしている。そして、有象無象共は私にだけは勝たれたくない」
「なるほどね。一走目と二走目。陸田君の楽逃げは構わないから、他の走者達は結託してスローペースに落とし込んだんだ」
「そういうこと」
 三走目を終えて疲労困憊の私に有象無象C、D、Eが罵詈雑言のついでに魂胆を教えてくれた。彼らの恨みの深さに驚いたし……正直、堪えた。
「三走目は反対に一人一人がペースを上げ始めたんだよね。それで超・超スローペースが超・超ハイペースに変貌。私に抗う体力は残されていなかった」
 四走目以降の記憶はない。どこでぶっ倒れて医務室に運び込まれたのかも覚えていない。

 私はベッドの縁に寄り掛かって、ため息を漏らす。ヒート形式競争のせいで身体中が張っている。当分、運動もできそうにない。
煌々と輝く西日が眩しくて私は目を細める。
 太陽は、それ程好きじゃない。好きじゃないっていうか……怖い。エネルギーが巨大すぎて、なんだか「死ぬの怖いな」って陳腐な感想を私の心にもたらす。上手く説明ができないのだけれど、とにかくそうなのだ。
 体重を移動させるとベッドが軋んで音を立てた。項を垂れてもう一度ため息。
 何て言うか導かれたかのように最悪な結末に至った気がする。もちろん私の慢心や不注意が重なった結果だけれど、それも全てひっくるめて抗いようが無かった、みたいな。
「仲真さん、知っている? 人間って無意識のうちに不快な経験の反復を求めるんだって」
藪から棒に、美作さんは抑揚無く話し始めた。
「始業式も今回も、上手にこなそうと骨を折るのだけれど結局大失敗に収束する。無意識に必ずその道を選択する。きっとそれが仲真さんの運命なんだろうね」
 その時、医務室のドアが開いて、保健の先生におんぶされる形で羽田さんが運ばれてきた。苦悶の表情の彼女の足は変な方向に曲がっている。
 美作さんは一瞥だけくれて、小さく呟く。
「階段から落ちちゃったのかな。これで羽田さんも大繩に参加せずに済むね」
「もう勘弁してよ。なんでそうなるの」
 何かと鈍い私だけれど流石に天を仰ぐ。西日が気持ち悪いほど眩しい。 
「仕方がないよ。人は一人だと生きていけないんだから」 

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