馬鹿じゃできない利口じゃやらない

文字数 6,442文字




 幸恵がこの門の前で写真を撮られるのは三回目だ。
 前の二回は入学式の日と卒業式の日、ファインダーを覗いていたのはいずれも父だったが、今回はプロのカメラマン。
『この門』とは東京大学の赤門、幸恵は東大出身の女流噺家でつい最近真打に昇進したばかり、撮影は雑誌の取材なのだ。
 
 
 十一年前、東大を卒業しながら今昔亭燕朝に入門した幸恵にはいくつもの取材の申し入れがあり、赤門をバックに写真を撮らせて欲しいという注文もあったのだが、幸恵はやんわりとそれを断った。
 本来なら取材も断りたい位だったが、これから芸人を志す身としてはそうも行かない、その代わり、幸恵は慎重に言葉を選んで応対した。
 なぜなら、『東大出身』であり『女流』であること、そのどちらも強調して欲しくなかったから……男だろうと女だろうと、また学歴がどうあろうと入門したからには誰もが前座見習いから始めることになる、スタートラインは同じ、自分だけを特別視して欲しくなかったのだ。
 
 
 幸恵は大学三年の時に学生名人に輝いている。
 その後、他の学生同様に就職活動を始めたのだが、どうにも噺家への思いを断ち切る事は出来なかった、一度しかない人生、『東大卒』と言う最強の学歴を投げ打ってでも、本当にやりたい道へ進むことが幸せなのだと思い直し、卒業と同時に現在の師匠の門を叩いたのだ。
 燕朝師匠は平成の名人と謳われた人気、実力ともに当代随一の噺家、しかもその門下には燕馬、燕太郎、燕五郎と言った、人気と実力を兼ね備えた噺家も多い、弟子の育成にも定評がある師匠なのだ。
 学生時代から燕朝とその一門のファンでもあった幸恵は燕朝の門を叩くことにためらいはなかった。


「うん……さすがに学生名人だ、やっぱり別物だな」
 落語の稽古は師匠からの口伝、幸恵の見習い期間が終わると、燕朝が最初に教えたのは『たらちね』だった。
 しかし、幸恵は既に五十にも及ぶレパートリーを持っている、女性が活躍する噺である『たらちね』も当然熟知していて淀みなく演じることが出来るし、人物の描き分けも充分に研究している。
「ひょっとすると燕太郎より上手いかもしれんな」
 師匠はそう言って笑う。
「とんでもありません」
 そう言いながらも悪い気はしない。
 人気者の兄弟子に肩を並べられるとまで自惚れてはいないが、そう遠くない内に追いつき追い越せる自信はある。
「名前はどうする? 今までに女流の弟子はいなかったから良くわからんな……」
「もし頂けるのであれば燕吉を」
 燕吉は師匠が二つ目まで名乗っていた名前、一門でその名前を貰うと言う事は、とりもなおさず出世候補ナンバーワンだと言うことだ、幸恵はそれを自ら希望した。
「うむ……いかにも男の名前だが、それでも良いのか?」
「はい」
 きっと見据えるような幸恵の目線に、師匠はその気持ちを汲み取った。
「なるほど、深川芸者の心意気に倣うってことだな?」
 深川の芸者は男物の羽織を羽織って○吉、○奴など、男名を名乗った、それは『芸は売っても色は売らない』と言う心意気の表れなのだ。
「はい、女である事を武器にしたくはありませんし、女だからと弱みを見せることもそこに甘えることもしたくありませんから」
「良いだろう……俺が使っていた名前をやるよ、せいぜい精進しな」
 こうして女流噺家、と言ってもまだ前座だが……今昔亭燕吉が誕生した。


 燕吉の実力は抜きん出ていた。
 前座の身ではまだ人情噺まではやらせてもらえないが、その高座を聴けば既に二つ目の実力が備わっている事は誰にでもわかる、その人情噺を聴いてみたいと思うのは寄席の客ばかりではない、並み居る師匠たちの誰もがそう思った。

 前座を二年で通過して二つ目に。
 寄席での香盤はまだまだ下っ端だが、一門会や二つ目の研究会などではそこそこの持ち時間も与えられ、10分足らずの前座噺では示しきれなかった実力が更に明らかになる。
 燕吉は何を演らせても破綻がない。
 滑稽噺ではテンポ良くたたみかけるし、人情噺となれば笑いを取るべき部分、しんみりとさせる部分を明確に分けて演じる。
 女性が重要な登場人物となる噺は勿論、子供を演じる時も女流ならではのアドバンテージがあるが、女性が全く登場しない噺でも苦にしない。
 仕草は一通り身につけているし、声の調子で明確に人物を描き分けてみせる。
 そして、まだ二十代前半の女性だ、聡明さがにじみ出る整った顔立ちでスタイルも良い、歩き方やお辞儀の仕方などを日本舞踊の師匠について勉強し、日本女性としての所作の美しさも身につけている、燕吉が出るとなれば、それまで落語に興味のなかった若い男性ファンが詰め掛けるほどだ。

 そして、八年が過ぎた。
 前座時代の二年と併せて十年、二つ目に上がった頃のフィーバーこそ収まったが、燕吉の芸は更に磨かれて、名だたる師匠たちから見ても文句のつけようがないレベルにまで達していた。
「どうだい? そろそろ燕吉に真を打たせても良いんじゃないか?」
 そんな声も上がるようになった。
 そして燕吉自身も自分にはそれだけの実力が備わっていると思っていた。
 が、師匠が首を縦に振ってくれない。
「まぁ、焦る事はねぇよ、普通は入門から十五年やそこらはかかるもんだ、お前ぇはまだ十年じゃねぇか」
 ……燕吉は不満だった。
 落語界は実力社会のはずではなかったのか? 
 歌舞伎などとは違って、噺家は世襲制ではない、中には親も噺家と言う人もいないわけではないが、親がどれだけの名人であろうと高座に上がれば一人きり、誰も助けてはくれない、共演者に助けられて名優に育って行くなどと言う事はないのだ。
 噺そのものは江戸時代から伝わるものであっても、表現は自分で工夫しなければならない、映画などと違って監督や脚本に助けられることもないのだ。
 幸恵が落語界に身を投じた理由の一つがそこにある、東大卒ならば何処に就職しても学閥の助けを得られるが、むしろそれを良しとしない気持ちがあるからこそ、実力だけが物を言う世界に身を投じたつもりだったのに……。
 

 燕吉はそれまでは付き合いに嗜む程度だった酒に走るようになった。
 毎日のように深酒をすれば当然稽古は疎かになる、それまで蓄積して来たものがあるので高座をしくじるようなことはないが、時折自分では拙かったと思う高座もある。
 しかも、更に燕吉を混乱させたのは、自分では完璧でなかったと思える高座の方が受けが良いことだ。
 台詞は夢の中でも間違えなく言える位に稽古しているから淀みなく出てくる、しかし、時折、その台詞を吐く人物の心情に迷いが出るのだ、その結果、少し言い淀んでしまったり、酷い時にはつっかえてしまったりする、そしてそんな時にお客はむしろ喜んだりするのだ。

 その晩も研究会の高座の後、ひとりで飲んでいた。
 店は飾り気のないバー、服装は洋服。
 高座以外はほとんど洋服だ、一時は『落語界のアイドル』などともてはやされた身、和服で出歩いていると目立ってしまうのだ、だが洋装ならば、時折『あれ?』と言うような顔をされる事はあってもサインや握手を求められる事は滅多にない。
 そして、その男が隣に座った時、幸恵は既にかなり酔っていた。
 普段ならば幸恵は酔っていても愚痴っぽくはならない、それは見苦しいことだと考えているからのだ、だがその日はちょっと違っていた。
 二つ目の研究会で演じたのは『三枚起請』。
 起請とは、遊女がなじみの客に『年季が明けたらお前さんと一緒になります』と書いて渡す文のこと、喜瀬川と言う遊女が三人の客に々起請文を渡していたことがばれてしまい、三人に責められるが『女郎は客を騙すのが商売、騙される方が悪い』と開き直ると言う筋。
 しばらくぶりの演目、しかも充分にさらって行かなかったので遊女・喜瀬川の悪女振りを鮮やかに描けなかった、しかし、時折言い淀んでしまいしどろもどろになってしまう喜瀬川を客は随分と喜んだ……それがどうにも腑に落ちなかったのだ。
 男は聴き上手だった、幸恵の言葉に相槌を打ったり、時には疑問を挟んだりしながら辛抱強く酔っ払った幸恵の話を聴いてくれる、幸恵はそれに釣られる様に胸の中のありったけを男に投げかけた……『しくじったほうが受けると言うのはどういうわけ? あたしの芸をバカにしてるわけ? 見てらっしゃい、この次は稀代の悪女・喜瀬川を聴かせてあげるから』
 はっきりした記憶はないが、なんとなくそんな事を話して男に絡んだような気がする
 
 翌朝目ざめてみると、ちゃんとワンルームマンションの自分の部屋のベッドの上。
 どうやって帰って来たのか思い出せないが、着衣は夕べのままだが上着だけはきちんとハンガーに掛けてあったところを見ると、一人で帰って来たわけではなさそうだ。
 誰かに送ってもらったとすれば……昨日会ったばかりのあの男しか考えられない。
 
 翌日、幸恵は夕べのバーに出かけて行った。
 醜態を晒したのだから気恥ずかしさはある、だが、きちんと礼も言わないでいてはだらしのない女だと思われても仕方がない、そちらの方がより嫌だったのだ。
 果たして、男はまたその店に居た。
「夕べはすみませんでした、随分絡んだみたいで……もしかして送っていただきました?」
「ああ、いいんですよ、気にしないで下さい」
 間違いなかった、酔いつぶれて見知らぬ男に送ってもらったのだ。
 幸恵は恥ずかしさのあまり俯いた、そんな事は今まで一度だってなかった、逆に酔いつぶれてしまった友達を送ってやった事はあるが、随分と見苦しいと感じたものだ。
「お恥ずかしい所を……」
「いやぁ、むしろとても可愛らしかったですよ、あなたをベッドに横たえた時、自分を抑えるのが大変だった位で」
 男は屈託のない笑顔を見せる……幸恵をまた別の恥ずかしさが襲う。
 酒に酔って乱れた姿が可愛らしいだなんて……。
 その瞬間、幸恵の中に『恋』が芽生えた。

 幸恵は既に三十代、これまでにも恋はいくつか経験している。
 だが、身を焦がすような恋は未経験だ、何事もしっかり計算してそつなく立ち廻る幸恵にとって、恋心も数多ある感情のひとつでしかなかった、全ての感情を飲み込んでしまうような恋があるなどとは思いもしなかった。
 男の名は田中一郎、『単純すぎて偽名みたいだろう?』と笑いながら免許証を見せてくれた。
 幸恵は恋に、一郎に溺れた。
 時間が許す限り一郎と逢い、語らい、肌を重ね合った。
 
 芸の方はと言えば、一郎と恋に落ちてしばらくの間は『なんだか艶が出てきた』と好評だったが、高座に上がっている最中でも一郎の事が頭から離れなくなると、噺に集中できなくなりおざなりな高座が続くようになった。
『燕吉はどうしちまったんだ?』などと言われているのは知っていたが、自分ではどうにもならなかった。

 一郎が幸恵の前から突然姿を消したのは、付き合い始めて八ヶ月が経った頃の事だった。
 急に連絡が取れなくなって、幸恵はうろたえ、苦しんだ。
 そして、次に一郎の姿を目にしたのはワイドショーのテレビ画面の中だった。
 粘り強い操作の末に逮捕された腕利きの結婚詐欺、それが一郎……『偽名みたいだろう?』と笑った名前も本当に偽名だった。
 自分が恋焦がれた男の正体を知って、幸恵は愕然とした。
 自分に関して言えば金銭を貢がされたというようなこともなく、幸恵の方から結婚をほのめかしても、一郎はむしろその話題を避けるかのようだったのに……。
 しかし、ワイドショーが暴き出した一郎の手口、それは結婚するまでは徹底的に正体を隠すと言うもの、既にその手口で数回の詐欺を繰り返していた。
 それでも幸恵は諦めきれない。
 自分が噺家である事は勿論伝えた、二つ目では大した収入もないことも知っている、真打になれたとしてもすぐに収入が飛躍的に増えると言うこともないし、披露のために金がかかって借金を作るのが常である事も話した覚えがある。
 第一、 自分はそれなりに世間に名前と顔を知られている、結婚詐欺の対象としてはあまり……。
そこまで考えた所で、幸恵はクツクツと笑い出した。
(あたしは何を考えてるんだろう、あの人は詐欺師だった、被害に遭う前に捕まって良かった、それだけの事じゃない……ああ、あたしって自分で思っていたほど利口じゃないんだなぁ、それに、女だからって言われるのが嫌で突っ張って来たけど、やっぱりあたしは女なんだなぁ……)
 そう考えると、この十年間かい続けてきた突っ張り棒が外れたような心地がする。
(なんだか……せいせいしちゃった……)
 そう思って笑ったが、涙がとめどなく零れ落ちるのをどうにも出来なかった……。


 それからと言うもの、幸恵、いや燕吉は以前のように稽古に身を入れるようになった。
 しばらく身が入らない時期があったものの、元々は卓越した技量の持ち主、すぐに元通りの力を取り戻した。
 それだけではない、以前の燕吉はどこかぎすぎすとした堅さがあったのだが、すっかり丸みを帯びて来て、それに連れて噺も丸みを帯びてきた、そして、客の受けも上々だ。
「燕吉は一皮剥けたな、今度こそ真を打たせたらどうだ?」
 再びそんな声が上がるようになった。


「……ここらの烏をみんな殺して、あたしゃ朝寝がしてみたいのさ」
 燕吉は師匠の前で『三枚起請』を演じている、師匠から呼び出されて、語るように言われたのだ。
「うん……良くなった、何処が良くなったのかわかるか?」
「はい……以前は完璧な悪女を演じようとしてました、でも喜瀬川はそこまで計算高くないですし、そこまで性根が悪いわけでもないですから……」
「そうだ、その通りだ、落語に出てくる人物なんて一人として完璧な奴ぁいねぇよ、どこか抜けてるか全部抜けてるかどっちかだ、お前ぇは最初から上手かったよ、だけどよ、描き出す人物が全部一面しか持ってなかった、人間なんて二面、三面を持ってるのが当たり前ぇだ、ことさら落語に出てくる人物はな……噺家もそうだ、完璧な噺家なんざ面白味がねぇやな、ほら、昔から言うだろう?」
「あ、あれですか?」
「そうだよ、いっぺんに言ってみるか?」
『『 馬鹿じゃできない、利口じゃやらない 』』
 師匠と弟子は声を合わせ、そして笑い合った。
「お前ぇ、真打になりな」
「はい、ありがとうございます」
「なに、お前ぇを真打にって話はとっくに出てた、俺一人が首を縦に振らなかっただけだ、今までは大看板と呼ばれる位になった女流噺家はいねぇ、だけどお前ぇならなれると俺ぁ思ってるんだ、ひとつだけ足りなかったものをお前ぇは自分で見つけた、もう俺が教せぇることもなくなったよ」
「ありがとうございます……で、名前なんですが」
「おう、そうだな、新しい名前をつけねぇといけねぇな……と言ってもまだ何も考げぇてねぇんだが……」
「もし構わなければ、ひらがなのつばに女と書いて、『つば女』と」
「うん、そいつは良い名前だな」
 師匠はその名を考えた幸恵の心中を察して、満面の笑みを浮かべた。

「……ここらの烏をみんな殺して、あたしゃ朝寝がしてみたいのさ」
 真打披露公演の千秋楽、大トリを務めた燕吉改めつば女は『三枚起請』を演じた。
 会場からは惜しみない拍手、そして、『がんばれよ!』『日本一!』と言った励ましの掛け声……。
 つば女がなかなか顔を上げられなかったのは、拍手がいつまでも鳴り止まなかったからばかりではなかった……。



(終)
 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み