認められない価値観・認めてもらえない価値観

文字数 1,676文字

≪《認められない価値観と、認めてもらえない価値観は違う。
》≫

現代社会、そしてこれからの未来において価値観はどんどん多様化していく。そして「価値観の多様性」という言葉と共に外部からの価値観の流入もあるだろう。逆にこちらから広がる価値観もあるだろう。
価値観とは何に重きを置くのか、というものであるとともに、自分自身だけが持つ社会・世界・事象に対する尺度のようなものであるといえると思う。故に関係性において重要なものでもある。言わなくても分かってるか、失礼。

そして多様な価値観が認められるべき見たいな感じで始めたくせに、とタイトルと早速矛盾しているような気がするが、現在において否定されている価値観は2種類に分けることが出来るという私の考えを述べさせてもらう。

それが周囲の容認がされていないだけの「認めてもらえない価値観」と拒絶される「認められない価値観」だ。

今現在の社会に「認めてもらえない価値観」というものはたいてい新しいものだ。
インターネットから始める交友関係の構築
男性が育児休暇を取る
仕事ではなく人生に重きを置いた労働
夫婦間での役割の変化

全て昔には認められなかった考え方であるが時間と共に緩やかに容認され社会に受け入れられる。

気を付けなければならないのは、今の世代から見た古い世代の価値観も「認めてもらえない価値観」であるということも知っておかねばならない。同じ言葉であったとしても世代間で意味が異なるのと同じように、大事に考える物もまた移り変わる。
今の世代からすれば仕事だけを生きがいにするのはナンセンスであろうし、老いては子に従えという言葉にもあるように、価値観がずっと同じであり続けることはなく世代によって中核は変容するのだ。
その時自身の価値観を振りかざす存在はもれなく老害と呼ばれるだろう。


対して認められない価値観というのは容認されない価値観と言える。
近代社会、特に欧米における移民がいい例だろう。もともとは「認めてもらえない価値観」として共存の可能性があったはずのものが、一部の凶悪な移民によって「認められない価値観」へと変貌を遂げ結果として移民排斥を主張する政党が多く生まれ今に至る。
羊の集団の中に「狼がいてもいいという価値観」を認めろと言っているのと同じだ。一部の者だけが、本来守られるはずの人たちが持つ権利をしゃぶり尽くすためだけの詭弁に過ぎない。

明確な点は他人を害するか否かと言えるだろう。あるいは迷惑をかける、と言い換えることもできるかもしれない。認められない価値観というものは、存在自体が社会や集団にとって毒であるのだ。
「認めてもらえない価値観」は、発生当初は混乱を生み迷惑をかけることもあるだろう。しかしその価値観があるという恩恵を迷惑を被った人も獲得を視野に入れられる形で還元される。あるいはその選択肢があることがその人にとって大切誰かを救える可能性もあるのだから。それだけ選択肢があるということは大切なのだ。
対して「認められない価値観」は恩恵など生まない。あるとするなら利権とその価値観を持つ社会性の著しく低い集団からのおべっかだろう。その価値観という選択肢が生むのは得する一部と損を押し付けられる人たちの対立でしかない。

これからの社会はこの二つを見極める必要がある。そして必要であるなら理解し、許容し、あるいは否定しなければならない。
それだけ面倒な分だけ、たくさんの生き方の可能性を持てる社会になったことを憶えておいてほしい。
そして新しい価値観を認められる人間であってほしいと勝手に期待させてもらう。



最後に、これはアドバイスでもある。
これからの社会は多様化していく。そしてそれは多くの価値観が混在する状況を生きていくことを意味している。その時に自分の根幹となる価値観が固まっていないと、乱立したそれらに振り回され自分の人生を無駄にすることになりかねない。
自分自身がどう生きる、どう考える、何を望むのか。

しっかりと自分自身を捉えてみると、存外に面白いかもしれない。
人生において変化していく価値観という命題を楽しんでほしい。
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