第3話

文字数 5,800文字

レジ下の棚に、バックヤードから持ってきた大量の割り箸のストックを無心で詰め込んでいく。空調が効いているはずだが、店の入り口付近を人が通るたび、いちいち自動ドアのセンサーが反応して開いたり閉まったりを繰り返しているため、蒸し暑い外気が流れ込んで冷風と混ざり合い、店内はぬるい温度で満ちていた。
平日の夕方だというのに客は一人もいない。そのおかげで業務が滞りなく進み総菜売り場には皿いっぱいのおかずが並んでいるし、弁当売り場にはノリ弁当、油淋鶏弁当、竜田揚げ弁当、回鍋肉弁当など売れ筋の商品を筆頭に様々な種類の弁当が所狭しと陳列されていた。
びっしりと並べた弁当たちをレジ裏から見下ろしていた世川は、この売り場を作ったのが自分だと思うと誇らしい気もしたが、あと一時間もすれば会計を待つ客達で店内が溢れかえることがわかりきっていたため、すぐに憂鬱な気分になる。
「もう少し作っといた方がいいんじゃないすか」
揚げ物の仕込みをしていた白いエプロン姿の少年が調理場から顔を出した。
「作りすぎて余らせてもと思ったんですけど……」
世川は割り箸をまとめていた袋を縛りながら返した。彼は高校三年生らしいのだが、アルバイト歴が世川よりも半年以上長く、何よりも高校生とは思えないほど落ち着いていて頼りがいがあるため自然と敬語を使ってしまうのだ。
「余ったら、持って帰っちゃえば良いんすよ」
彼は平然とそう言ってのけて、「俺、唐揚げ弁当食べたいからいっぱい作っちゃいます」と真面目な顔をして宣言し、再び調理場に引っ込んでいった。この弁当屋では、廃棄品を持ち帰るのは厳禁とされている。見つけた場合は社員が警察に通報するのが全店舗でのルールだという。しかし彼はそんなこと気にもせずに、売れ残った唐揚げ弁当をしれっと持って帰るのだろうなあと思った。世川はこの店でアルバイトを始めてから三ヶ月、一度も廃棄を持ち帰ったことがない。
縛って丸めた袋をゴミ箱に捨て、無人の店内をぐるりと見渡し、ガラス戸の向こうの通行人に目を向ける。厨房からは唐揚げを油に投入する音が聞こえてきた。学校帰りの若者や定時で退勤したのであろうスーツ姿のサラリーマン、たくさんの買い物袋を提げた若い女性、歩みの遅い老人など、多数の人間が一斉に同じ方向に歩いていくのは、店に背を向けて左手側に駅があるからだ。
皆、改札を出て自宅へと向かっていく。その道中で安価な弁当を売っているこの店は、帰宅ラッシュ時には永遠に捌き切れないのではないかと思えるほどの客で混雑する。
家路を急ぐ群れに逆流するように駅に向かっていく少数派の人々を見つける遊びをしていた世川は、ふと、黒髪の小柄な女が目に入った。頭の中で、先日はじめて言葉を交わした(交わしたというか、気を使った彼女が言葉をかけてくれたといった方が正しいだろうか)新島の大きな瞳とオレンジの香りが蘇る。
黙っていても人が寄ってくるであろう華やかな容姿に、自分の意見をさらりと口にできるキャラクター。それから、その場の空気を瞬時に読み取って嫌味なくフォローに回る器用さ。人の感情の機微に鈍い世川にもじゅうぶんにわかるほど、新島の立ち振る舞いは完璧であった。
宮田と彼女が親しげにしていたのも、きっとそこら辺が理由なのだろうと思う。容姿に優れコミュニケーション能力に長けている人種というのは、接点がなくとも自然と親しくなっていくのだ。中学や高校の頃、そういった人種がいつの間にか親密になっていることを不思議に思っていたが、今ならば、なんとなくだが理解できる。
考えを巡らせている間に、店内には客が二人入っていた。両方中年の男だ。客が入店したら「いらっしゃいませ」と声がけをするよう社員から教育されてはいるが、現在勤務しているのはあまりやる気のないアルバイト二人のため、客を歓迎する者はいなかった。
片方の男が何も買わずに店を出るのと入れ替わりに、細身の男が入店した。肩のあたりまで無造作に伸ばされた黒髪には見覚えがある。一瞬、幻覚か何かを見ているのかと思った。
「一ノ瀬?」
ここ最近顔を見せなかったため、何かあったのかと頭を悩ませていた相手が今まさに目の前にいる。
勝手に口からこぼれた言葉は彼の耳にも届いたらしく、世川を見、少し笑ってみせた。それから売り場に並んでいる弁当を二つ手にとってレジまで持ってくる。女の分だろうな、と思ったが、落胆を悟られることのないよう笑顔を作った。
「びっくりしたよ。偶然? 今日はここら辺に泊まるんだ?」
一ノ瀬は自分の家を持たず、複数の男女の家を渡り歩いていると聞いたことがあった。ここでアルバイトしていることは教えていたから、本日の宿へ向かう道中にでも顔を出してくれたのだろうと予想する。しかし、一ノ瀬は「いや」として、レジの段差によって珍しく彼を見下ろす形になっている世川を見上げ
「いるかなぁと思って、成城あたりから歩いてきた」
と、微笑を浮かべたまま続けた。
世川は、すぐには理解が追いつかず返答に詰まった。成城からこの店舗まで歩こうなどと考えたこともなかったから、すぐに距離感を掴むことができなかったのだ。
「ここまで、どのくらいかかった?」
「んー、一時間くらいかな」
節句した。急行に乗れば四駅で着くはずだし、所要時間は八分だ。
「電車を使えばよかったのに……」
「電車賃な、煙草を買ったら無くなったんだよ」
その金はきっと、宿の主から貰ったものだろう。煙草を買わないという選択肢はなかったのだろうかと思ったが、換気扇の下で頻繁に煙を喫んだり吐いたりしている一ノ瀬の姿を想起して、なかったのだろうと納得した。
「待ってるんじゃないの? その、相手の人」
「大丈夫だろ」
釣り銭と、レジ袋に入れた二つの弁当を受け取りながらあっさりと言う。相手はきっと、すぐに帰ってくると思っていた一ノ瀬が一時間も戻ってこないことを心配しているだろうし、この後さらに一時間待たされるのだと思うと不憫に思えた。が、その誰かわからぬ相手を長時間放ってでもこの男が自分に会いに来てくれたのだという事実が、世川の胸の中に厭な喜びとなって広がった。
そんな世川の心中を知ってか知らずか、機嫌の良さそうな一ノ瀬が思い出したように「あ」と声をあげ、
「明日、お前の家に行っていいか?」と続けた。
「うん。いいけど、何時くらい?」
「夜くらい」
わかってはいたが、彼の中に時刻という概念は存在しないようだ。明日は大学も昼過ぎに終わるしアルバイトも入っていないのでもちろん了承する。じゃあ、と空いてる方の手を上げて店を出ようとする一ノ瀬に制止の声をかけ、ジーンズのポケットに手を突っ込んだ。ちょうど、昼に大学の自動販売機で飲み物(今度はお茶にした)を買った時の釣りが入っているはずだった。
「帰りは電車を使いなよ」
三百円といくらかを握って差し出すと、一ノ瀬は間を置いてから首を横に振った。
「いいんだよ、歩きたいから。もうすぐ日が落ちるだろ、そうすると、空気も少しぬるくなってきて気持ちがいいんだ」
世川にとってはただ蒸し暑くてベタつく汗が忌々しいだけの夏の夜も、一ノ瀬にとっては散歩するに最適な気持ちのいい夜らしい。年寄りのようなことを言うなあ思いつつ、小銭をポケットの中にしまい直した。少しも共感は出来なかったが、本人がそう言うのならば無理強いはできない。する権利も持ち合わせてはいない。
一ノ瀬はさっさと自動ドアをくぐって、陽が傾き始めた外へと歩いて行った。いつの間にか客は一人もいなくなっている。ガラス戸越しにどんどん小さくなっていく彼を見送っていると、一度だけこちらを振り返って手を振ったように見えた。
振り返そうとしたところで、耳元で「知り合いですか?」と声がして、危うく飛び上がりそうなほどに驚いた。
声の主は、いつも定刻よりも三十分ほど遅れて業務を始める女子高生だった。制服を着替えるのに時間がかかると本人は言うが、スカートをスキニーパンツに履き替えるのにそんなに時間を要するのかという疑問が残る。しかし、女性従業員の少ない店舗なので口を出せる者はあまりいないのだ。
「あ、うん。友達」
友達と呼べる間柄ではない気がしたが、ややこしいので咄嗟にそう説明する。彼女は「そうなんですかあ」と、時折キラキラ光るピンク色のまぶたを閉じたり開いたりさせてから、「なんか、タイプ違う感じ」と笑った。
「お前、着替えたんだったら早く厨房に来いよ。溜まってる食器洗って米を炊け」
厨房から不機嫌極まりないという声が飛んできて、その後に、積み上げた唐揚げ弁当を両手に持った少年が慎重な足取りでやってくる。「え~私レジがいいなぁ。洗い物すると手が荒れちゃうんだもん」
「今日のレジ担当は世川さんだから」
つけ込む隙も与えずにぴしゃりと言って、売り場へと続くドアを足で器用に開けて弁当を並べ始めた。
「はーい」
彼女はこれ以上ごねても無駄だと悟ったらしく、エプロンの紐を結びながら厨房へと入っていく。その頭のてっぺんで結われた明るい髪を眺めていると、売り場から戻ってきた彼が「あいつは、何も考えないで喋るんで」と世川を横目で伺いながら言い、彼女の後を追った。それが自分に対するフォローなのだと気付くころには二人とも軽口を叩きながら各々の仕事を進めていて、世川はひとり遅れてやってきた羞恥に顔を赤く染めていた。
彼女が世川をどういう人種と判断していて、また一ノ瀬がどういう人種に見えたのかは不明だが、今までの経験上人と比較される時は大抵貶されているか見下されているかだと決まっている。少なくとも、褒められているわけではないのは確かだ。そしてそれは故意的に行われるものだけでなく、無意識下の場合もある。
今回は後者だったのだろうと彼の言葉を聞いて確信を得た世川は、年下の男の子に全てを見抜かれ、果てには慰めの言葉までかけられたことを情けなく思った。
他人から、意識的ではないにせよ下位にランク付けをされているのだと感じることはこれまでも幾度もあった。相手にそのつもりはなくとも、言葉の端々に、ふとした時の扱いや目線に、それらは水に流し込まれた油のように、はっきりとした違和感となり現れる。その油は、世川の胸の中で溶けることなく残り続ける。
普段は鈍いくせ、そういう部分にだけ敏感になる自分が、繊細を盾に暴れ回る化け物のように思えてうんざりした。
そういえば、と、客足の増え始めた店内をぼんやり見渡しながら思う。一ノ瀬の振る舞いから、そういった軽視的なものを感じたことは一度もない。だからこそ自分は酷く彼に惹かれているのだろうかと考えたが、しかし、それならば宮田だって世川を軽んじた言動なんてとったことはない。世川はもちろん、宮田に対して情欲などを覚えたことは一度もなかった。
どうして一ノ瀬なのだろうか。彼と宮田の何が違うのかを挙げていこうとしたが何もかもが違いすぎて収集がつかず、そうこう黙考しているうちに客がレジに並び始めたため、世川はその対応に集中することにした。

十時になり夜勤組と交代した世川が裏口から店を出ると、従業員用の吸い殻入れの前に人が立っていた。
一瞬ギョッとしたが、外灯に照らされた顔は紛れもなくこの店の社員だったため、「お疲れ様です」と小さく言って頭を下げる。険しい表情でちら、とこちらを見た男は、確か名を倉持といったはずだ。
アルバイト先の人の名前はほとんど覚えていない世川だったが、倉持は誰に対しても厳しく滅多に笑わないことで悪い意味で有名だったので、嫌でも覚えてしまっていた。例に漏れず、世川も高圧的な彼のことが苦手だったのでそそくさと帰ろうとしたのだが、
「君さ、どうしてバイトしてるの」
倉持が夜の闇に溶け込むような低い声でそう言った。
志望動機でも聞かれているのかと思ったが、それはもう面接の時に適当なものを話してある。多分、金を稼いでいる理由を聞かれているのだろうと考えて
「生活費の足しにするためです」
と、あながち嘘ではない理由を述べた。両親の無い世川の生活にかかる費用は、大学を出るまでは母方の祖父が負担してくれると言っている。だが、ほとんど会ったこともない祖父に甘えっぱなしになるわけにもいかない。今世川が住んでいる家だって、本来は祖父のものなのだ。
「へぇ、真面目だな」
嫌な響きだった。
アルバイトを始めた理由はもう一つある。大学では、学業とアルバイトを両立させている生徒が大半(アルバイトの方に重きを置いている者もいる)であったため、世川もマジョリティの一員になるのが狙いだった。また、十八にもなってアルバイトをしたことがない人間は珍しいのだと知って焦ったからでもある。もちろんこれらの理由は倉持には伏せた。
「真面目だけど、要領が悪い」
彼は短くなった煙草を吸い殻入れの中に落とした。
「作り置きの数が圧倒的に足りない。暇な時にあれを作っておくのは君の仕事だろ?もう入ってしばらく経つのに売れる数の予想もできない。だから注文数が増えて厨房が大忙しってわけだ。厨房担当からしたら迷惑な話だな。おまけに会計も遅い。あれじゃ一ヶ月前に入った高校生の方がマシだ」
まるで目の前に台本でもあって、それを読み上げているかのように淡々と言葉を紡いだ。
「それに君、接客嫌いだろう。笑顔も対応もぎこちなくて見ていて気に触る。他のバイトを探した方がいいね」
倉持は、世川の返事を待つことなくじゃりじゃりと小石を踏み締めて裏口へと向かっていく。立ち尽くしていた世川はドアの閉まる音でやっと我に返り、首を捻って裏口を見やった。ドアは何事もなかったかのように沈黙し、更衣室の光が微かに漏れているだけだ。
街灯が点々と灯る夜道を、疲労感の積もった足を引きずるみたいにして歩いた。飲食店の光も、大きい声をあげる人々の姿形も視界に入れたくなくて地面を見つめる。
安心感を得るために始めたことが、より世川の不安を明確に、浮き彫りにさせていく。
目に映る真っ白いスニーカーが気味の悪い物に思えてきて、二足とも脱いで道中の公園のゴミ箱に捨てた。手が震えていたため脱ぐのに手間取り、靴下も巻き込んでいたとあとになって気づいた。
アスファルトは夏の夜でもひんやりと冷たい。目元をごしごし擦ると、粘着質な音がたった。今すぐに一ノ瀬に会いたくてたまらなかった。

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