山紫陽花・Ⅴ

文字数 2,694文字

 

 今日の三峰の尾根も、春霞にけぶっている。
 シータは、墨で線を引いたような黒髪を風に揺(たゆ)らせながら、山陵の岩肌に腰掛けていた。

「見て、シータ!」
 キノコ頭の娘が、山菜カゴを抱えて駆け登って来る。
「一人でこれだけ採れたよ! 間違っていないでしょ」

「どれどれ」
 シータが山盛りの山菜カゴを選っている間、カーリは脇でそわそわしている。

「全部正解。凄いわ、よく覚えたわね。でもこれはなあに?」
 シータの掴み出したこぶし大の木の破片を引ったくって、カーリはそれをカゴの奥に突っ込んだ。

「ダメだよ触ったら。もうちょっとで起きるかもしれないのに」
「おきる?」
「そう、だってそれ、どう見たってネズミでしょ? ほら、ここが耳でここがしっぽ。『ギタイ』の魔法で木に化けているんだよ、きっと」
「…………」
「木からネズミになる所、見られるかなあ」

 言いながら立ち上がったカーリは、傍らのシータが両肩を抱えてうずくまっているのを見て、慌てふためいた。

「ああ! ほらやっぱり。昨日の今日でまだ本調子じゃないのに、山歩きは無理だったんだよぉ」

「ち、違うのよ…」
 顔を上げたシータは、涙を浮かべてひきつり笑いをしていた。
「いや、あのね、カーリ、擬態って言うのは……アハハ、あはあは、ああ、苦しい」

 シータは笑いながら顔を上げて、靄の隙間に見え隠れする三峰の山々を見やった。
 小さい時から見ている同じ繰り返しの風景なのに、この娘がいるだけで、今朝生まれたみたいに新鮮に見える。

「シータ?」
 レモン色の瞳が覗き込む。
「ああ、大丈夫なのよ、そんなに心配しないで」
「ホントに?」
「本当よ」

「織物大変だろうけれど、夜は寝ないとダメだよ」
「織物? ああ、あんなの急ぎじゃないからいいのよ」
「そうなの?」

「それより、貴方に返すハンカチ、織らなきゃね」
「いいよ、練習で作った下手くそな奴だったもん」
「そうは行かないわ、失くしちゃったのは私だもの」
「仕方がないよ、具合が悪かったんだし。それより、何だか安心しちゃった」
「なあに?」

「シータでも物を失くしたりするんだ」
「するわよ」

 草を払って立ち上がり、シータは谷を見下ろした。
 そう、一昨日(おととい)の、あの谷の藪の近道から、全てが始まったんだ……


 ***


 一昨日・・

 カーリと別れて集落への近道を走っていたシータは、笹藪で何かにつまづいた。
 足元が見えないとはいえ、勝手知ったる道、こんな所に出っ張りなんか無かった筈だ。

「いってぇ!」

 藪から起き上がったのは、八つか九つ位の男の子だった。
 シータは一瞬息が止まった。
 だってその子は、顔も手も釜戸の消し炭みたいに真っ黒なんだもの。
 飴色の肌のカーリを知らなかったら、地霊か妖怪の類いだと思ってしまったかもしれない。

 帽子も衣服も、長靴までもが黒づくめで、唯一黒くない白眼の部分だけがやけに鋭く光っている。子供なのにやけに凄みのある子。
 少なくともこの辺りの子供ではなさそうだ。

「ご、ごめんなさい。でもこんな藪の中で何をやっているのよ?」
「別に……」

 子供は不機嫌な様子でそっぽを向いた。
 見れば手足は擦り傷だらけで、着ている物にもカギ裂きが出来ている。
 黒くて判りにくいが、視線は定まらないでソワソワと落ち着かない感じだ。

「貴方、もしかして藪に巻かれて迷子になっていたの?」

「ち・が・う!」
 子供は即座に言い返した。
「ちょっと昼寝をしていただけだ。俺をそこいらのトロい子供と一緒にするな!」

「そう、じゃあ、さよなら」
 シータはくるりと背を向けた。
「あ、おい」
「なあに、迷子じゃないのなら、一人で帰れるでしょ」
「……」

「私急ぐの、じゃあね」
 去りかけるシータの前に、子供は無理やり回り込んだ。
「待て、ちょっと待て」
「なあに?」

「う、馬が寂しがっているんだ。下の谷で独りで待っている。可哀想だとは思わないか?」
「はあ?」
 シータは肩をすぼめて溜め息した。
「ねえ、私、本当に急ぐの。谷の見える所まで案内してあげるから、着いて来たかったら勝手に着いて来なさい」

 黒髪の女性が先に立ってさっさと歩き出したので、男の子も黙って付いて来た。

「貴方、何処から来たの? 大人のヒトは?」
「大人なんかいないよ、俺と馬だけだ」
「嘘! 貴方みたいな小さい子が、一人で遠くから来てフラフラしている訳ないじゃない」

「馬鹿にすんな。俺はそこいらの子供と違う。一人前だから、大人と同じ役割を任せられてここに来たんだ」
「へえ?」
「祖父からの指示を言付かって来た、正式な使者だ」

 シータが立ち止まったので、男の子は彼女の背中に鼻っ面をぶつけた。

「いってぇなぁ!」
「使者って、三峰の族長に御用って事?」
「違う」
 男の子は鼻を押さえながら、上目で背の高いシータを睨んだ。
「カーリというヒトが、最近、この土地に来ただろう」
「? え、ええ……知っているわ」
 シータは真顔になって、子供に正面向いた。

「あのヒトは、砂漠の砂の民の総領の大切な令嬢だ。本当はそんなに簡単に他所にやれるヒトではない」
「……」
「だから、俺が密使として遣わされたんだ。カーリの様子を見て来て、山の暮らしに難儀しているようなら、総領の元に呼び戻すようにと」

「ええっ!? そんな!」
 シータはまじまじと子供を見た。
 子供とは思えないはっきりとした口調に、大人びた鋭い目。
「だって、カーリは、フウヤを好いてここに来たのよ。それを引き離すっていうの?」

「そんな事するもんか」
 男の子の表情は、シータの動揺を見て取って悦を帯びている。
「勿論フウヤも一緒だ。総領の娘婿として、相応の身分と家畜の用意がある」
「……」

「あんたなんかには想像付かないだろうけれど、砂の民は西の砂漠で一番勢力の大きい強い部族なんだ。財も家畜も桁が違う」
「お、大きかろうが何だろうが、フウヤが三峰を離れる筈がないわ」
 シータは子供相手にムキになっていた。

「カーリがここで暮らすのに苦労していてもか?」
「そ、そんな事ないわよ、彼女は……」
「修道院で世間ずれしないで育って、総領屋敷でも何不自由なく甘やかされていたんだ。そんなカーリに、ここの生活を一から覚えなきゃならないのは、可哀想だとは思わないか?」
「彼女はそんな……」

「カーリって、謝ってばかりだろう?」
 男の子は話の主導権を握って、饒舌になっている。
「……」
「自分の世間知らずを自覚しているから、すぐに委縮してしまう。生活も習慣も違う知らないヒトばかりの中で、どんなにか心細かろうと、お祖父様はとても心配していらっしゃる」

「お祖父様?」
「総領だ。俺は総領の孫で、カーリの兄の息子だ」








ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

カーリ:♀ 砂の民の娘

砂漠の修道院育ち。フウヤに付いて三峰にやって来た。

一人称が「わらわ」なのは修道院の主様に倣って。

シータ:♀ 三峰の娘

父は族長、祖父は医療師のエリート。本人は巫女。

何でも完璧にこなしているように見える。

フウヤ:♂ 三峰の民

売れっ子彫刻家。三峰では細工職人。カーリともうすぐ婚礼予定。

紆余曲折の人生を歩んだ末、独自の価値観を突き進む偏屈。

ヤン:♂ 三峰の民

フウヤの親友。目下はシータが気になる。

狩猟の名手で、部族内で将来を嘱望されている、何だかんだと要領のいい子。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み