第1話『おっさん、逃げ隠れする』前編

文字数 3,034文字

「はぁっ、はぁっ……」

 薄暗い森の中、獣道すらない場所を息を切らせながらタブレットPCを片手に全力で走る敏樹の姿があった。

「ゲギョゲョッ?」「ゴギョッゴギョッ!!

 なんとも言えぬ不快なわめき声が少し離れた位置から聞こえるのを確認した敏樹は、さらに走るスピードを速めた。
 かれこれ5分ほどは全力で走り続けており、そこからさらに数分走ってようやく先ほどの喚き声が聞こえなくなった。

「はぁ……はぁ……。撒いたか……」

 いつもより小さな声でつぶやいたあと、敏樹は近くにあった木の幹にもたれかかり、そのままずるずると腰を下ろした。


 時は少し前に遡る。

 実家のダイニングルームで町田と話していた敏樹だったが、気がつけば見知らぬ森にいた。
 突然椅子がなくなったせいで尻餅をついた敏樹は、手で尻を払いながら立ち上がり、その時点で靴を履いていないことに気付く。

「なんなだよ、もう……」

 ボコボコとした地面の感触を靴下越しに感じながらも、敏樹は薄暗い森を用心深くゆっくりと歩いた。
 ここがどこであるのか、その答えをなんとなく察しながらも、敏樹は理解するのを恐れるように思考を停止し、とにかくどこか開けた場所に出られないものかと森を歩いていた。
 そんなときである。

「ゲギャゲギャ」「ゴギョ……」

 鳥とも獣とも判断のつかない鳴き声のようなものが聞こえてきたのであった。

「……意外と近いな」

 敏樹は近くにあった木の幹に身を潜め、声(?)のするほうをのぞき見た。

「うわああああっ!!

 そして目にしたものの異様さに、思わず叫び声を上げてしまった。
 敏樹の視線の先には二足歩行で歩く人型とおぼしき2匹生物(?)がいた。
 身長(体高?)は130~140センチ程度で、同程度の人間に比べるとかなり頭が大きく見える。
 体格は肩幅が狭く、腰回りも細いので華奢に見えるが、身長の割に長い腕や、逆に短い脚にはかなり発達した筋肉がついており、胸板や腹筋もそれなりに厚い。
 なにより異様なのはその肌の色であり、緑色――というにはあまりに汚らしく、強いて言えばどぶ色とでもいったところか――には体毛のようなものは見えず、衣服をまとっている様子もないので、股間には見たくもないものがぶら下がっており、それがなお一層嫌悪感をかきたてる。
 目はぎょろりと大きいが瞳は異様に小さく、鼻は削り取られたように低い。
 口元には不揃いな歯や牙が見え隠れしており、その容姿は“醜悪”の一言に尽きるものであった。

「グギャギャッ」「ギギーッ!!

 そして大声を上げてしまったことで敏樹の居場所が相手にばれてしまったようである。

「しまった……!!

 ファンタジー、あるいはホラー作品などにおいて、身を潜めているにもかかわらず恐怖のあまり声を上げてしまうキャラクターを馬鹿にしていた敏樹であったが、いざ普通のおっさんが訳のわからない森にいきなり飛ばされたうえ正体不明の醜悪な生物を目にした日には叫ばずいられないということを、経験したくもない実体験をもって悟らされしまった。

「くそっ!!

 敏樹は自分を指してなにやらわめき声を上げている2匹の生物から逃げるべく走り出した。
 それぞれの手には、木切れの枝を落としただけのような粗末な棒が持たれていたが、あの筋肉質な身体から繰り出される木の棒によるフルスイングが、一体どれほどの威力になるのか、想像しただけでも背筋が凍る思いである。

「足、いってぇ……」

 靴を履いていない状態ででこぼことした状態の、しかも小石や木切れがころがっているような地面の上を走るのは苦痛以外の何物でもなかった。
 しかしそんなことを気にしている暇があれば、連中から1メートルでも距離を稼ぐべきであろう。
 最初は痛かった足の裏も、やがて感覚が麻痺したのか数分で痛みを感じなくなった。
 これがアドレナリン分泌による一時的な作用であれば、立ち止まったときにどれほどの痛みに襲われるのか、そして足の裏がどれだけ傷だらけになっているのか……。
 全力で走りながらも、どこか冷静にそんなことを考えながら、敏樹はひたすら走り続けた。
 どうやら先ほどの生物はそれほど走るのが速くないようで、順調に距離を稼ぐことが出来た。
 こうやって考え無しに走っている最中、他の生物に遭遇しなかったのは幸運と言えるだろう。
 やがてわめき声が聞こえなくなり、敏樹は木にもたれかかってしゃがみ込んだのであった。

「くそう……、この歳でここまで全力疾走すると、さすがにキツ――」

 そこで敏樹は自分の息があまり切れていないことに気付いた。
 胸に手を当て呼吸を整えようとしたのだが、そうするまでもなくしゃがみ込んだ時点で荒れた呼吸は治まっていき、胸に当てた手から伝わる鼓動も、徐々に落ち着いていった。

「――くない? なんで?」

 10分にも満たない全力疾走、といえばたいしたことがないように思われるかもしれないが、敏樹は短距離走並みの速力で走っていたはずである。
 十数秒の100メートル全力疾走だけでもかなり疲れるはずだが、敏樹はここまでその何倍もの時間を舗装されていない森の中という悪環境の中を、全力で(・・・)走り続けたのである。
 にもかかわらず、疲れはほとんどなかった。

「そうだ、足の裏っ」

 ここまで靴下のみで走ってきた足の裏は、さぞひどいことになっているだろうと思い、敏樹は恐る恐る右足を持ち、その裏を自分のほうに向けた。

「うへぇ……」

 そして予想通り、足の裏はひどいことになっていた。
 靴下は所々破れて穴が開き、血がしみこんでいる部分もあり、むき出しになった足の裏には、泥混じりの乾いた血がこびりついていた。

「ん……? あんま痛くねぇな」

 まだアドレナリンがドバドバでているのだろうか、などと疑問に思いつつも、敏樹はこびりついた血混じりの泥を恐る恐る払ってみたが、少しくすぐったいだけで痛みは一切感じなかった。

「どうなってんだ……?」

 次は強めにゴシゴシとこすってみたが、少なくとも穴の下から露出した部分に傷のようなものはなさそうである。
 さらに敏樹は靴下を脱ぎ、汚れていない足首の部分でゴシゴシと足の裏をこすったが、すべての汚れが取れたわけではないものの傷のようなものは確認できず、それは左足でも同様だった。

「でも、血は出てたんだよなぁ……?」

 つまり、一時は出血するほどの傷があったものの、この短時間で治ったということになるのだろうか。

「ゲギョ」「ギギギ」「グギャギャ」
「っ!?

 そんな中、再び例のわめき声が聞こえてくる。
 思わず叫びそうになった敏樹だったが、なんとか息を呑むだけにとどめることができた。
 しかし、かなり距離を稼いだように思えたが、もう追いつかれたのだろうか?

(さっきの連中とはべつのやつか?)

 冷静になって聞いてみれば、その喚き声には先ほどのような殺伐とした雰囲気はない。
 それに、その声色から察するに少なくとも3匹いるようなので、おそらく別の個体であろう。

(いや、さっきよりヤバいじゃないかよ‼︎ 頼むから向こうに行ってくれ……‼︎)

 しかし敏樹の願いもむなしく、その声はじわじわと近づいてくるのだった。
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