山紫陽花・Ⅰ
文字数 2,131文字
若草の香り萌え立つ三峰の尾根。
春紫(しゅんし)の空を馬の形に切り抜いて、純白のリピッツァが草を食む。
少し下った窪地で、何かがピョンピョン跳ねている。
山のキノコ妖怪か? と思いきや、ソバージュの癖っ毛が思いっきり外側に広がった、小柄な娘だった。
ワサワサ揺れる髪も、飴色の肌も、大きなレモン色の瞳も、この辺りの山岳民族とは異なる。
その娘が両手をブンブン振り回して、下に向かって嬉しそうに叫んでいる。
「シータ、見て見て! ここに一杯ある!」
「駄目よ、カーリ」
背の高い娘がゆったりと登って来た。
「それは似ているけれど、食べられない草なの。葉の付き方をよく見て」
こちらの娘は色白で、墨で線を引いたような真っ直ぐな黒髪を頭のてっぺんでキリリとまとめた、地元部族の娘。
対照的な二人の娘は向かい合って屈み、足元の草をかき分け始めた。
「ほら、こういう風に葉が三つづつ出ているのは食べられる。でも、こっちの根元が紫のはダメよ」
「そんなにいっぺんに言われても……えーと」
「すぐに覚えるわよ」
砂漠の国から山岳地方に来たばかりのカーリに、三峰の娘シータが、山菜採りを教えているのだ。
***
季節感の乏しい砂原と僅かの灌木帯しか知らなかったカーリにとって、日々変化する三峰の窓景は、魔法を見ているようだった。
「山に行きたい、出てみたい、フウヤ!」
「ダメダメ、カーリみたいな方向音痴、藪に巻かれたらあっという間に迷子だぞ」
婚約者のフウヤは、仕事の準備をしながら慌ただしく言った。部族内の工作を一手に引き受ける彼は、春先は特に忙しい。
ここに来た当日に迷子になって、捜索隊を出す羽目になった風船娘を、一人で山に出すのは限りなく不安があった。
「だって、来週には婚礼の儀だというのに、山の事を何一つ知らないんだもの。わらわは一日も早く三峰の女らしくなりたいのっ」
「せっかちだなあ、カーリは。そのまんまでいいのに」
「まだ山にも行った事ないって言ったら、養蚕小屋の女将さん達が笑うんだよ。フウヤが過保護だって」
「おょ」
「リピッツァだって、たまには散歩に出してあげたいよぉ!」
「うーん……」
で、せがまれ負けたフウヤが、幼馴染みのシータに頭を下げに行く運びとなる。
「え? 私だって忙しいのよ。機(はた)だって織りかけだし、巫女の仕事もあるのに」
困った素振りをしながらも、シータは、カーリの事となると断らなかった。
***
「ひゃあっ!」
「どうしたの、カーリ」
「え、枝が動いた!」
尻餅を付いたカーリの眼前で、木の枝の先端がクネクネと踊っている。
「カーリ、それはシャクトリムシ」
「シャ、シャクト……?」
「虫よ、虫!」
「はぁ、ムシ……なんて面妖な」
「擬態っていうのよ」
「はあぁ、驚いた。三峰では春になったら木の枝も動き出すのかと思った」
「まさか!」
大きな瞳を寄せて枝を這う虫を凝視するカーリに、シータは肩をすぼめて苦笑した。
今、この娘の頭の中では、一斉にうごめきながら枝を伸ばす春の山の風景が大真面目に展開されているのだろう。
それを想像して、知らず知らずに頬が緩む。
「・・シータ、シータ?」
「・・えっ」
目の前にレモン色の大きな瞳。
「どうしたの、シータ?」
「あ、ううん、ちょっとぼぉっとしちゃった」
「へえ! シータでもぼぉっとするんだ」
「するわよ」
シータは取り繕うように、今採った草を選り分け始めた。
「あら、この刺繍?」
「ああ――っ!」
細かい新芽を包んでいたハンカチを、シータが目の高さに上げたが、カーリはすぐに取り上げてしまい込んだ。
「どうして隠すの? もっとよく見せてよ」
「駄目だよ、刺し目だって揃っていないし、全然下手くそ。この間習い始めた所だもん」
「懐かしいわ、その花模様。みんな最初はそれを練習するのよねえ」
「シータもやったの?」
「三峰の女の子はみんなやるわよ。私、その花好きなのよ」
――ヒュ―――イ――
霞の空を突いて、澄んだ指笛がこだました。
「ヤンだわ」
「そうなの? よく分かるな、シータ」
「ええ、……あら、もう狩りが終わったって? いつもより早いじゃない」
「えっ、大変! シータ、先に戻って」
シータには、狩りの仕舞いの祝詞(のりと)をあげる巫女の役割がある。
彼女が鎮魂の祈りを捧げて厄を落とさないと、男達は自宅へ帰れないのだ。
「カーリは大丈夫?」
「うん、ここからなら一人で帰れる。大丈夫だから、早く早く!」
「じゃお先に、カーリも気を付けて」
シータは少し慌てた感じで、ポニーテールをひるがえして、道を逸れた谷へ駆けて行った。
谷は藪だけれど近道で、シータ一人なら、そちらの方が断然早いのだ。
残ったカーリは山菜かごを背負って、リピッツァの所までゆっくりと登った。尾根の頂上から、洗濯板みたいに折り重なった三峰の山々が見渡せる。
「早くこの景色を好きになろう」
正直、砂漠の国から、気候も習慣も違う山岳の村へ来た時は、物凄く不安だった。
でも、シータも他の人達も親切にしてくれる。
大丈夫、自分はきっとちゃんとした三峰の民になって、フウヤのいい奥さんになれる。
「うん、頑張ろう」
一言愛馬に呟きかけて、飴色の肌の娘は、綱を引いて尾根道を歩き出した。
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