第1話
文字数 5,949文字
世界が違って見える。
おじいちゃんはいう。
あのマウンドに立って投球モーションに入るときになあ、だんだんと周りの声が静かになって、微かにキャッチャーのミットまでのボールの軌跡がひかって見えるんだ。道みたいに、それをたどるように投げるとズバッと決まる。
キャッチャーミットにおさまってバシーって音が鳴り響くと風がスーと感じる。未来が見えてるのかって。いやそうじゃないいつもは見えない。けどそれが見えたときには必ずバッターのバットは、空を切る。まぁたまたまかもしれないんだけど
私にも見えるかなとたずねるとニコッと笑っておじいちゃんはいった
そうさなぁ久留美が大きくなって正しい努力と真摯な心を持つことができたら野球の神様がご褒美をくれるかもわからないけどなぁ
幼い頃の記憶
まっさらなマウンドに真新しいグローブとスパイクに身をまといキャッチャーミットを構えたおじいちゃんに夢中になって投げ込んだ。
ナイスボール久留美。
その顔は少年のように輝いていて嬉しそうにいう
久留美はいいピッチャーになるぞ
朝が来たうっすらと目がさめる
「またあの夢か」
ベッドの上でつぶやく
今日は、4月21日。大学一年の春、時刻は6時35分目覚まし時計が鳴る5分前。
身体を起こすとカーテンの隙間から差し込む朝日が目に入りまぶしさにめをそらす。
「軌跡か」
自分の投じた一球が朝の日差しのようにひかって見えるのだとおじいちゃんは教えてくれた。その光が見たくて長らく野球をやってきたけどわたしには、見えなかった。
「結局、女の私には無理なのかな」
冗談っぽく笑ってみる。苦笑いにしかならなかった。泥にまみれて白球を追いかけるくらいなら料理のひとつくらい覚えた方がいい。おじいちゃんは、甲子園にエースとして出場して準優勝をした。
大学進学後も野球を続け神宮球場でも投げた。肩を壊してプロには行けなかったが、社会人野球で打者として活躍した。野球に愛された人生を送った人だった。
私はそんなおじいちゃんの孫だ。父は野球が得意じゃなくておじいちゃんの経歴のプレッシャーから逃げるように勉強に打ち込んで某有名企業の重役だ。
私は野球が好きなのだろうか。
すぐに好きといえない自分がいる。
「限界なのかな」
ふと視線は部屋の奥へ向けられる。そこには机があって教科書や参考書とならんでメダルやらちいさなトロフィーやらが無造作に置いてある。中学生のときシニアリーグに入った私は、全国の最優秀投手に選ばれるほどの活躍をした。でも高校生になった頃、私は努力ではどうすることもできない壁にぶつかった。
机の横には大きなスポーツバックがある。ジッパーは開いていて使い古したグローブがこちらを覗いていた。べッドから降りて恐る恐るグローブを手に取る。夢の余韻でおじいちゃんの幽霊が出てきそうで震える。グローブをはめて狭い部屋の中で投球モーションにはいる。軌跡は見えないそんな奇跡が起こるはずもない。試合じゃないのだから当たり前なのか、それともわたしには見えないのか。
「おじいちゃん。わたしにはやっぱり見えないよ」
目覚まし時計が狭い部屋に鳴り響く。
光栄大学の入学式は、二週間ほど前だった。貴重な青春をすでに二週間無駄にしたことになる。時間の流れが速いのか、自分がのろまなだけなのかいずれにせよ面白くないと感じていた。
その他の学生なら七日間もあればどこかしらのサークルに所属するのがふつうだ。
久留美はというと、心が決まってないほんの一部の人間に含まれていた。
講義が終わるといつも無意識にグランドのほうに引き寄せられる。
バックネット裏にある少し離れたベンチに座り隠れるように硬式野球部の練習を見学していた。
マウンドから投げるピッチャーの姿を見ると、止まっていた心臓がきゅうに動き出した感じがした。そして同時に底ぬけな不安を感じるのだ。実戦練習が始まる頃にはわたしは逃げるようにグランドをあとにして帰宅する。
どうしたらいいかわからなかった。
すっぱりやめてしまえば楽になる気もする。
まだまだあがき続けたい気もする。
どちらを選んでも満たされないのだ。だから今日も気がつけばグランドのそばをふらふらしている。混沌の迷路に迷い込んだみたいに暗い道のなかを手さぐりで出口を探している。
カン
ナイスバッティング
甲高い声と気持ちの良い木の音が聞こえた。ピタッとあしを止める。
「男子じゃない」
思わず一歩踏み出す。さっき聞こえたこえは、おそらく女の人の声だ。バックネットに近づくにつれ音はおおくなっていく。しっかりグラウンドをのぞいたのは、それが初めてだった。
いつも男ばかりのグラウンドに女の子が十人と少し試合形式のバッティング練習をしている。
「ツーアウト二塁一本よっつ投げてこいよ」
そうナインにこえをかけてセットポジションからピッチャーは投球モーションにはいる。サイドハンドぎみのフォームから投じたアウトコース低めのボールをバッターは、踏み込んで右方向に打った。セカンドの頭上を越えてセカンドランナーが一気に三塁を回る。クロスプレーになる。そう思われたがランナーは、キャッチャーのタッチをひらりとかわしホームを滑った。久留美は拳をかため目を見開いていた。久しぶりに興奮していたんだと思う。
「今月二本目のタイムリーヒットだぁ!」
やったーと一塁ベース上でぴょんぴょん跳ね始める。
「あんまり調子に乗らないことね」
不機嫌そうな声が答え帽子を外した。長いきれいな髪が風になびく。
「いいじゃないですかー練習なんですから」
「よくない。相手に対して失礼だ。それにいまのは、少し抜けたのよ。ベストボールじゃないわ」
「打たれたからってそういうのは大人気ないでーす」
「はぁ?」
「なんでもないですよー」
けらけら笑う小柄な子がヘルメットをとり、赤くなった頬の汗をぬぐう。丸い瞳が何気なくこっちを見て、
「あーー!」
叫んだ。
「わっ! なにあんこいきなり」
「うわああああはははあ」
マウンド上の女の人の声を無視してすごい勢いでかけてきた。
「きみ一年生だよね」
ネット越しにすごいテンションで聞いてくる。
「はい」
「もしかして入部希望だったりする?」
「え、あのちょっと見ていただけなので」
「あ、見学ね。そうだよねまず見学だよね。もっと近くで見てってよ」
「いえ、もう失礼し」
「見てって、ね」
「はい」
強引にせめられては仕方なく頷いてしまった。わたしこの手の人苦手なんだよな。
「あ、あたし、安城こなつ。経営学部一年。あんこって呼んでね!」
半ば引きずるようにして久留美をグラウンドに連れ込みながら、思い出したようにあんこは言った。思わずため息を漏らす。
「同じ学部だ」
いやな予感しかしない。久留美は直感的にそう思った。
「あんこ、だあれその子」
なんとなくグランドに入るとさっきマウンドにいた人がゆっくりと近づいてきた。
「待望の新入部員ですよ。」
「いえ、まだ、見学だけで」
「あんこ、あんた無理やり連れてきたわけじゃないわよね」
「まさか。そんなわけないじゃないですかー。ねー」
「いや、強引に連れ込まれました」
あんこがこっちをじっとにらんだ。言うとおりにしろ、と顔に書いてある。なんて身勝手な。
「だめよ。無理やり入部させてもすぐ辞めるわ」
と、ロングヘアーのさっき打たれた人。
「りかこさん。わかってますか?今年一年生あたししか入部しなかったらどうするんですか」
「べつに私はかまわないわ」
「危機感持ってください新入部員が一人だけだったらどうしてくれるんですかぁ」
「私のせいにするな!」
りかこがゲンコツを振りかぶると、あんこがけらけら笑って逃げた。その光景を目にしてなんだか少し羨ましい気持ちになったのはなぜだろう。
「あなた名前は?」
小学校の親睦レクみたいな質問だなと久留美は思った。
「咲坂久留美です」
「かわいい名前だね」
「ふーんじゃあポジションは?」
りかこは間髪入れずにきいてくる。気がつけば守りについてた人たちが周りに集合していた。
「ピッチャーでした。」
ピッチャーときいてりかこの目つきが変わる。
「あっそ、持ち球は?」
「まっすぐだけです。それ以外は投げれません」
「え、なんて聞こえない」
「ストレートだけです」
今度は大きな声で答えた。
「はい。素人決定。さあみんな練習に戻りましょう」
「りかこさぁん、きついですよ。どんだけ余裕ないんですか」
「お前な・・・・・・」
口をとがらせてプルプル震えるりかこ。あんこは度胸があるといえば聞こえがいいが、その実ただのお調子者なのかもしれない。
「真咲さんがいないのに私にどうしろっていうの」
「とりあえず投げてもらいましょうよ。わたしユニフォームの替え持ってますから」
あんこが走り出すのを久留美が必死に止めようとする。誰かに勘づかれる前に一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
「ちょっとまって思い出した咲坂久留美。栄西シニアのピッチャーで数々のタイトルを獲得した天才少女。高校では名前は聞かなかったけどまさかね」
遅かった。久留美にとってそれは過去の栄光。わずらわしい過去の。
「昔のことです。それに高校では、満足な結果を出してません」
はっきりと言った。
「それで過去の栄光ひきずって大学野球やろうってわけ、なめられたものね。・・・・・・でもいい機会だから投げてもらいましょう。勘違いちゃんに現実をわかってもらうのも大切よね」
りかこは、ベンチにある予備のグラブを手渡した。
「大学野球は奥が深いわよ。天才少女」
大変なことになった。
中三の夏の関東大会以来、バッターに向かってボールを投げてない。おじいちゃんが死んでからは、キャッチボールすらしていなかった。ボールをろくに触ってないのに実戦などありえないのに。よりによってこんな大勢の前で投げることになるとは。できることなら帰りたい。
久留美はそんな弱気を心に吐いたがもうユニフォーム着てしまった。さきほどからりかこは一塁コーチャーボックスから睨みをきかせてくる。これはやるしかなさそうだ。
「サインはどうする? ってまっすぐオンリーか。かっこいいね」
いきなりマウンドにあがる久留美をなだめるようにサインの交換をしてくれた。
「苦労かけますね。すみません」
「いいよ。わたしは楠田翔子。ピッチャーも兼ねていて本職じゃないから基本自由に投げ込んできな」
「はい。ありがとうございます。」
それにしてもマウンドから見渡す景色はいい。久留美はグラブに眠る硬球を右手で握りしめしっかりと縫い目にかける。
プレー。
「打たしていこう! くるみちゃーん」
セカンドの守備につくあんこは楽しそうに久留美に声をかける。
純粋に野球が好きなんだなぁ。私とあんこは正反対だ。
「なにをボーとしてるの早く投げなさい」
りかこの声に我に帰り、投球モーションに移行する。ワインドアップから一呼吸おいて身体をすこし前後にゆらす。目を開けるとキャッチャーのミットとが見えた。足を高く上げることで生まれる勢いを利用して体重移動をする。地面に足がついた。腕がムチのようにしなる。数秒後にバシーと乾いた音がグランドに響く。
ストライーク。
長らく止まっていた時計の針が動き出した感じがした。
「な、」
その場にいた誰もが声を失う。コースはど真ん中。しかし、バッターは反応できていない。そんな静まった雰囲気をぶち壊したのはやはり、
「くるみちゃんすごいよぉ! あんな速い球投げれるなんて」
あんこだ。
「あんこうるさい。あと二球あるのよ黙りなさい。」
りかこは呆気にとられた様子ですぐに顔を真っ赤にした。
「のぞみ、あんたもあんたよ! 振りなさいよ。真ん中でしょ」
「は、はいすいません」
若干涙目になってる先輩をあんこは庇う。
「りかこさん。いけないんだー。のぞみちゃんいじめたー」
気を取り直して第二球またもど真ん中。
キン。
今度は打たれた。久留美の股を抜けてセンター前ヒットになる打球をあんこが飛びついてキャッチ。素早く起き上がり一塁に送球。ゆうゆうアウトになった。
「ナイスセカン」
久留美は無意識にそう言った。
「えへへー 任せなさい」
ワンアウト。
アウト一つとったのも久しぶりだ。しかし一年間のブランクはコントロールを狂わせる。それにしても甘かったとはいえ打ち返された。男子でも簡単にはヒッティング出来ないストレートを。久留美は肩で息をした。この人たちは強い。プレートの土を払い。集中する。
「ソフィーあなたが打ちなさい」
りかこは、ショートを守っている内野で頭一つ大きい人を呼んだ。
「ワタシ、打っテイイデスカ」
ニコニコしながらバッターボックスに向かう。
二、三回バットを振ると左打席にはいった。雰囲気でわかる。この人はやばい。ロージンを満遍なくつけて、深呼吸。キャッチャーの構えたアウトコース低めを狙って投げる。指先にかかる感覚を噛みしめる。いいボールだ。ソフィーさんはゆったりとタイミングをとり打ちにいく。地面に足がついた瞬間だった。スイングしたはずのバットの軌道が見えない。
乾いた音が響き渡り久留美は、咄嗟にうしろを振り返る。すごい勢いでボールは、左中間を切り裂いた。
「久留美、三塁ベースカバー」
翔子の声で我に返りカバーに走るが間に合わなかった。バッターは三塁でストップする。
あそこまで完璧にとらえられたことは一度もなかった。
その後のピッチングは散々なものだ。スリーベースを打たれた久留美は完全に集中が切れて投げる球は全てボー球と化した。打たれに打たれまくり結局打者七人に対して被安打、四。失点、三。
文字通りバッティングピッチャーとなってしまった。
「どう火だるまになった感想は?」
マウンドに立ちすくむ久留美に近いてりかこは言った。
「やっぱりダメでした。すみません練習の邪魔してもう帰ります」
もう何回こんな思いをしたのか、イニングの途中でマウンドを降りるのは一番きつい
「待ちなさい」
りかこの呼びかけに振り返った。
「あなたが野球に対してどう向き合ってきたかなんとなく分かったわ。本当にやる気があるなら明日講義が終わったら河川敷のグラウンドに来なさい」
涙を隠してグラウンドを去る久留美を先輩たちは笑顔で見送ってくれた。
おじいちゃんはいう。
あのマウンドに立って投球モーションに入るときになあ、だんだんと周りの声が静かになって、微かにキャッチャーのミットまでのボールの軌跡がひかって見えるんだ。道みたいに、それをたどるように投げるとズバッと決まる。
キャッチャーミットにおさまってバシーって音が鳴り響くと風がスーと感じる。未来が見えてるのかって。いやそうじゃないいつもは見えない。けどそれが見えたときには必ずバッターのバットは、空を切る。まぁたまたまかもしれないんだけど
私にも見えるかなとたずねるとニコッと笑っておじいちゃんはいった
そうさなぁ久留美が大きくなって正しい努力と真摯な心を持つことができたら野球の神様がご褒美をくれるかもわからないけどなぁ
幼い頃の記憶
まっさらなマウンドに真新しいグローブとスパイクに身をまといキャッチャーミットを構えたおじいちゃんに夢中になって投げ込んだ。
ナイスボール久留美。
その顔は少年のように輝いていて嬉しそうにいう
久留美はいいピッチャーになるぞ
朝が来たうっすらと目がさめる
「またあの夢か」
ベッドの上でつぶやく
今日は、4月21日。大学一年の春、時刻は6時35分目覚まし時計が鳴る5分前。
身体を起こすとカーテンの隙間から差し込む朝日が目に入りまぶしさにめをそらす。
「軌跡か」
自分の投じた一球が朝の日差しのようにひかって見えるのだとおじいちゃんは教えてくれた。その光が見たくて長らく野球をやってきたけどわたしには、見えなかった。
「結局、女の私には無理なのかな」
冗談っぽく笑ってみる。苦笑いにしかならなかった。泥にまみれて白球を追いかけるくらいなら料理のひとつくらい覚えた方がいい。おじいちゃんは、甲子園にエースとして出場して準優勝をした。
大学進学後も野球を続け神宮球場でも投げた。肩を壊してプロには行けなかったが、社会人野球で打者として活躍した。野球に愛された人生を送った人だった。
私はそんなおじいちゃんの孫だ。父は野球が得意じゃなくておじいちゃんの経歴のプレッシャーから逃げるように勉強に打ち込んで某有名企業の重役だ。
私は野球が好きなのだろうか。
すぐに好きといえない自分がいる。
「限界なのかな」
ふと視線は部屋の奥へ向けられる。そこには机があって教科書や参考書とならんでメダルやらちいさなトロフィーやらが無造作に置いてある。中学生のときシニアリーグに入った私は、全国の最優秀投手に選ばれるほどの活躍をした。でも高校生になった頃、私は努力ではどうすることもできない壁にぶつかった。
机の横には大きなスポーツバックがある。ジッパーは開いていて使い古したグローブがこちらを覗いていた。べッドから降りて恐る恐るグローブを手に取る。夢の余韻でおじいちゃんの幽霊が出てきそうで震える。グローブをはめて狭い部屋の中で投球モーションにはいる。軌跡は見えないそんな奇跡が起こるはずもない。試合じゃないのだから当たり前なのか、それともわたしには見えないのか。
「おじいちゃん。わたしにはやっぱり見えないよ」
目覚まし時計が狭い部屋に鳴り響く。
光栄大学の入学式は、二週間ほど前だった。貴重な青春をすでに二週間無駄にしたことになる。時間の流れが速いのか、自分がのろまなだけなのかいずれにせよ面白くないと感じていた。
その他の学生なら七日間もあればどこかしらのサークルに所属するのがふつうだ。
久留美はというと、心が決まってないほんの一部の人間に含まれていた。
講義が終わるといつも無意識にグランドのほうに引き寄せられる。
バックネット裏にある少し離れたベンチに座り隠れるように硬式野球部の練習を見学していた。
マウンドから投げるピッチャーの姿を見ると、止まっていた心臓がきゅうに動き出した感じがした。そして同時に底ぬけな不安を感じるのだ。実戦練習が始まる頃にはわたしは逃げるようにグランドをあとにして帰宅する。
どうしたらいいかわからなかった。
すっぱりやめてしまえば楽になる気もする。
まだまだあがき続けたい気もする。
どちらを選んでも満たされないのだ。だから今日も気がつけばグランドのそばをふらふらしている。混沌の迷路に迷い込んだみたいに暗い道のなかを手さぐりで出口を探している。
カン
ナイスバッティング
甲高い声と気持ちの良い木の音が聞こえた。ピタッとあしを止める。
「男子じゃない」
思わず一歩踏み出す。さっき聞こえたこえは、おそらく女の人の声だ。バックネットに近づくにつれ音はおおくなっていく。しっかりグラウンドをのぞいたのは、それが初めてだった。
いつも男ばかりのグラウンドに女の子が十人と少し試合形式のバッティング練習をしている。
「ツーアウト二塁一本よっつ投げてこいよ」
そうナインにこえをかけてセットポジションからピッチャーは投球モーションにはいる。サイドハンドぎみのフォームから投じたアウトコース低めのボールをバッターは、踏み込んで右方向に打った。セカンドの頭上を越えてセカンドランナーが一気に三塁を回る。クロスプレーになる。そう思われたがランナーは、キャッチャーのタッチをひらりとかわしホームを滑った。久留美は拳をかため目を見開いていた。久しぶりに興奮していたんだと思う。
「今月二本目のタイムリーヒットだぁ!」
やったーと一塁ベース上でぴょんぴょん跳ね始める。
「あんまり調子に乗らないことね」
不機嫌そうな声が答え帽子を外した。長いきれいな髪が風になびく。
「いいじゃないですかー練習なんですから」
「よくない。相手に対して失礼だ。それにいまのは、少し抜けたのよ。ベストボールじゃないわ」
「打たれたからってそういうのは大人気ないでーす」
「はぁ?」
「なんでもないですよー」
けらけら笑う小柄な子がヘルメットをとり、赤くなった頬の汗をぬぐう。丸い瞳が何気なくこっちを見て、
「あーー!」
叫んだ。
「わっ! なにあんこいきなり」
「うわああああはははあ」
マウンド上の女の人の声を無視してすごい勢いでかけてきた。
「きみ一年生だよね」
ネット越しにすごいテンションで聞いてくる。
「はい」
「もしかして入部希望だったりする?」
「え、あのちょっと見ていただけなので」
「あ、見学ね。そうだよねまず見学だよね。もっと近くで見てってよ」
「いえ、もう失礼し」
「見てって、ね」
「はい」
強引にせめられては仕方なく頷いてしまった。わたしこの手の人苦手なんだよな。
「あ、あたし、安城こなつ。経営学部一年。あんこって呼んでね!」
半ば引きずるようにして久留美をグラウンドに連れ込みながら、思い出したようにあんこは言った。思わずため息を漏らす。
「同じ学部だ」
いやな予感しかしない。久留美は直感的にそう思った。
「あんこ、だあれその子」
なんとなくグランドに入るとさっきマウンドにいた人がゆっくりと近づいてきた。
「待望の新入部員ですよ。」
「いえ、まだ、見学だけで」
「あんこ、あんた無理やり連れてきたわけじゃないわよね」
「まさか。そんなわけないじゃないですかー。ねー」
「いや、強引に連れ込まれました」
あんこがこっちをじっとにらんだ。言うとおりにしろ、と顔に書いてある。なんて身勝手な。
「だめよ。無理やり入部させてもすぐ辞めるわ」
と、ロングヘアーのさっき打たれた人。
「りかこさん。わかってますか?今年一年生あたししか入部しなかったらどうするんですか」
「べつに私はかまわないわ」
「危機感持ってください新入部員が一人だけだったらどうしてくれるんですかぁ」
「私のせいにするな!」
りかこがゲンコツを振りかぶると、あんこがけらけら笑って逃げた。その光景を目にしてなんだか少し羨ましい気持ちになったのはなぜだろう。
「あなた名前は?」
小学校の親睦レクみたいな質問だなと久留美は思った。
「咲坂久留美です」
「かわいい名前だね」
「ふーんじゃあポジションは?」
りかこは間髪入れずにきいてくる。気がつけば守りについてた人たちが周りに集合していた。
「ピッチャーでした。」
ピッチャーときいてりかこの目つきが変わる。
「あっそ、持ち球は?」
「まっすぐだけです。それ以外は投げれません」
「え、なんて聞こえない」
「ストレートだけです」
今度は大きな声で答えた。
「はい。素人決定。さあみんな練習に戻りましょう」
「りかこさぁん、きついですよ。どんだけ余裕ないんですか」
「お前な・・・・・・」
口をとがらせてプルプル震えるりかこ。あんこは度胸があるといえば聞こえがいいが、その実ただのお調子者なのかもしれない。
「真咲さんがいないのに私にどうしろっていうの」
「とりあえず投げてもらいましょうよ。わたしユニフォームの替え持ってますから」
あんこが走り出すのを久留美が必死に止めようとする。誰かに勘づかれる前に一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
「ちょっとまって思い出した咲坂久留美。栄西シニアのピッチャーで数々のタイトルを獲得した天才少女。高校では名前は聞かなかったけどまさかね」
遅かった。久留美にとってそれは過去の栄光。わずらわしい過去の。
「昔のことです。それに高校では、満足な結果を出してません」
はっきりと言った。
「それで過去の栄光ひきずって大学野球やろうってわけ、なめられたものね。・・・・・・でもいい機会だから投げてもらいましょう。勘違いちゃんに現実をわかってもらうのも大切よね」
りかこは、ベンチにある予備のグラブを手渡した。
「大学野球は奥が深いわよ。天才少女」
大変なことになった。
中三の夏の関東大会以来、バッターに向かってボールを投げてない。おじいちゃんが死んでからは、キャッチボールすらしていなかった。ボールをろくに触ってないのに実戦などありえないのに。よりによってこんな大勢の前で投げることになるとは。できることなら帰りたい。
久留美はそんな弱気を心に吐いたがもうユニフォーム着てしまった。さきほどからりかこは一塁コーチャーボックスから睨みをきかせてくる。これはやるしかなさそうだ。
「サインはどうする? ってまっすぐオンリーか。かっこいいね」
いきなりマウンドにあがる久留美をなだめるようにサインの交換をしてくれた。
「苦労かけますね。すみません」
「いいよ。わたしは楠田翔子。ピッチャーも兼ねていて本職じゃないから基本自由に投げ込んできな」
「はい。ありがとうございます。」
それにしてもマウンドから見渡す景色はいい。久留美はグラブに眠る硬球を右手で握りしめしっかりと縫い目にかける。
プレー。
「打たしていこう! くるみちゃーん」
セカンドの守備につくあんこは楽しそうに久留美に声をかける。
純粋に野球が好きなんだなぁ。私とあんこは正反対だ。
「なにをボーとしてるの早く投げなさい」
りかこの声に我に帰り、投球モーションに移行する。ワインドアップから一呼吸おいて身体をすこし前後にゆらす。目を開けるとキャッチャーのミットとが見えた。足を高く上げることで生まれる勢いを利用して体重移動をする。地面に足がついた。腕がムチのようにしなる。数秒後にバシーと乾いた音がグランドに響く。
ストライーク。
長らく止まっていた時計の針が動き出した感じがした。
「な、」
その場にいた誰もが声を失う。コースはど真ん中。しかし、バッターは反応できていない。そんな静まった雰囲気をぶち壊したのはやはり、
「くるみちゃんすごいよぉ! あんな速い球投げれるなんて」
あんこだ。
「あんこうるさい。あと二球あるのよ黙りなさい。」
りかこは呆気にとられた様子ですぐに顔を真っ赤にした。
「のぞみ、あんたもあんたよ! 振りなさいよ。真ん中でしょ」
「は、はいすいません」
若干涙目になってる先輩をあんこは庇う。
「りかこさん。いけないんだー。のぞみちゃんいじめたー」
気を取り直して第二球またもど真ん中。
キン。
今度は打たれた。久留美の股を抜けてセンター前ヒットになる打球をあんこが飛びついてキャッチ。素早く起き上がり一塁に送球。ゆうゆうアウトになった。
「ナイスセカン」
久留美は無意識にそう言った。
「えへへー 任せなさい」
ワンアウト。
アウト一つとったのも久しぶりだ。しかし一年間のブランクはコントロールを狂わせる。それにしても甘かったとはいえ打ち返された。男子でも簡単にはヒッティング出来ないストレートを。久留美は肩で息をした。この人たちは強い。プレートの土を払い。集中する。
「ソフィーあなたが打ちなさい」
りかこは、ショートを守っている内野で頭一つ大きい人を呼んだ。
「ワタシ、打っテイイデスカ」
ニコニコしながらバッターボックスに向かう。
二、三回バットを振ると左打席にはいった。雰囲気でわかる。この人はやばい。ロージンを満遍なくつけて、深呼吸。キャッチャーの構えたアウトコース低めを狙って投げる。指先にかかる感覚を噛みしめる。いいボールだ。ソフィーさんはゆったりとタイミングをとり打ちにいく。地面に足がついた瞬間だった。スイングしたはずのバットの軌道が見えない。
乾いた音が響き渡り久留美は、咄嗟にうしろを振り返る。すごい勢いでボールは、左中間を切り裂いた。
「久留美、三塁ベースカバー」
翔子の声で我に返りカバーに走るが間に合わなかった。バッターは三塁でストップする。
あそこまで完璧にとらえられたことは一度もなかった。
その後のピッチングは散々なものだ。スリーベースを打たれた久留美は完全に集中が切れて投げる球は全てボー球と化した。打たれに打たれまくり結局打者七人に対して被安打、四。失点、三。
文字通りバッティングピッチャーとなってしまった。
「どう火だるまになった感想は?」
マウンドに立ちすくむ久留美に近いてりかこは言った。
「やっぱりダメでした。すみません練習の邪魔してもう帰ります」
もう何回こんな思いをしたのか、イニングの途中でマウンドを降りるのは一番きつい
「待ちなさい」
りかこの呼びかけに振り返った。
「あなたが野球に対してどう向き合ってきたかなんとなく分かったわ。本当にやる気があるなら明日講義が終わったら河川敷のグラウンドに来なさい」
涙を隠してグラウンドを去る久留美を先輩たちは笑顔で見送ってくれた。