第8話

文字数 4,616文字

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 新しい朝が来た。スヌーズ機能をオフにして軋むベッドから起き上がり、スリッパを擦ってかび臭い洗面台へ。ブラシで癖ッ毛を溶かして化粧水で眠気眼を叩き起こす。
ボロボロの借家にどこからか吹き込む隙間風。少しだけ鳥肌が立つ。
「修理したい。このままだと冬に凍死するかも」
 本当にボロい。安かろ悪かろとはまさにこの借家のことだ。
 ついこの間なんて居間のテーブルの上にタヌキが居座っていた。帰宅の私と相対して一目散に逃げていった。家中を隈なく捜査してみると備え付けの箪笥の下に穴がぽっかりと空いていた。タヌキはその周囲の床板を食いちぎって侵入したに違いなかった。
「親や兄には頼りたくないし、どうにか自分で稼ぐ方法ないかなあ」
 やっぱりバイト始めるしかないよな。
 三秒だけしゅんと萎れるも直ちに精神を立て直す。肩を落とす時間さえ惜しい。
 朝は忙しいのだ。学食は馬鹿みたいに高いので登校前にお弁当作らなければならない。それと第二木曜日だからゴミ出しに行って……、田舎の象徴、回覧板を回して……。
 大きな欠伸を噛み殺す。ああ、一人暮らしって大変だ。
「それにしても久しぶりにまともな夢を見たなあ」
 私の夢には二パターンしかない。比率だと九対一。九は直線が横に真っすぐ伸びてゆく夢。一は今日みたく、過去の経験のフラッシュバック。このことを茜に教えたらちょっと引かれてしまった。「アタシがバクだったらお前には懐かんわ」とか「ストレスと無縁そうだもんな」とか、好き勝手言われた。私は夢まで他人と違うようで。
「現実との区別が付かないよりは、マシだと思うんだけどなあ」
 寝る前にカットしておいた鶏ももを二十分漬け汁に浸し、その間にジャージを羽織ってゴミ出しへ。初夏の朝の心地よさを全身に浴びながらゴミ捨て場(徒歩五分)に出陣。
 一つ目の角を曲がってすぐ。柵の向こうのおばあちゃんに今日も話しかけられる。
「春子や。ゴミ捨てに行ってくれるのかい? ありがとうねえ」
 もはや風物詩だ。最初は困惑したけれど事情はすぐに察した。
「おばあちゃん、私の名前はあずさだし、このゴミは我が家のゴミなんだよ」
 いつも通り、おばあちゃん家へ玄関を開けて侵入。フローリングはじゃりじゃりだし、どの部屋からも異臭が漂う。片手で鼻をつまみながらジャージのポケットから大きなビニール袋を取り出して各部屋にばらまかれたゴミを詰め込んでいく。
「おばあちゃん、プラスチックは今日じゃないから端の方にまとめておくね。あとさ、換気しておくから自分で窓閉めてね」
「夏子や。ありがとうねえ」
「冷蔵庫の食べ物、腐っているのは捨てるね。……私が捨てたんだからね? 屋根裏にニンジャなんて潜んでいないからね?」
「秋子や。ありがとうねえ」
「ねえ? 娘さん達に捨てられちゃったのか何なのかよく知らないけれど、脳みそパーなの自覚して? 私の名前は仲真あずさなんだって。おばあちゃんの娘じゃなくて、ご近所さん」
「そうかい。冬子や。ありがとうねえ」
 私がてきぱきと部屋中を徘徊している間、おばあちゃんは気にも留めずに縁側でニコニコとしていた。私はため息をついて自分の家のとおばあちゃん家のゴミ袋を抱えて退散。
 ゴミ捨て場往復とおばあちゃんの家で合計二十分を消費。唐揚げはちょうどよく浸っていた。油でカラッと揚げるのと同時進行で、きんぴらごぼうを炒めて四角いフライパンで甘い玉子焼きを作って、プチトマトのへたを取って作り置きのポテトサラダを取り出して炊き立てのご飯にゆかりをふりかけて……毎朝ながら、目が回りそうだ。
 お弁当完成。制服に着替えて居間のテーブルのスクールバッグを提げる。
「おっと。危ない。散らかしぱなしだった」
 宿題の英語プリントをかき集めサボテンのファイルにしまう。スクールバッグにイン。
サボテンのファイル。別に鑑賞の趣味とかはないのだけども、この間、洋学院高校の最寄り駅に「ご自由にどうぞ」って置かれていた。風の噂ではサボテン愛好家の布教活動の一環らしく翌日には撤去されていた。無駄に上質な代物だったし欲張ってもう一つくらい頂いておけばよかったなと後悔している。
 
 さて、学校。時間割変更で一時間目はホームルーム。
「えー、来週はついに体育祭です」
学級委員の角田君と丸田さんが黒板の前に立って白いチョークで種目を書き始める。
三人四脚に因幡の白兎、借り物競争と、いたって定番の種目が連なってゆくそんな中、私の目に一つの競技が留まった。黒板の左端の競技。
「まず、ヒート形式競争の走者の決定から始めます。一応、形式通りに尋ねますけれど立候補したいって人、いたりしますか?」
 角田君が剣呑な面持ちで謎の競技に触れると、クラスがヒステリックにざわついた。
「静粛に。黙らないと走者を押し付けますよ」
 効果覿面に静まり返るクラス。顔を青くする者に小刻みに震える者。
たかが学校行事にそこまで怯えるのか。クラス中を、奇異を込めた目で一瞥して教卓に視線を戻したら丸田さんと目が合った。
「仲真さんヒート形式の走者をお願いしたいです。男女含めてクラスで一番足が速いから」
 突然、私に白羽の矢が立ったけれども、いつもみたく二つ返事の了承はしない。
「ええと、ルールの説明を求めても?」
 特にクラスのリアクションについて納得のいく説明を願いたい。
「ただの長距離走です。それだけです」
 そんな歯に衣を着せたような、叩けば埃が出てきそうな。
「ただの長距離走って具体的に何メートル?」
 クラスの怯え様からして、五十キロとかってオチなんじゃない?
「五百メートル×三回……です」
 ……の部分が小声で聞き取れなかったけれど、つまり千五百メートル? ふーん、だとすれば? 三点リーダー部分は気になるけども、それより先に別の疑問が湧いて来た。
「付与されるポイントが凄いとか? 体育祭ってクラス対抗だよね?」
負ければクラス中から非難轟轟の嵐が巻き起こって退学の危機に陥るとか。それならクラスメイト達の怯え様に説明がつくだろう。
そんな私の推測はあっさりと否定された。丸田さんにかぶりを振られてしまったのだ。
「確かに体育祭はポイント加算のチャンスです。一位のクラスから順番にポイントを振り分けられる団体戦で、個人の指定校推薦に大きく影響を及ぼします」
 丸田さんは一度言葉を切って、
「しかし、ヒート形式競争は例外です。勝っても負けてもクラスにも個人のポイントにも影響はなく、よって出走によるデメリットはありません」
デメリットがない訳ないだろ。だったらどうして怯えているんだよ。まあいいや。気を取り直してさっきの小声の……の部分について訊き返そうとしたその時、
「仲真さんはどうしてクラスの皆が怯えているのかが気になるんだよね?」
 もう一人の学級委員、角田君が口を挟んできた。丸田さんが目で制すも、
「いや、これは本人に教えておかないとやっぱり悪いよ。転校生だからって騙すような真似はよくない。僕は一年の頃に騙されて出走させられたからね」
 引っ掛かるのだけれど出走って何? それって競馬で使う用語じゃない?
「ヒート形式競争は、洋学院高校が胴元の賭博なんだ。学生も保護者も先生方もお金を賭ける」
 角田君はぶるりと一つ身震いをして、
「お金を賭けているからね、観客の目がマジなんだ。当日は異様な雰囲気だし、野次に罵声に物だって投げつけられる。僕はもう二度と出たくない」
「あー? 体育祭の種目でギャンブルってこと?」
「そういうこと。観客達は楽しそうだけれど出走者は一生のトラウマを背負うこともある。だから皆、やりたがらない」
 クラスのどこかから啜り泣きが聴こえてきた。また、青白い顔をしたクラスメイトが立ち上がって「ちょっと体調悪いから保健室」とだけ言い残してクラスから消えていった。
 つまり精神的に過酷だから誰もやりたがらない、と。なんだ、それだけか。
「いいよ。他にやりたい人がいないのなら、私が代表やる」
 「おおっ」とクラスから驚きの声が漏れた。様々な感情の入り混じっていそうな眼差し私に注がれる。学級委員の二人も驚愕って顔でまじまじと見つめてくる。
「……仲真さん、俺の話聞いていた?」
「聞いていたよ。その上で代表引き受けるよって言ったの」
 だって、あまりにも私向きの競技なんだもの。
 ヤジに罵声……私はその程度で傷つかないし、何より足並み揃える集団競技より個人競技の方が性に合っている。他人を気にしなくて済むから。
「言質を取りました。全員が証人です。ヒート競争の本クラスの代表は仲真さんです」
 学級委員の二人が同時に肩の力を抜いて顔の気張りを緩める。
そして残りの種目決めは打って変わってほんわかとした雰囲気で進行。流れ作業のようにスルスルと割り振りが決まって行く。
 私はヒート形式競争と最後のクラス対抗の大繩だけ参加になった。普通なら他に一つ、二つ種目に参加せねばならないのだけれど、特別待遇で免除なのだそう。
「種目ごとの練習は今日の体育の授業から。大繩の練習は放課後からです。忘れないように」
 ホームルームの終わりを告げるチャイムと同時に後ろの席の茜が私の右肩をポンと叩く。何故だか随分とニコニコしている。
「あずさが拒絶したら転校生繋がりでアタシに白羽の矢が立つところだった。だから、お礼を言っておくな。馬鹿だなあ、ルールもちゃんと確認せずに引き受けるなんて」
「茜は運動神経良くないし大丈夫だったよ」
「いいや。これは誰でも良かったんだと思うぞ。ポイント関係ないし。クラスで一番足が速いからって建前で嵌められたんだよ」
「運動神経には自信あるし身体を動かすこと自体、好きだから何でもいいよ。ていうか茜はヒート形式とやらを知っていたんだ」
 何でもいい、は少し虚勢を張った。そんなちんけなプライドが己にあった事実に、少し驚く。
「知ってもいるし予知しているからな。本番であずさは酷い負け方するぜ?」
 そのにやけ面は、人の不幸は蜜の味ってところなのだろうが、そもそも茜の未来予知は根拠のないスピリチュアルだ。始業式のを含めて全てまぐれ当たりに過ぎない。
「あずさには一円も賭けないし紐にも入れない」
ただ、それはそうとムカついたから、存分に苦虫を噛ませてやりたくなってきた。
「紐って何? 性格の悪いスピリチュアルクソ女の思い通りに行かないよう頑張るね」
「生憎アタシは運命論者なんでね。紐って言うのは二着、三着のことだ」
「運命論者? 取返しのつかない厨二病患者の間違いでしょ?」
「おうおう、好きなだけ言っておくがいいさ。本番で笑ってやるから」
「私が一着取って引き攣り笑いに変えてあげるよ」
 ふとこの時、ピコーンと閃いた。全身に電流が走る。
「そうだよ。ここで一着を取ればいいんだ!」
 思わず椅子から立ち上がってしまった。個人的な大発見。
そう、私自身に賭けておいて私が一着を取ればいい。そうすれば誰にも頼らず一人で大儲けが可能となる。大儲けに成功すれば家の改修ができる!
「あ、それはそうと二時間目の英語の宿題、あずさの写させてくんない?」
 茜が私の興奮に水を差してきやがった。まあいい。許してやろう。
「またか。いい加減自立しろ脳みそチンパンジー女」
 席に座り直して、サボテンファイルをスクールバッグから取り出して茜の机においてやった。気付かせてくれたお礼だ。今日は存分に写させてやる。
 
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