3 ■光の中にいる人の真夜中の告白。

文字数 3,869文字

あまりにもな質問に、一瞬みんなの動きが止まった。

私は驚いたのと、なんで黒川さんそんな事聞くのっていう気持ちとで、史織と黒川さんの顔を交互に見る。
涼も困った顔をしている。

「うまくいってるから、今こういう新しい会社を作る話になっているんじゃない」
固まった時間を動かそうとして、私が明るくそう言うと、
「えー、なんで黒川くんそう思ったの?」
と、史織が笑いながら逆に質問をした。

「だって史織さんいつも深夜まで働いているし。僕が会社に入ったのが3年ぐらい前だから、その辺からずっとですよ。
今はだいぶ落ち着いたけど、一時の史織さんの仕事量ハンパなかったでしょう。徹夜とかもよくしてたじゃないですか。
それに、仕事がそうでもない時は、僕たちとしょっちゅう飲みに行くし。
誰だって、家庭は大丈夫なんだろうかって思いますよ」

史織がそんなに働いていたなんて知らなかった。
優雅なキャリア主婦かと思っていた。

カウンターの中のバーテンダーが、氷をアイスピックで砕く音と、シェイカーを振る音が、時折静かにbarの空間に響く。

天井には、木製の大きな羽の扇風機がゆっくりとまわっていて、その影がテーブルの上で揺れていた。

真夜中。
つい秘密の話をしてしまいたくなる、時間と空気が流れている感じがする。

史織が口を開く。
「うまくいってなかったよ」

えっ…。

「離婚しようと思ってた。少し前までは、ね」
「やっぱりなあ」って言う黒川さんの声と、「なんだよそれ」ってつぶやく涼の声と、
「ウソ…」っていう私のため息のような声が重なった。

そんな私たちを見て、笑いながら史織が言う。
「だから、ちょっと前まではだって」

私は、史織は光の中にいる人だと思っていた。
結婚しても自分の好きなことをやって、自分の道を進んでいて、そしてさらに愛する人をパートナーに持ち、順風満帆な人生を作っているような気がしてた。

同じように結婚している理沙子とは少し違って、うまく言えないけど、結婚をしあわせのゴールにせずに、結婚していてもその先の自分自身の人生を歩いている気がしてた。
なのに…。

「もう。みんなそんな顔しないでよ。今は、めちゃくちゃうまくいっているので、安心してください」
史織が、みんなを制するように両手を動かしながら言う。

「それならよかった。僕、正直、ふたりがうまくいってないなら、今回の新しい会社に移る話、どうしようかと思っていたんですよ。
でも、大丈夫なら、安心しましたぁー」
黒川さんが大きく笑いながら言って、ソファに体を投げる。
止まっていた時間が、再び動き出した気がした。

「なんでうまくいってなかったの?信じられないよ」
私がそう聞くと、
史織はジントニックが入ったグラスをぐっと飲み干して、話し始めた。

「井深とは、性格的に相性はすごくいいと思うの。結婚してからも、私を自由にしてくれたし。
前の会社を辞めて、フリーのデザイナーになりたいって言った時も、何も言わなかったし。結局フリーにはならなかったけどさ。
私も、井深がどんなに忙しくても、家にいる時間がどんなに少なくても、不満は言わなかった。お互いの干渉をしないことが、相手を尊重することだと思ってたから。
でも、私がどんどん忙しくなって、家に帰らなくても、彼が何も言わないことが続くと、
あれ?って思うことが多くなって。
井深は、干渉もしないけど、仕事の内容についても何も聞かないの。どんな仕事している?とか、大変か?とか。そういう言葉もない。
そしたらだんだん、これって、もしかして私に興味がないんじゃないのかなって思えてきちゃったんだよね。
まあ、私のわがままで勝手な考えかもしれないんだけど。
で、どこまでいったら、彼は怒るのかなって思って、意地になって働いてみたの。
でも、どれだけ働いても何も言われず。『がんばってるね』って言葉を聞いたことがあるかなって程度。
まともに会話するなんて、週に2、3回ぐらいだった。
稼いだよね。ふたりしてめちゃくちゃ働いているんだもん。でもそんなことしてたら、何か虚しくなってきちゃって。
私ってあなたに必要?って、結婚した意味が分からなくなった」

そうだったんだ…。

結婚しても自分の好きな仕事を、好きなだけやれるって、理想のような感じがしちゃうけど…。
涼が言っていたように、相手に必要とされていないって思うと、心は歪んでしまうんだろうか。

「でも、そんな時、1年ぐらい前かな、井深に話しがあるって言われて。ああ、これは離婚のことかなって思った。
そしたら、それが井深が自分で会社を作りたいっていう話だったの。自分の一生に一度のわがままだって言うの。
私には才能があって、彼はそれを信じていて、その才能のじゃまをせず、その才能を伸ばすためにそばにいることが、自分の役割で、誇りだと思っていたんだって。
でも、会社を作ることになると、私にもこっちを手伝ってほしいって。自分ひとりじゃ、今回は越えられないから、力になってほしいって」

私だったら、そんな事言われたら、うれしくて泣いてしまうかもと思った。
自分の仕事なんて、放り出してしまうかも、と思った。

「それを聞いた時、泣けた」
やっぱり。史織もそうか…。
「悔しくて」
史織?

史織はうれしくて泣いたんじゃないの?
悔しくてって、どういう意味?

「悔しいじゃない。会社を作りたいなんて、そんなこと、それまで全然言ってくれないなんて。
私の才能?そんなの言い訳だと思った。結局、井深は、自分のために生きていたんだもの。私の人生に足を踏み入れないってことは、私の人生は井深に関係ないことと同じだと思ったの。何のために、私たちは結婚したのかな。何のために、私は彼のそばにいたんだろうって。井深に泣きながら抗議した。
結婚ってそんなもの?って。
そしたら、彼、はっとした顔して、言葉を失くしていた。

もちろん私も悪いとは思った。自分の不安とか不満を言わないで、心にためていたのは。
でも、勝手なことだけど、それをあの人には分かってほしかったんだ。
彼なら、私の気持ちを分かると思っていっしょになったから」

考え方とか、感じ方って、人それぞれなんだ。
史織は深いな。
それに比べて私は…。物事を表面でしか見ていないかもしれない。

好きとか嫌いとか。好きだからいっしょにいたい。
いっしょにいられれば、それだけでしあわせとか。
そこまでしか思っていなかった。

その気持ちの先にあるものとか、その気持ちの根底にあるものとかを、考えようとはしていなかった。

「そういや、井深さん、すごく元気がなかった時期あったな。
その時、会社の仕事もピークに忙しくて、俺は新しい会社の事を知っていたけど、会社には内緒でそっちの足固めもしようとしていたから、二重に仕事していた状態だったもんな。俺、それが大変なのかなって思ってたよ」
涼が思い出したように言う。

「でさ、井深の会社の話を聞いてから、しばらくはぎくしゃくしてたの。

でも、涼が言うように、彼本当に大変だったみたいで、新しい会社の方の仕事っていうか、書類集めとか、法務局行ってこれを聞いてきてほしいとか、雑務を私に頼むようになってきて。彼の弱さを見せてくれたんだよね。結婚して初めて。
まあ、見せざるを得なかったっていうか。
私は、それがうれしかった。
何でだろう。自分でも、そうなるまでは、こんな気持ちになるとは思わなかったけど、彼に必要とされることで、ふたりで生きているっていう実感が持てたっていう感じかな。
で、ここ1年ぐらい、ふたりでバタバタ動いていたら、前よりずっと彼のことを好きになっていたし、尊敬も信頼もできるようになっていた。
新しい会社の設立は、もう井深の夢じゃなくて、私たちの夢になっちゃったんだよね。
だから、私もついついがんばっちゃうの。葵を巻き込もうとしたりさあ」
そう言って、史織が私を見てにっこり笑う。

なんか胸にじんときた。
夫婦のカタチもいろいろあるんだなって。

深夜2時。
もうそろそろbarも終わる時間になっていた。

涼と黒川さんは、ふたりでウィスキーのボトルを1本空けていた。

私たちの間に、史織の秘密をみんなで共有してしまった結束感みたいなものと、聞いてよかったんだろうかっていう罪悪感みたなものが交じり合った、不思議な空気が流れていた。

みんななんとなくふらふらした感じでbarを出る。
そして、エレベーターに乗った時だった。
「僕だったら、始めからひとりでがんばろうとしないかもなあ。最初から奥さんに相談して、頼って、いっしょに考えてもらうかなあ。
井深さんって、すごい強い人ですよね」
そう黒川さんがつぶやくように言った。

すると、
「涼だったらあ?」と少し酔った史織が涼に聞く。
「俺?俺だったら…。そうだなあ、井深さんと同じか、それか自分の夢を諦めるかも。
それで、離婚される。そこが俺の悪いとこなんだよなあ。きっと。
相手を犠牲にしてまでは、夢は追えないって思っているところが。
あ、俺何言ってんだ。
今日はなんか弱い所を突かれる日だな。史織にも、あおにも」
涼の言葉に史織は
「涼のばーか」と言って笑っていた。

エレベーターが、部屋のあるフロアに着いた。

「じゃあ、おやすみなさい」

その言葉で夜は終わっていった。
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