第3話

文字数 3,789文字

 朝久は尾根を早足で進んでいた。
 雨雲が墨汁を薄めた色で空を覆い、稲光が輝き落雷の音が響いている。
 朝久は草が生えていない場所を頼りに進んでいく。先に奥宮の堂が見えた。堂に近づき、扉に手をかけて引いた。鍵はかかっていない。
 内部は真っ暗で、光が窓の隙間から入り込んでいる。何も置いていない。
 朝久は草鞋を脱いで堂に入り、堂の扉を閉めてかんぬきをした。着物を脱いで隅に置くと、刀を脇に置いて壁に寄りかかった。暗い部屋と屋根に響く雨音で次第に眠気を覚え、意識を失った。
 扉を叩く音が響いた。
 朝久は目を覚ました。風ではないかと疑い、窓を見た。窓から入る光は入った時に比べて明るい。
 扉が大きく揺れた。
 朝久は人が来ているのだと分かった。「待ってくれ」端に置いてある半端に乾いている着物を着た。ぬるく、肌に張り付く感触がする。刀を差して扉に向かい、開けた。
 全身がぬれた、若い散切りの男が立っている。クチナシの匂いが僅かに漂っている。
「旅の者か、すまない。一人で使わせてもらっていた」
「気にするな。山は賊が回っているのだ、用心は当然だ」
 散切りの男は草鞋を脱ぎ、堂に入った。朝久の状態を見た。着物は半端にぬれている。「随分とぬれているな。何用で旅をしているのだ」
 朝久は散切りの男の状態を見た。散切りの男も全身がぬれているが、堂に入った時の朝久程ではない。「荘園の主から、村へ手紙を届けに向かっていた。早めに出ればよいと判断したが、裏目に出てしまった」
「判断は間違っていない。賊は天候のおかげでおびえている」散切りの男は顔をしかめた。賊は山の神への信仰が深く、天候や災害に強い恐怖を持っている。
「賊を避けるため、わざと今の状況で山を歩いているのか」朝久は散切りの男に尋ねた。天候が悪くなっているのを見越して山に来たとなれば、特別な理由がある。
「妻から村に向かうと書が届いたのだ。道祖神の呪いか落ち着かなくてな。分かれ道で落ち合うと書を送り、旅の支度をして向かったと言う訳だ。先程話した通り、天候が悪ければ賊には会わん。妻に天候の悪い時に出れば安全だと返したのだ、同じ日に出ると判断した」
 朝久はうなった。「妻と離れた理由は」
「妻が縁のある者が病に伏せたと聞いて、薬を届けに向かった。元より落ち着きがなく旅を楽しむ、変わった性分なのもある」散切りの男は朝久の方を向いた。「妻とまでは分からんが、女を見かけなかったか」
 朝久は散切りの男の言葉に答えなかった。自分が共をしていた女こそ、今同じ場所にいる男の妻だと感づいた。客死したと口に出すか迷った。動悸が全身に走る。
「少なくとも話には聞いていたのではないか」
 朝久は黙っていた。
「聞いているか否か、答えればいい。単純な言葉すら返せないか」散切りの男は立ち上がり、刀に手をかけた。
 朝久は扉に目をやった。扉は開いたままで光が差し込んでいる。
 散切りの男は、朝久の腰に差している小刀を見た。女が持っていた小刀だ。一瞬、笑みを浮かべると朝久に近づいた。「主の刀、知っておるな」刀を抜いた。素早く水平になぎ払った。
 朝久は転がってよけた。散切りの男が切りかかるのは予測していた。扉に向かい、裸足のまま、堂から外に出た。散切りの男の刀の振りから、剣客だと分かる。山道に出て刀を抜き、散切りの男が出てくるのを待った。散切りの男も裸足のまま外に出て、朝久の元に駆けた。足元はぬかるみ、小石が転がっている。
 散切りの男は駆けた勢いを生かして朝久に向けて、刀を振った。朝久は刀を振るのを予測していて、紙一重で避けた。思い一撃だ、うかつに弾く芸当はできない。
「妻の刀を持つか、ならば知っているな。奪ったか」散切りの男は刀を水平に構えた。
 朝久は散切りの男の言葉で話しても無駄だと分かった。切り捨てるしかない。刀を構える。
 雨が降りしきり、空気が震える音が上空から鳴り響く。
 二人は互いに一歩を踏まずに硬直している。
 朝久は散切りの男をにらみ続けた。相手は先程まで歩いていた分、疲労が溜まっている。持久戦に出れば有利になる。
 散切りの男は朝久の刀を見つめている。剣に恐れがあり、後の先を取る技量がないのは筋を避けた動きで予測できる。間合いに入れば切り捨てるのは容易だ。
 朝久の体に心音が響く。
 散切りの男は一歩を踏む。朝久は間合いに入ると悟り、すり足で半歩下がった。
 朝久は勘兵衛と散切りの男とが重なる。散切りの男の間合いに踏み込み、先に刀を水平に振る。横に回り込み、死角に動くと予測した。
 散切りの男はかがんで刀をかわし、朝久を切り捨てるために刀を引く。
 朝久は刀を引いた一瞬を逃さず、腕を伸ばして散切りの男の胸倉をつかむ。男は軽くよろけた。次いで脇腹にケリを入れた。ぬかるみで力が入らないが、相手の動きを止めるには十分だ。
 散切りの男は脇腹に激痛を覚え、目を見開き顔がゆがむ。刀を握る手の力が抜ける。
 朝久は勢いよく散切りの男の胸を突き刺した。刀の刃が散切りの男の体を貫通し、着物から血がにじみ出る。肉と内臓による反動はなく、一直線に抵抗なく貫く。包丁を寒天に刺した感覚に似ていた。
 散切りの男は呼吸できない。目が大きく見開いた状態で、片手で持った刀を大きく引いた。死を目前にしても尚、朝久を仕留めるのを諦めていない。
 朝久はかなづちを地面にたたきつける動作で、刀を地面に振った。散切りの男は突き刺さっている刀の勢いと共に倒れた。刺さっている刀が耐えきれずに折れた。片手を離すと脇差を抜き、散切りの男の喉を突き刺して大きく切り払った。切り口から血が吹き出す。
 散切りの男は意識が溶けると共に力が抜けていく。意識が消えると同時に、刀を持っていた手が地面に落ちた。
 朝久はあえぎながら脇差を軽く振って刃に付いた血と肉を払い、サヤにしまった。周囲を見回しながら力を抜いていく。稽古で勘兵衛が懐に入った時、対処する手段を模索していた。勝てたのは仮定に掛けた偶然だが、稽古を付けていなければ仮定はない。日頃の修練が勝敗を分けた。
 鋭い雷鳴が響いた。雨脚は次第に弱まり、空が明るくなっていく。晴れ間は見えず、灰色の空は変わらない。
 朝久の体に張り詰めている精神が、徐々に薄まっていく。後悔が内心から湧いて出てきた。妻を殺さねば夫も死なずに住んだのではないか。一時の快楽に身を委ねていれば、素直に死んだと答えれば、無駄な死体を山に積まずに済んだのではないか。散切りの男の死体に近づき、手に持っている刀と腰に差している白木のサヤを奪った。刀がなければ賊が襲ってきた時に対処できない。同時に、断ち切った剣客の生を引き継ぐ意思の表れでもあった。堂に戻り、荷物を持って出た。草履を履いた時、散切りの男が履いていた草鞋が隣に置いてあるのに気づいた。山から降りた時に供養すると決め、懐に入れた。遠くに雷鳴が見えた。間もなく鋭い雷鳴が響く。自分に雷が落ちれば二人の報いになるのではないか。涙を浮かべた。女が山の上に小屋があると言っていたのが脳裏に浮かんだ。他に泊まる場所がないので分かれ道まで戻った。
 雨脚が強くなっていき、視界が狭まっていく。散切りの男の死体が雨にまみれ、跳ねる泥で染まっていく。
 猿達が散切りの男の死体に集まった。散切りの男の手足や、目を見開いたままの頭を動かして興奮していた。
 猿の一匹が朝久がたどった山道を見ていた。山道をたどるべく動き出すも、もう一匹の猿がしっぽをつかんで止めた。猿達は山道をたどるのを止めて木の枝に飛び移り拡散した。
 朝久は分かれ道に戻った。女の死体はない。代わりに両腕を切断した賊の死体と腕が転がっている。
 朝久は腕を見た。小刀を持った1本だけが転がっている。喉に刃が突き刺さった形跡がある。肉は溶けていない。道を通る者が近い時間に腕を切り落としてから殺したのだ。
 死体が転がっているのは珍しくない。問題は死体の種類で、切った女の死体が転がっていない。雨脚が強いと言っても、死体が流れて下に転がる程の水量はない。分かれ道から坂を登る道を歩いて小屋に向かった。近くに足跡に似たくぼみがある。賊が死体を漁り、崖に捨てたのだと推測した。
 小屋は登り切った先にあった。
 朝久は身構えたまま、扉に手をかけた。反動はない。人がいないと分かった。雨風がしのげれば良いと判断し、扉を開けた。暗くて誰もいない。刀に手をかけた。「誰かいるか」大声を出した。何も反応がない。草鞋を脱いで上がり、扉を閉めた。かんぬきが欠けているので、刀をかんぬき代わりにした。着物を脱いだ。懐に入れた草履がなくなっているのに気づいた。脱いだ着物を振るも、落ちてこない。落としたのだと青くなったが、戻る気はない。諦めて荷物を置き、寝転がった。
 雨音が屋根に辺り、屋内に響いている。
 朝久は自問を繰り返していた。今まで快楽や好みで人を切った経験はない。生き残り、命を守って生を存続するためだけに人を切る。女は違った。命ではなく快楽を求めた。人は心の穴を他人に浸かって埋め合わせたがる。女は恐怖を埋め合わせるため、自分を求めたのではないか。女が指定した場所に向かい行為にふければ、互いに満ち足りたのではないか。後悔で吐き気がするが、時は戻らず切った人間は戻らない。意識が次第に消えた。
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