待つ
文字数 2,377文字
昼休み。窓際の自分の席で頬杖をついていると、薄いピンク色の花弁がひらひら舞い込んできた。
わたしたちは、囚われの塔の姫。制服という囚人服に胸の膨らみかけた身体を包んで、笑いさざめきながら、意味のないおしゃべりをしている。使用許可を与えられているのは、そんな言葉だけだから。考えるのは、罪。ただ花のように無心に笑いさざめいていれば、大人はやさしくしてくれる。
わたしはこっそり時計を見る。昼休みは残り9分45秒。間に合うはずだけど、やっぱり怖い。〈悪い子〉にはなりたくない、絶対に。悪い子は〈再教育施設〉に連れて行かれる。先生は、施設で〈良い子〉になったと認められれば戻ってこられると言うけれど、本当に戻ってきた子は一人もいない。わたしたちも二度とその子のことは話題にしない。それが、ここの空気 。
鞄の中にそっと手を差し入れる。
もし誰か、一言でもわたしに声をかけたら、止める。一種の賭け。
わたしの右手が
上着のポケットにさりげなく滑り込ませる。身体検査があるから、あらかじめ上着に隠しておくことはできなかったのだ。立ち上がる。残り9分32秒。
教室の前側のドアに向かう。空気に変化はない。でも、皆の目は背後からじっとわたしを監視しているのかもしれない。
センサーがわたしの網膜を認識する。ドアが横に滑って開く。
皆の声が急に低くなった気がして、一瞬背筋が凍りつく。
落ち着いて。誰もわたしの計画を知っているはずはない。見とがめられたら、トイレに行くと答えるだけ。女の子は一人ではトイレに行かないもの? まさか、ね。冷静になろうとするほど足が縺 れる。思わず、わあっと叫び出しそうになる。
階段の前に着く。残り6分24秒。〈非常用〉と書かれている。でも、実際は何があっても高速エレベーターは止まらないから、階段が使われることはないのだ。わたしは深呼吸を一回、そして階段を駆け下りる。上履きの底が階段の滑り止めの金具と触れ合って音を立てる。
わたしは、待っている。
この長い階段の踊り場のどこかで、上ってくるその人と鉢合わせすることを。
その人は背が高くて、わたしの頭はその人の胸までしかない。おでこをぶつけたわたしは、後ろに尻餅をつく。スカートがふわりと開く。
その人はわたしを助け起こそうとして慌てて屈んだ拍子に、プリーツのつぼみの中をまともに見てしまう。
わたしは悲鳴を上げて膝をぎゅっと合わせ、両手でスカートを押さえる。その人はばね仕掛けみたいに跳び上がり、そっぽを向いて怒ったように言う。な、何も見てないからな、俺は。
わたしはスカートが開かないように注意しながら、立ち上がる。残り2分16秒。その人は手を貸してくれる。目をあさっての方に向けたまま。わたしは耳まで赤くなった顔を隠すために俯く。前髪が、揺れる。スカートの上から軽くお尻をはたいて埃を払う。
「ごめん」改めてその人は謝り、不器用に頭を下げる。
「許してあげるから、一つわたしの言うことを聞いて。さっき尻もちついて痛かったんだもの。それくらい、いいでしょ?」
「わかった」その人は頷く。囚われの塔にいる姫を見上げる騎士のように献身的な表情で。それは百年前の人だけができた素敵な表情。うっとりしかけたわたしは、残り時間が1分を切ったのを見て焦り出す。
「これを、受け取って」
「何だろう。見たことないな」
「手紙というものよ。昔の人は紙に自分の手で文字を書いて、想いを他人に伝えたの」
「歴史の時間に勉強したことはあるけど、実物を見るのは初めてだ。これを俺は、誰かに届ければいいのかな」
「違うわ」あと10秒。「あなたが読むの」
「俺が?」
「これは、あなたに宛てた手紙なの」
言えた。瞬間、わたしたちの周りで時間が激しく渦を巻く。百年の時が一気に巻き戻ろうとしている。姫が吹き飛ばされないように、騎士はしっかりと抱きとめていてくれた。曾祖父も同じように曾祖母を守ったことを、わたしは
「百年待っていました。あなたを……」
騎士の腕の中で、わたしはそっと呟く。
気がつくと、わたしは教室にいた。残り時間0秒。教鞭を手にした先生が入ってくる。わたしたちは机のディスプレイを開く。
百年前には、学校で紙の教科書とノートが使われていたと言う。今は博物館に行かなければ見られない。でも、紙の本がなくなった代わりに、百年前ですら既に使われていなかったらしい教鞭が復活した。しつけが何よりも大事だって、先生はいつも言っている。
この世界にあるものは、何が古くて、何が新しいのだろう。何が正しくて、何が間違っているのだろう。よくわからない。わたしたちは、考えることを許されていないから。
考えるのは、罪。
先生は鞭でぴしりと教卓を叩く。クラス委員が号令をかけ、わたしたちは一斉に立ち上がる。そう、わたしたちは囚われの塔の姫。何も考えず、花のように無心に、誰かの命令通りに動く可愛いお人形。
でも、お人形であるわたしは、ずっと待ち続けている。
わたしはいったい、誰を待っているのかしら。
運命の、騎士 ?
わたしを囚われの塔から解き放ってくれる騎士。
そんなこと、現実では起こり得るはずないのに。
だってここは男子禁制の少女の学び舎 。そもそも思春期の異性交遊は、精神的堕落をもたらす悪習として、とっくの昔に法律で禁止されているんだもの。
わたしの身体が起こした風のせいか、机の上の花びらがひとひら、悪戯っぽく笑う少女みたいに転がりながら窓の外へ流れていった。わたしも、あの花びら。夢を見ながら、待ちつづける花びら。先生だって、わたしが百年前――曾祖母や曾祖父の時代、まだ恋が許されていた時代の夢を見ることまでは罰せられない。
そう。これはたぶん、きっと、小さな革命。
わたしたちは、囚われの塔の姫。制服という囚人服に胸の膨らみかけた身体を包んで、笑いさざめきながら、意味のないおしゃべりをしている。使用許可を与えられているのは、そんな言葉だけだから。考えるのは、罪。ただ花のように無心に笑いさざめいていれば、大人はやさしくしてくれる。
わたしはこっそり時計を見る。昼休みは残り9分45秒。間に合うはずだけど、やっぱり怖い。〈悪い子〉にはなりたくない、絶対に。悪い子は〈再教育施設〉に連れて行かれる。先生は、施設で〈良い子〉になったと認められれば戻ってこられると言うけれど、本当に戻ってきた子は一人もいない。わたしたちも二度とその子のことは話題にしない。それが、ここの
鞄の中にそっと手を差し入れる。
もし誰か、一言でもわたしに声をかけたら、止める。一種の賭け。
わたしの右手が
それ
を探り当てた。上着のポケットにさりげなく滑り込ませる。身体検査があるから、あらかじめ上着に隠しておくことはできなかったのだ。立ち上がる。残り9分32秒。
教室の前側のドアに向かう。空気に変化はない。でも、皆の目は背後からじっとわたしを監視しているのかもしれない。
センサーがわたしの網膜を認識する。ドアが横に滑って開く。
皆の声が急に低くなった気がして、一瞬背筋が凍りつく。
落ち着いて。誰もわたしの計画を知っているはずはない。見とがめられたら、トイレに行くと答えるだけ。女の子は一人ではトイレに行かないもの? まさか、ね。冷静になろうとするほど足が
階段の前に着く。残り6分24秒。〈非常用〉と書かれている。でも、実際は何があっても高速エレベーターは止まらないから、階段が使われることはないのだ。わたしは深呼吸を一回、そして階段を駆け下りる。上履きの底が階段の滑り止めの金具と触れ合って音を立てる。
百年前の音
が響き渡る。わたしは、待っている。
この長い階段の踊り場のどこかで、上ってくるその人と鉢合わせすることを。
その人は背が高くて、わたしの頭はその人の胸までしかない。おでこをぶつけたわたしは、後ろに尻餅をつく。スカートがふわりと開く。
その人はわたしを助け起こそうとして慌てて屈んだ拍子に、プリーツのつぼみの中をまともに見てしまう。
わたしは悲鳴を上げて膝をぎゅっと合わせ、両手でスカートを押さえる。その人はばね仕掛けみたいに跳び上がり、そっぽを向いて怒ったように言う。な、何も見てないからな、俺は。
わたしはスカートが開かないように注意しながら、立ち上がる。残り2分16秒。その人は手を貸してくれる。目をあさっての方に向けたまま。わたしは耳まで赤くなった顔を隠すために俯く。前髪が、揺れる。スカートの上から軽くお尻をはたいて埃を払う。
「ごめん」改めてその人は謝り、不器用に頭を下げる。
「許してあげるから、一つわたしの言うことを聞いて。さっき尻もちついて痛かったんだもの。それくらい、いいでしょ?」
「わかった」その人は頷く。囚われの塔にいる姫を見上げる騎士のように献身的な表情で。それは百年前の人だけができた素敵な表情。うっとりしかけたわたしは、残り時間が1分を切ったのを見て焦り出す。
「これを、受け取って」
「何だろう。見たことないな」
「手紙というものよ。昔の人は紙に自分の手で文字を書いて、想いを他人に伝えたの」
「歴史の時間に勉強したことはあるけど、実物を見るのは初めてだ。これを俺は、誰かに届ければいいのかな」
「違うわ」あと10秒。「あなたが読むの」
「俺が?」
「これは、あなたに宛てた手紙なの」
言えた。瞬間、わたしたちの周りで時間が激しく渦を巻く。百年の時が一気に巻き戻ろうとしている。姫が吹き飛ばされないように、騎士はしっかりと抱きとめていてくれた。曾祖父も同じように曾祖母を守ったことを、わたしは
思い出す
。「百年待っていました。あなたを……」
騎士の腕の中で、わたしはそっと呟く。
気がつくと、わたしは教室にいた。残り時間0秒。教鞭を手にした先生が入ってくる。わたしたちは机のディスプレイを開く。
百年前には、学校で紙の教科書とノートが使われていたと言う。今は博物館に行かなければ見られない。でも、紙の本がなくなった代わりに、百年前ですら既に使われていなかったらしい教鞭が復活した。しつけが何よりも大事だって、先生はいつも言っている。
この世界にあるものは、何が古くて、何が新しいのだろう。何が正しくて、何が間違っているのだろう。よくわからない。わたしたちは、考えることを許されていないから。
考えるのは、罪。
先生は鞭でぴしりと教卓を叩く。クラス委員が号令をかけ、わたしたちは一斉に立ち上がる。そう、わたしたちは囚われの塔の姫。何も考えず、花のように無心に、誰かの命令通りに動く可愛いお人形。
でも、お人形であるわたしは、ずっと待ち続けている。
わたしはいったい、誰を待っているのかしら。
運命の、
わたしを囚われの塔から解き放ってくれる騎士。
そんなこと、現実では起こり得るはずないのに。
だってここは男子禁制の少女の学び
わたしの身体が起こした風のせいか、机の上の花びらがひとひら、悪戯っぽく笑う少女みたいに転がりながら窓の外へ流れていった。わたしも、あの花びら。夢を見ながら、待ちつづける花びら。先生だって、わたしが百年前――曾祖母や曾祖父の時代、まだ恋が許されていた時代の夢を見ることまでは罰せられない。
そう。これはたぶん、きっと、小さな革命。